第20話 図書館

 春斗の夏休みは終盤へと差し掛かっていた。太陽の光は遠慮というものを知らないのか、容赦なく地上に降り注いで世の主役を気取っている。

 あまりの暑さに顔を顰めながら歩いて行く。おろしたての安物の靴で踏むコンクリートの歩道の感触はどこか違和感があり、それが楽しく感じられた。地を鳴らす靴の音は自分の歩く速度と同じで心地よい。想いと同じ速度で足は動き進んで行くだけ。彼が足を運んだそこは市役所に併設されている図書館。子どもたちが学校の外にある図書館と聞いて思い浮かべる大きさと比べて失望してしまわないだろうか。心配を抱いてしまいそうなそこは規模など気にかけていないようだ。

 ここまで身を運んだ理由など大それたものでなければ意識が高いものでもない。ただ暇つぶしの為というだけの事。

 あまりの暑さに身体を揺さぶられている春斗はそこへと吸い込まれるように入って行った。古びた本の香りが流れる空気に閉じ込められた空間はしっとりとした落ち着きを与え、香りの元へ、本棚へと誘われてしまう。

 もはや時間つぶしの避暑だけとは呼ぶことの出来ない様だった。

 そのまま本を手に取り机へと向かおうとした時、壁際に立っている青白い少女を見つけた。春斗ですら名を聞いたことのある著名な作家の本を抱いているその少女からは死の気配が漂っていた。



  ☆



 後日、相変わらず夏休みが終わろうとしているというのにも関わらず恐ろしい暑さが暴れる気温で、春斗は汗がにじんだ服が張り付いて来る感触を忌々しく思っていた。

 ゆっくりと歩く春斗に精一杯の足取りで横に並ぶ背の低い女、目付きが悪く目の下に深く濃いくまを刻んで薄暗い印象を与える同い年。肩まで伸びるサラサラとした黒髪が特徴的で春斗と仲の良しな女、波佐見冬子を連れて例の図書館へと向かっていた。

 冬子は市役所の片隅に設置されたようなこじんまりとした建物を目にして疑問をぶつける。

「そんなとこに本当にいるのか」

「もちろん」

「春斗の見間違いかも知れないが」

 春斗は自信を目に宿し、いつもの姿勢や声に似合わぬ強い気持ちを抱いて答えた。

「絶対幽霊だったよ」

 春斗の目を見て信じることにして入って行く。二人並んで歩く男女はきっと周りからは目立たない者同士での恋愛関係だと思われていることだろう。

 昨日と同じように本棚の近くの壁際まで足を運び、指して冬子の視線を誘導する。

「ほら、今日もいたよ」

 そこに立っている少女はこの前と同じ本を抱えていた。冬子はいつものあの気配を感じ取ったようで、いつもの言葉を零す。

「ああ、断末魔の残り香。確かに幽霊だ」

 冬子は少女が持つ本を確認して本棚に差してある仕切り板を見る。

「作者の名前からして恐らくこの辺か」

 それは著名な作家の有名な著書、そのような本が公の施設に収められていないという事はないはず。当然本棚にその作家の名を見ることは出来たものの収納されている本の中に例の少女が持っている作品だけが存在しなかった。

「やはりな」

 そう呟きながら冬子は図書館を管理している司書に訊ねる。整理整頓が雑な可能性、普通に貸し出し中であるだけの可能性、そんな道筋を思い描きつつも冬子の想像が現実に示される予感しかしない。

 ふっくらとした優しそうな中年の女性がそこに座っていた。首に提げられた札を見る限り彼女が司書であることは疑う余地もなかった。司書はパソコンと向き合いキーボードを静かに叩いていた。パソコンの画面を確かめる事が出来ない春斗はもどかしさを覚え、震えながら待っていた。

 その手を止めた司書は目を見開き、上ずった声を吹き出す。

「貸し出し中ですね」

 想像通りの言葉に冬子は安心を覚える。あの女子の怨念を晴らすことが出来るかどうか、それは間違いなくこの二人にかかっていた。

「それももう二年も返ってきてない」

 マウスを動かし履歴を表示したのだろう。遅れて出て来た疑問の言葉が静かな空間を揺らす。

「どうして今まで気が付かなかったの」

 それから誰に貸し出しているのか調べて受話器を手に取り電話をかける。

 コールが鳴ること幾度のことだろう。聞こえない二人には想像しか出来なかったものの、司書が肩書きと名を告げると共に声を切って受話器を落としてしまう。

 冬子が受話器を手に取り耳に当てると共に聞き取ったそれは苦しそうなうめき声と水から空気が上がるような音。ぼこぼこごぼごぼ、そうした音が当てられるような音は状況を容易に想像させてくれる。

