第13話 退院直前
白くて清潔な壁、リノリウムの床、廊下の端、光が射し込む窓。夢見心地を得られる景色ではあれども毎日見つめているがために有難みが失われていた。
春斗がそこから解き放たれる日はもう近く。自覚してようやくこの景色たちの美しさを思い出したという。廊下に立ち尽くし、窓から射し込む陽光に心を暖めながら様々な想いに浸っていた。
入院してから一度だけ来てくれた母はあの日、大切な息子に対してただひと言だけを残して去った。気をつけて。ただそれだけで終わらせたのは過干渉を嫌ってのことだろうか。
度々来てくれた冬子はいつでも優しく接してくれた。看護師を除けば最も会いに来てくれた人物。見た目に似合わない弱さをここでは自然とさらけ出してくれた。
「良い友達だよ、ホント」
この病院に縛り付けられる心霊たちによって幾度となく繰り返し響く心の叫び、春斗が抱いた恐怖、それは計り知れない程に深いものとたかだか一人が抱いた底が浅いにも関わらず深く刻まれた感情。彼らもまた、春斗と同じ生きることを望んだ者たちだった。
この二ヶ月近く、春斗は心霊以外の事でも常に迷い悩んでいた。前期の単位は出席日数の都合で全て取れない事が既に決まっており、それを倍以上の苦労を背負って取り返すかいっそ退学してしまうか。引き返すのなら今の内、この負担を背負うことの出来る器ではないことなど分かってはいたが逃げ惑い、足掻くように時間を稼ぐ選択を取ってしまう。
その場に立ち尽くしてこの世界の隅へと押し込まれた想いに身を馳せる春斗の肩を掴み引っ張る腕があった。そんな一つの行動が思考を現実へと引き戻していく。
「おい春斗、久しぶりじゃねえか」
その声は入院して以来聞いた覚えのないもの。いつまで経っても来なかったもう一人の友人のものだった。
「秋男」
答える言葉と入れ違いに紡がれる秋男の言葉が春斗を引っ張っていく。
「冬子が地味にキレてるぜ。早く戻って来い」
怒りを感じている人の近くには寄りたくないとは思っていたが、無視してしまえば更に機嫌を悪くすることだろう。良くないと思い春斗は病室へと戻る。
そこで仁王立ちして待っている背の低い女の目付きには明らかにいつもとは異なる鋭さが見受けられた。苛立ちが滾っていた。
「なんで私がお前の彼女ってことになってる」
「なんで」
間の抜けた返事に冬子は更なる苛立ちを募らせて早口でまくしたてる。
「あの看護師が私を『あの人の彼女さん』とか呼んでたぞ。否定したけどなんなんだアイツ」
つまるところ、勝手なうわさ話が呼び起こした怒り。春斗は納得の行かない表情で固まっていた。
「まさか春斗お前ホラ吹いてないだろうな」
恐らく絵を描いてくれたあの日の事だろう。春斗はあの時のことを思い返しながら否定した。
「確か良い友達って言ったら納得してくれたはずなんだけど」
「あの恋愛バカ女、患者の事信じてないんだな」
冷静さを失う余り日頃なら確実に守っているはずのマナーを、保つべき静寂を打ち破っていた。
「落ち着いて冬子、病室では静かにして」
その言葉を聴いて一瞬眉を歪めた後にようやく怒りを収める冬子。しかし、遺された雰囲気から機嫌の悪さが完全に見えている。
話題を変えるべく、秋男は明るい声で笑いながら鞄からあるものを取り出した。
「春斗ほらよ、いいもの持ってきたぜ。お前の好きな感じの本」
そこに写されていたものは肌色の写真。青いビキニと水滴に包まれた瑞々しい肌が眩しい太陽の輝きに照らされていた。
「お前の好きそうな女が載ったの見つけるの大変だったんだぜ」
「おいバカやめ」
春斗は慌てて秋男が手に持っている本を鞄に仕舞わせるも、しっかりと見つめていた冬子は更に怒りを燃え上がらせ、秋男への怒鳴りへと転換された。
☆
夜中がやって来た。いつもの暗い景色。学校や病院と言った空間はなに故に他にはない恐怖空間を作り上げてしまうものだろうか。
冬子からの差し入れのペットボトルに入ったコーヒーを飲みながら考えていたものの、ハッキリとした答えを思い描くことが出来ずに抱くもやもやとした気持ちと共に一気に飲み干す。コーヒーを飲むことで寝てもいられず眠りも出来ず、ただベッドに転がる人となってしまった。そこから経過すること十数分、突然の現象に頭を抱え始めた。
