第21話 地下鉄

 長く恐ろしい夏休みも終わり、後期の講義が始まった。初めの頃は講義の間の隙間時間でも大学の敷地内に居座り続けていたものの、最近はよく出かけるようになった。かつての怪我の事もあり必要な単位を全て取る事は厳しく、しかしながら能天気な態度が見受けられた。それはもはや諦観と呼ばれるものであろうか。

 絶望に塗れた日々、陰の射し込む日常の狭間に揺られながらある日の夜、春斗は秋男と冬子の二人とボーリングをして遊んでいた。背が低く目の下にくまのある目付きの悪い女、冬子が無理のない計画をと秋男にしつこく言ったが為の時間帯。彼女はどこまでも真面目だった。

 そうして選ばれたこの時間にて始まったボーリング。冬子の一投から試合は始まる。その球は冬子の細くて小さな指を離れて力なく転がっていく。初めは真ん中を進んでいたものの次第に端へと逸れて行き、やがて溝に入ってピンのひとつも倒す事なく穴へと吸い込まれていった。

「ふっ、冬子はやっぱり運動苦手なんだな」

 この半年以上もの時間の中で何度も確かめたはずの事を今更知った新情報のように語る顔から実態の見通せない嫌味のようなものを感じてしまうのは春斗だけだろうか。

「この俺秋男様のテクを見せてくれよう」

 言葉の後に繋がるように秋男の手から離れて音を走らせながら床を転がる球はピンを八本倒す。

「テクとか言っておいてストライクじゃないのか」

 冬子は嫌味ったらしい軽口に呆れ果てていた。

 それから笑いながら秋男だけが叫びながら愉快な時間と共に転がって行ったボーリングの結果は真ん中程度だが既に見えていた。

 秋男の圧勝である。大きく離された低い基準の中で冬子と春斗は良い勝負をしていたものの、途中のゲームでたまたますべてのピンを二度目の投球で倒し切れた冬子に差をつけられそのまま春斗が最下位という結果が下された。

 最下位となったことで飲み物を奢るようにと言われて自販機と向かい合う。缶コーヒーとオレンジジュース、そしてペットボトルの水を手に戻ってきた春斗。冬子にコーヒーを、秋男にオレンジジュースを手渡してボーリング場を後にして軽い会話を挟みつつそれぞれに飲みながら夜空を背にした息抜きの時間を終えて、そこからは特になにもなく三人は帰り始めた。



  ☆



 春斗は一人で地下鉄の駅へと入って行く。冬子や秋男は電車と車、みんな異なる道から帰る事となった。夜の地下鉄、終電は近くてこの日の終わりはすぐ傍にあるのだと告げられた。

 駅の通路を歩く。春斗を除いて誰一人としてその場にいない。まるで今だけは春斗専用のような駅、虚しさを感じていた。

 春斗はICカードを読み込ませて改札を通り抜ける。その時横を見ていつもとの明確な違いに驚きを感じずにはいられなかった。

 本来そこに立っているはずの駅員がいない。その光景を目撃してしまった春斗の中に嫌な予感が渦巻き、予感に従って先ほど通過した改札を戻ろうとする。

 その時、目線の先に異様なものの存在を認める。

 改札の向こう側、そこからゆっくりと歩く辿り来る影。それは薄っぺらさを感じさせ、確実に歩いているはずなのに動いているように思えない。

 誰もが利用するこの場所でそんな脅威に出くわしてしまうとは思いもしていなかった。不幸の嘆きを胸の中で響かせながら出来る限りそこから離れようと振り返りホームの方へと足を向けた。

 そこにはちょうど今、電車が入って来ていた。頭が視界を横切ると共に嫌な想像が浮かび上がって来る。電車に撥ねられた霊だろうか。無念の想いは未だにこの場に残り続けているのだろうか。

 目を閉じて念仏を唱えながら列車が止まるのを待つ。唱える念仏は途切れずに続いて行く。生き残りたいという願いから唱えられる言葉に込められた想いはただの祈りへと、恐怖からの逃避へと化していた。

 電車の走る音はやがて止まり、扉の開く音が静かでありながらも響き渡る。それと共に目を開いた。乗り込んですぐに閉じる扉の向こうを眺め、その境界で隔てられた向こう側の世界にあの影が張り付いていた。

 やがて電車は春斗の心に張り付いた不快感と共に走り出す。春斗は電車の席に座る事すらも忘れて考え事をしていた。そういえば異世界の駅とかあった。そんな言葉が脳裏を走り速度を上げ続ける。