 春斗が後ろを振り向くと、あの少女が先程までとは打って変わって白目を向いて苦しそうに口を開けてもがいていた。



  ☆



 謝り続ける司書に頭を下げ返しながら図書館を後にする。本来ならば怒られるような行為に出てしまったにもかかわらず当然の流れに行き着かなかったのは怪奇現象による非日常の悪戯だろう。

 振り返り、冬子は告げた。

「悪いとは思いつつもパソコン覗いて誰なのか確かめた。もちろん住所もな」

 それから歩き出す。迷いなく突き進み、やがて見えてきた建物へ、誰ともなく、或いは常にだれかを待ち構えているアパート。用も無しの人物では入りがたいそこへと理由を構えて足を踏み入れて、あの少女の部屋の呼び鈴を鳴らす。

 途端に開き始めるドア。ゆっくりと口を開けたそこから出てきたのは年老いた女性。心霊が見えていた通り娘を失い精神的に参ってしまったのかやつれ果てて潤いを失った肌をして、黒い髪は無造作で乱れ放題。目は日頃の疲れのためか血走っていて、焦点が合っているのかも把握できない。

 冬子は目の前の女性からただならぬ気配を感じて身を震わせていた。

「すみません、冬香さんのお母さまでしょうか」

 女性は焦点の合わない目を上に向けたまま感情すら込められない程に弱り果てた冷たい声を洩らす。

「冬香はもう出て行きました、ここにはいません」

 冬子と春斗は互いに顔を見合わせる。彼女の娘は出て行くという歳ではなかったはず。それともその時が最も幸せだという事の表れだろうか。

 生まれ落ちた沈黙を破る声が二人に向けて願いを力なく投げつける。

「娘はいないのでもう帰ってください」

 それだけ残してドアは閉められた。

 冬子は春斗の手を引いて速足でカフェへと向かって行った。コーヒーを頼み、下を湿らせる程度の気持ちで啜りながら冬子は語る。

「断末魔の残り香が少し染み付いてた。多分殺したな」

 その言葉で結論は見えてきた。あの女が今も生きてどうにか進み続けている事、運命の不平等な在り方に寒気が止まらなかった。



  ☆



 月すらも眠りにつくような静かな夜、アパートの一室にて女は蹲り座り込んでいた。電気を点けることも無ければ冷房も働かせずに置物のような扱いをしてしまっていた。

 女はかつて娘を育てていた。円満で模範解答のような幸せを過ごすだけの日々、しかしそれはある日、崩れ去って行った。音も無く瞬く間に粉々に砕かれてしまったのだ。

 夫が仕事で大きな怪我をして働く事が出来なくなってしまった。病院に行くも治る事はないと言われてしまい、手詰まり状態。それから今の状態を完成へと近づけていくかのように膨れていく借金、娘が中学生活を送る中で夫は遂に耐え切れずに自殺した。

 それから懸命に働くも厳しく苦しくツラいことに塗れていた。まともな金額も稼ぐ事は叶わずにギリギリの生活を送る羽目に遭っていた。

 それから娘が高校生へと上がろうというその時のことだった。娘が風呂に入ったその時に母は遅れて入り込む。その手を伸ばして少女の顔を風呂に沈めた。大切なはずの娘をこの世でない何処かへと追い出してしまおうと企んだのだ。

 娘は空気を吐きながら苦しそうに藻掻くだけ。その必死の抵抗も虚しく母の力に抗う術になり得ない。そのまま娘は命を落とした。

 夫は死に、娘にも後を追わせた。

 そうして平穏を手に入れたはずの母だったものの、今でも夜になる度に不穏な気配の訪れと共に蘇り、耳元で鮮度の高い悲鳴が聞こえて来る。

 娘が空気を吐きながら水の中で苦しみの悲鳴を上げる姿を思い出し、何度でも罪悪感と共に悲しき運命に身を委ねて大きなため息をついていた。

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