第8話 人形
夜の闇は明かりをも飲み込んでしまう。ちょっとした人類の工夫がかろうじて歩けるような明るさをもたらす。
結局またしても上司の女へと送ることが叶わずその場でただ一人歩いている。何故だか一向に予定が合わない、これもまた運命の巡り合わせのいたずらということか。
秋男はぽつりと歩きだす。明日が休日だと思えない程に空しくて背に乗る負の感情が膨れ上がっていた。そこで一つ、ようやく現状を打開する術を思いついた。というよりはその思考を遠ざけていた、必死になって避けていた。
やるしかないのだ、明日、上司の家に直接届ける他なかった。
秋男は深呼吸を繰り返し、肺の中の空気を入れ替えて鮮度を保つ。夜の澄んだ空からは想像も付かないほどに薄汚れた空気は車の排気ガスの仕業だろう。はた迷惑な話だと感じながらも将来世話になる道具なのだと心に留めながら社会色の空気を再び深く吸い込む。
星の輝きは明らかに力を失っていた。空から受け取れる幻想の力など、現実の深みには一歩たりとも及ばない。
無事に帰宅できたことに大きな安堵を得る。昨日のような現象には遭いたくなかった。心霊現象を楽しむことが出来たあの日々を愛しく思ってしまう。社会に混ざり込み、余裕を失うまで働くということがどのようなことなのか、今ここで思い知らされたような気分だった。
家のドアを開き、小春の姿を目にして疲れを帯びた弱々しい笑顔を浮かべる。彼女の姿は既に濃いピンクの分厚いパジャマに身を包んだ睡眠姿勢。きっとそのまま寝てしまうことだっただろう。
「ただいま」
「おかえりアキ」
ようやく会えたこと、大好きな彼の顔を見つめる事が好きなのだろうか、小春の笑顔はあまりにも輝かしい。
「また渡せなかったんだね」
「そうなんだ、予定合わなくてな」
秋男の笑みの意味が変わり果てたのは時の流れの偉業なのだろう。小春と暮らし始めた頃には心霊に対する興味で満ちたものだった。今では彼女と分かち合う大人の笑顔に姿を変えていた。
そんな彼が休日に小春以外の人物に会おうと思ったのは初めてのことかもしれない。春斗に会う時でさえ会社の帰りに寄るという形を取っていたのだから。
「明日直接渡そうかなって思ったんだ」
「私も行こうかな」
小春の瞳に宿る他の母への興味は確かな形で燃えているようで安心を得た。
「是非。多分俺らの子が生まれたらいっぱい世話になると思うぜ」
簡素な夕飯を済ませて食器を洗い、シャワーを浴びて床へと就く。流れは綺麗なもので、明らかに手慣れた態度。節約という言葉を胸に、いつの日か生まれてくるだろう子のために今の内に金を貯めるだけだった。
起きた時には土曜日の昼の空。太陽はあまりにも遠く、気を抜けばそこにあることを忘れてしまいそうな寒気に覆われた季節の決まり事を肌で感じていた。
身を起こしてすぐさま着替えて米とたくあんといった質素な朝ごはんをすぐに平らげコーヒーを流し込むように飲み干して、小春と顔を合わせてお土産袋を指した。
「向こうの昼の後だな」
電話をかけて予定を取り付けて秋男は出かけの準備を整える。昨夜の色からは想像も付かない青空はあまりにも爽やかで、その見た目に騙されて外気を浴びてしまえばすぐにでも凍り付いてしまいそう。
ある程度の厚着を用意して小春の化粧が終わるまで待ち続ける。お土産袋に入ったサブレで上司の娘は喜んでくれるものだろうか。マーマレードのマドレーヌやリンゴのタルトを選んだ方が賢明だったかもしれないと振り返りながらも帰ることのできない時間を忌々しく思い、やがて気分は薄れて晴れ空の色に染まった。
それからすぐさま上司の家へと向かって呼び鈴を押して。
迎えに上がった女と人形を大事そうに抱えている娘の姿に小春は目を輝かせる。
「かわいらしい娘さんですね」
「総員一致」
「そういんっち」
娘は抱きしめている人形の腕を動かしながらにこやかに笑っていた。
そんな姿に癒されつつも秋男は人形に漂う埃っぽい気配を見逃さなかった。あの子は霊に引き寄せられやすい体質なのだろうか。
秋男は必死に目を凝らす。かつて心霊スポット巡りをしていた三人の中では最も弱いとされているなけなしの霊感を働かせ、色の細かな違いや湿度の気配といった違和感を必死で探る。
その末に見えてきたそれ、娘の周りを見て驚きの感情を得た。周囲から娘をつかむいくつもの手が突然現れたのだから。
「だめだ」
娘から人形を奪い取る。力について行けない幼子は床に落とされるようにこけて泣き声を上げる。
「ちょっと、なにやってるの」
二人が目を向けた秋男の手につかまれている人形の姿に言葉を失った。しわがれた少女、纏っているドレスはぼろぼろに朽ちていて首が折れていた。
「そんなの買った覚えない」
上司も落ち着いてはいられないようだった。娘は人形の姿を目にして震えながら親へと向かって駆けて抱きしめて。上司はそんな娘の頭を撫でて抱き留める。
人形の手首をつかんだまま秋男は視線を落とし、ため息をついた。
「こいつは燃やした方がいいな」
日にちを跨いで数時間後、朝の陽気に照らされながら寺にて供養、塩を振って焼却したその日に上司の娘から電話がかかってきた。
「おにいさんありがとう」
明るい声、その裏に潜むいくつもの生きた心地のしない嘲笑が聞こえてきて秋男は思わず受話器から耳を離した。
「どうしたの」
幼子の声一つ、秋男は緊張に支配された全身が、強張った身体が向こうの目に映されていない事に心の底からの感謝を浮かべる。
「なんでもないよ、どういたしまして」
「これで終わりと思うなよ」
電話は突然切れてしまった。悪霊の嘲笑と叫びは体の芯にまでこびりつき、なかなか耳から離れてくれなかった。
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