 人生の中で蓄えられ続けて来た怪談や都市伝説と言った恐怖と共に生きる知識たち、それらが春斗の心に住み着いては叫び散らして恐怖心を恐ろしく増長させる。

 心臓の鼓動は驚く程に速くなる。今は孤独、いつもの友だちはいない。それはあまりにも心細くて恐怖はさらに増えていく。垂れ流されている冷や汗は止まることなく寧ろ勢いを増していた。

 春斗は怯え震えながら三つ先の駅を待つ。

 一つ目の駅、止まるそこで春斗の恐怖は跳ね上がる。しかし特に何事もなく。束の間の安心を得るものの、扉が閉じると共に再び不安に包まれた。

 二つ目の駅、今度こそ現れるのではないか、やはり恐怖は春斗を支配していた。実際のとこと何も現れなかったものの、不安に充ちた想像の中では一秒数えるか否かの時の進みと共にあの影が顔を出していた。

 三つ、到着。まだ終点ではないものの降りなければならないという事実。春斗は辺りを見回しながら出ようとドアへと近付いて行く。

 すると、突然先程の影が現れた。前触れの一つも無しに目の前に立ちはだかる影の正体は青白い肌の女。照明を受けないのか薄暗い姿は元々の形の歪な様をより一層際立てる。

 春斗は走って隣の車両へと逃げようとするも、車両を隔てるドアの前にあの女がいた。いつの間に移動したことだろうか。

「ドアが閉まります」

 その言葉を聞いた途端、春斗は一生懸命に走る。ドアをくぐりどうにか脱出する。

 閉まったドアの向こう、窓に張り付くような距離で立っている女の顔が一瞬目に入った。

 電車は動き出す。それと共に横へと去って行く女、恨めしそうに睨む顔は春斗にとってはあまりにも恐ろしかった。

 電車が通り過ぎて行って気を抜いた春斗は力を抜いて歩き出す。相変わらず人はいない。

 終電近くの時間ならそれが当たり前なのだろうかと思いながら力を抜いてだらしなく歩いていく。

 心を無理やり落ち着かせてホームを歩く春斗の足は止められた。縛り付けるような感触を受けて隣を見る。

 線路の下から先程電車で運ばれたはずの女が顔を覗かせ春斗の足首を渾身の力でつかんでいた。

 そのまま勢い任せに引っ張ってくるのだ。血走った目に近寄りたくないのだと必死に抵抗するものの、少しずつ引き寄せられてしまう。女が引っ張る先は線路、今そこに電車が入ろうとしていた。

 必死に抵抗する。死んでたまるか、霊が恐ろしい、力で負けている。少しずつ引っ張られて行く、電車へと近付いていく、死へと近寄って行く。

 もうダメだ

 そう思った時、もう一つの感触が春斗を襲う。引き上げるように肩をつかむ感触が固くて熱くて。春斗をそのまま引っ張り内側へと引き戻していく。

 春斗は驚き振り返った。

 掴まれた肩を辿るとそこに立っていたのは紺色の制服と会社のエンブレムのついた帽子。彼の正体は駅員だった。

 人など誰もいなかったはずなのに、そう思いつつ辺りを忙しなく見渡すと共に聞こえ始める人々の声。

 最初から人はたくさんいたのだ。春斗は今度こそ安心し切って床にへたり込む。

 駅員は春斗に声をかけた。

「大丈夫か、おかしな行動が目立ったので酔っ払いかそれともって思ってね」

「実は霊が出まして」

 それのひと言を耳にした途端、駅員は表情を固くして口を開く。かつてこの線の何処かの駅で事故があったのだそうだ。男が一人で飛び込み轢かれて死んだ。その死体は片付けられたもののそれ以来、時たま引き寄せられてしまう人がいるのだとか。

 その際人々はみな口々に霊がと震えながら言葉にするのだという。

 話を聞いて春斗は礼を告げて駅を後にするも、歩きながら大きな疑問を見つけてしまった。駅員は男だと言っていたものの、春斗が出会ったのはどのような存在だっただろう。

 確か女のはずだった。髪を乱して目を血走らせたあからさまな幽霊。恐らくは過去に男によって春斗と同じような目に合って電車に撥ねられた女の霊なのだろう。

 怨みは連鎖し、続いていく。次の人へとバトンを渡すように引導を渡すのだろう。

 これまでも、そしてこれからも、その駅では人を死へと導く者が代わり替わりに現れては生きる人々の中から目を付けた人をそちら側へと引っ張っていくのだろう。恨みのバトンはしっかりと受け継がれていく。負の感情で出来上がった物語を考えるだけでとても恐ろしくて仕方がなかった。

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