――トイレ行きたい
カフェインによる例の効果が出てしまったよう。初めの内は尿意に耐えていたものの、意識は更なる尿意を呼び込み集注力を無駄に高めてしまう。時間感覚が正常ではいられなくて一分が十分にも十五分にも思えてきて、更に寝付けなくなってしまったという事で恐怖感に足止めされていた身体を無理やり動かし夜中のトイレへと向かう事にした。
暗い、どこまでも暗い。一切見えて来ないそこを歩いていく。松葉杖の扱いにすっかりと慣れていた春斗は闇の中をある程度の速さで歩いていく。急ぎ急ぎトイレの近くへと歩いていく。
もうすぐだろうかこの辺りだろうか、というところで水の流れる音が聴こえてきた。
先客なのか自動洗浄なのか、どちらにしても手を伸ばしてくる恐怖に足止めを受ける春斗。目的地は手を伸ばせば届く程の距離であるにも関わらず、恐怖は少しの動きさえ許さずに春斗の頭の中を震え上がる程の恐怖で満たしてしまう。
もしもトイレから出て来たのが霊だったら。いつまでも誰も出て来ないトイレに入った先に待ち構えていたら。誰も助けは来ないのではないだろうか。
想いは加速して、根となって張り巡らされる。程なくして実をつけて落とす。それらは更に根を張って広がりゆく。
人間の想像力が恐怖から恐怖を作り上げて広がっていく。考える葦、そう呼ばれる生物の知能が必要以上のものを実らせ繁殖を促していた。
止まり続ける春斗の身体に反して尿意は止まることを知らずに増していく。大きく息を吸い決意を固めてトイレへと入って行く。頼りない明かりは中途半端に辺りを照らし、それがまた不気味な感情を膨れ上がらせる。
警戒心を抱えながら進み、特に何も起こらないことを確認してようやく安心感を抱いて用を足し、手を洗う。水を止めて当然のように正面を向いて対面した鏡、そこに映るのは自身の顔。ただそれだけでは済まされなかった。その脇に立っているのか歪んだ男の姿が目に入る。
春斗は慌てて後ろを向いた。しかし、そこにはただ黒々とした空間が広がるだけ。再び正面を向くと男の姿を目に収めることが出来た。先程よりも大きく映る男は明らかに近付いていた。
そこで春斗はもう一度後ろを向くものの、やはり何もいない。
またしても正面を向くと、男は目の前に立っていた。黒い服は喪服のようでその姿は歪んだ影のよう。
男は手を伸ばす。
春斗は松葉杖をつきながら逃げ出した。生きることで精一杯、逃げるだけで精一杯、懸命に杖を動かし急いで病室へと進み行く。
春斗は気配を嗅いでいた。あの男は確実に追ってきている。鏡に映りそこには見えない何か、それはきっと鏡から飛び出す何者か。彼もかつてはこの世界で堂々と生きていたのだろうか。
進んで、進んで、逃げ切るために進んで。
突如衝撃と痛みを身体全体で感じた。春斗の視界は乱れていた。松葉杖の脚は自身の身体と壁、否、身体と床の間に挟まれていて。春斗は転けたのだと理解するまでに数秒を要した。
立ち上がろうとするも慌てる心と焦る手では上手く扱えずに立ち上がれない。窓ガラスの方へと目を向けると霊の姿が映っていた。立ち上がろうともがいている間にも春斗の頭を掴み持ち上げようとした。
春斗は悲鳴を上げ、意識は闇へと落ちて行った。
☆
春斗が目を覚ましたのは看護師に揺すられた感触が届いたから。その目に映るのはすっかりと明るくなった床としゃがみ込む若い看護師。心配を届けられるも平気だと答えて立ち上がって病室へと戻る。
それから二週間と半分程が経過してようやく退院した。八月がもうすぐそこにまで近付いている。夏の本番は暇を持て余せばすぐそこにあった。
春斗は病院を遠くから見つめる。今の目には随分と小さく収まるそこは様々な怪現象が引き寄せられて集い渦巻いている場所。様々な事情や想いと共に彼らもまた、そこに息づいている。これまでの生活でそれを嫌という程に感じさせられた。
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