第9話 撮影者
暗がりの夜、ただ一人、辺りを覆う闇は廃墟の体一つ。あまりにも大きくて果てしない時の流れを誇る孤独とその中へと踏み込む小さくて刹那的な孤独。二つが交わりあう時、孤独は成り立つものだろうか。
ただ一人で廃墟を歩く男はカメラを回していた。割れた窓ガラスの数々、手つかずの花瓶にはすでに花の姿などなく、いつになれども取り壊されることなく佇むそこは奇妙そのものだった。
ホラー映画の撮影に使えそう、などと偏見塗れの思考を仕舞い込んで歩き続ける。蜘蛛の巣によって独特の模様が描かれた壁は色とりどりのスプレーによって飾りをつけられている。元々の施設の機能はホテルだろうか、そのような気高く長い廊下には不釣り合いのペイントは落書きの証。
歩く度に細かな音がそれぞれの音色を奏でながら空虚を打ち破る。シャンデリアが下がっていたはずの天井にはコードが寂しく下がっているのみ。
「多くの客が泊まってたんだろうな」
勝手な想像を巡らせる。客室の一つ一つには同じものが置かれていてそれぞれ違った顔をするようにどれもこれもが異なる汚れを染み付かせていた。
一階へと降りる。事前に一度上ったはずの階段を見つめ、心臓の動きが加速していった。この階段を降りている途中で抜け落ちてしまわないだろうか、そういった恐怖心が芽生えていた。
カメラと照明を当てて傷んだ床とところどころに開いた底なしの目を思わせる暗い穴を見つめながら階段を慎重に降りて。
ただただ震えながら降りる階段。もしもこの場で動けない状況に陥ってしまった場合、助けが来る可能性はほぼ無いといっても過言ではなかった。先ほど見かけたスプレーの落書きを施した人々はきっとその日の事などアルバムに仕舞って社会に出て真面目を装っているか本当に真面目になって働いている事だろう。或いはこの頃から特に変わることなく今でもどこかでやんちゃ坊主の延長線上を駆け抜けているか。
例え後者であったとしてもそのような人物に頼るには来訪の確実性がなかった。
想像を巡らせて震える脚を無理やり動かして進む。階段の踊り場に空いた穴の数々が確実に朽ちていることを証明していた。降りた先に待つ廊下、大きな扉をくぐれば内設のレストランがあるようだがそこには目を向けずに裏口を目指す。スタッフ専用のドアをくぐり、通路を渡って着いたそこは厨房。様々な食材の血や肉を散らしてきたそこは静まり返った廃墟という場所と考えたら物騒にも思えてくる。水栓を捻り、何も出てこないことを確かめて次の場所へと向かおうとした時。
突然、天井を叩く音が響く。
予想の外側から襲って来たそれに驚きを露わとしてしまうものの、冷静なる心情を取り戻して推察する。
恐らく原因は家鳴りか誰も立ち入らずに老朽化が進んでしまったが為に久々の侵入者の足取りで崩れた個所が出てきたのかもしれない。少なくとも心霊現象というものは幻であり、心の幼い者が勝手に信じて作り上げただけのファンタジー。
後にインターネット上に流す動画の字幕編集のネタを手に入れた喜びに震えながら手帳に書き留めて立ち去り、そのまま家に帰ったのだという。
いつにもまして厳しい寒さを感じていた冬はどこへと流れ去って行った事だろう。
秋男は詰め所でカップラーメンを啜りながらこれまでの働きぶりに加えて未来を想像する。これから先、遠い未来に向けてずっと同じような仕事を続けていくのだろうか。
世間はあまり明るいとは言えない。とはいえ金がなくとも世間の中では比較的明るい道を進んで行けているという自負はあった。
この世界には危機から人々を救うヒーローもいなければ明るいだけのハッピーエンドもない。学生時代にはそう理解しつつも心の隅のどこかで淡い期待を抱いていたものの、それが全て目出度い夢だと完全に悟って以来、ヒーローなどというものがいかに弱い存在か思い知らされた。
絵や音楽で有名になる人物、書き綴ってきた文章が世間へと広く流通する人々、テレビの中の物語で華々しく活躍する者。彼らへの憧れなど遥か彼方の追憶の底にあり。
そんな秋男に対して声をかけてくる人物がいた。先輩の一人で、廃墟探索をしてはサイトに動画を上げるというまさに理解しがたい存在。
昔はテレビ局に心霊動画を送ろうとしたこともあっただろうか、思い出しては懐かしさに浸り口の右端を吊り上げながら話に耳を傾ける。
「この前あの女上司の怪奇現象の相談に乗ったんだよな」
疑問に対して疑問を抱いてしまう。どこからそのような話が広がってしまったのだろう。考えてみるものの、本人以外の可能性はゼロの方向を向いていた。
「はい」
聞き届けて一度頷いて、男はカメラを取り出した。
そこに流れる映像に映る男は本人のもの。すぐに背を向けて歩き始める。壁を指して、カメラも指について行く。壁に描かれた様々な落書きや蜘蛛の巣、朽ちた壁の破片が薄汚れた床の大きな汚れ模様となる様を見つめても秋男は言葉を出せない。
更に進み、階段を降りていく。やがてたどり着いた厨房での音を聞いてようやく言葉を見つけた。
「もしかして、これか」
「いや、そうでもあるが違う」
男はカメラの画面にて流れ続ける映像を指し、秋男を見つめる。圧のこもった数秒間で秋男の注目を奪い、硬い声で告げた。
「一人で撮影したのに何で俺の探索を後ろから撮った形になってんだよ」
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