第12話 子ども

 入院生活も一ヶ月は過ぎたであろう。春斗は柔らかな質感の床に松葉杖をついて歩いていく。少しずつではあれども順調に回復しているようだった。

 リノリウムの床と白く清潔な壁で築き上げられた廊下は変わらない景色を伸ばしていた。見映えはしないものの、整った清潔感に心を洗われていた。

 右脚は未だにギプスを身に着けており、外れるまでの見通しも詳しくは分からない。脚が治るまではそう遠い距離を歩くことなど出来ないだろう。今日もまた腕を動かし道具の力を借りてどうにか歩いていくものの、腕の疲れはすぐに限界が近いと訴え始めてしまう。

 春斗は大学の単位は既に諦めていた。冬子と秋男の二人に置いて行かれる様を想像しながら歩くも追いつく像が浮かばない。今の不便がそのまま形になったかのよう。春斗は俯いて振り返り病室へと戻ろうとする。

 そんな春斗の目に映ったふと映り込んだのは幼い男の子。小学生としての生活三年目辺りの外見をしている男の子は病室のドアのすぐ隣の壁に寄りかかり春斗の方を見つめていた。

 春斗は男の子の薄っすらと透き通った身体を見てすぐさま悟った。

――きみも行き場に困ってるんだね

 入院費用は親に支払ってもらっていた。大きな金額を負担させ、更に留年してしまう。この時点で来年も大学に通っている姿を想像することが出来なくて、あの男の子に自分の姿を重ねてしまう。

 あの子と同じ行き場のない亡霊と変わりのない存在に過ぎなかった。

 目の前の男の子と変わりのない自分。果たして再び大学へと戻って二人と共に歩む事が出来るのか、それが正しい道なのか。春斗には確信が持てないでいた。

 男の子の霊は恨めしそうに春斗を見つめていたが、何か心情の変化でもあったのだろうか、不意にその姿を消した。

 春斗の視線の少し外側についているドアがゆっくりと音も立てずに横に動き、引っ掛かりもなく開かれた。

 そこから出て来た患者の姿を収めた春斗は目を見開いた。

 ドアをくぐり現れたのは紛れもないあの男の子。母と思しき大人の女性と手を繋ぎ、歩いていく男の子。その姿は先程の霊よりも弱々しくて細くて儚い。目を離した隙に消えてしまいそうなほどに曖昧で霧を思わせる。

――そっか、子どもか

 春斗には子育てをする未来など見えない。そのようなことを無事に遂行できる自信などありはしなかった。それ以前の話、将来の彼女の姿を想像してみてもその顔は霧に包まれて見る事すらも叶わない。


 きっと、この世の中にこんな男と交際するような女性などひとりもいない。


 紙よりも薄っぺらな事実、そう思ってしまう程に自分に似合った想像を抱えながら出来るだけ素早く松葉杖を動かして病室へ、あの男の子とは反対方向へと歩いて行く。

 立ち去り際に後ろから視線を感じた。低い位置から見上げ睨み付けて来る視線。意識を交わらせないよう、ただただ歩き続けるだけの春斗の背筋をしばらくなぞり続けているようだった。



  ☆



 病室に戻り真っ先に目に入ったのは背の低い女の立ち姿。鋭い目付きとそれを強調するように刻まれた深いくま、不健康に見える青白い肌は髪の重々しい黒さも相まってこの場所を風景に向き合うのは少し恐ろしい。

「ちょっとは動けるようになってきたな」

 いつもの可愛げのない表情と言葉の裏側に優しさを潜ませているのもまたいつも通りの事。冬子は春斗のノートに落書きをしていた。

「冬子、それ俺のノートだよね」

「表紙の裏だから問題ないよな、提出するわけでもあるまいし」

 そういう問題じゃない、などと言葉を返そうとした春斗だったがそれよりも気になることがあった。冬子がどのような事を書いているのか、或いは描いているのか。好奇心は目を向け知ってみせようとするものの、覗き込む仕草に感付いたのか、冬子はノートを閉じて後ろを向いてしまった。

「まだかけてない」

 しばらくは冬子の口は開かずノートだけが開かれる。表紙の裏と言う固めのページに何をかいているのだろう。

 知りたくてうずうずとし続けた沈黙の二十分。時の流れは緩やかで退屈を味わった末に春斗は気が進まないものの他にすることが無くて病院の怪談の本を読んでいた。

 正直に言うと否応なしに居座っている場所を舞台にした不吉な話を持ち込む事からしてあまり気分の良いものではなかった。

 大人しさの理由を目にしてしまったのだろうか。冬子は突然口を開いた。

「そんなもの読んでたら怖くて眠れなくならないか」

 もっともな言葉に春斗は頷きながら答える。

「他に暇つぶしのものもないし」

 無いよりは良いのか無い方が良いのか、分からないような黒々とした冗談の産物を睨み付けながら冬子は続けた。

「秋男のやつ、春斗の見舞いに行く気がないらしい」

「昔からそういう人なんだよ」

 春斗の人生経験が語っていた。秋男という男の本性はあまりにも分かりやすい。

「真面目な場所が嫌いというか、窮屈なのが嫌なんだろ」

 冬子は思い返し、同意を口にする。

「確かにな」

 それから少しだけ些細な日常の話をして、軽く微笑み口元を緩めて冬子は再び来ると誓って立ち去った。

 静かな病室に残された春斗は閉じられたノートを開く。表紙の裏、固い紙に描かれた絵の正体は目のくまのある可愛らしい少女が『ファイト!』と声援を送るというものであった。周りに花が彩られていて日頃の印象を見事に壊していた。

「かわいすぎるよホント」

 その絵に馳せる想い一つで明るくなり行く心は冬子への感謝を密かに抱えていた。



  ☆



 夜中、全ての空間は闇に閉ざされる。白い部屋は清楚な色を闇に沈めて死んだように眠る。

 春斗は正面から人類とは微かに異なる視線を感じていた。一か月前に一人の男をお持ち帰りした霊でもなければ、たまに現れる意思も感情も感じられないただの浮遊霊でもない気配。それは冬子の言う断末魔の残り香が視える霊。あまりにも綿密な怨念を放つそれはあまりにも分かりやすい悪霊。

 春斗は黒々とした視線に背筋をなぞられる。闇よりも闇色の視線が不安を煽り続ける。あまりの気味の悪さに春斗は怯え震え目を離すことが出来ない。

 始めは視線を感じるだけだったものの、突然春斗の目の前に迫って来た。

 カーテンを開くことも無ければ揺らしもしないで迫って来たそれは昼に見かけた男の子。身体が透き通る男の子は春斗を睨みつけながら呪詛を吐きつける。


 代わりに、代わりに……死ね


 早く……ボクを……助けて


 震えながら必死に首を横に振る春斗。受けごたえが気に食わなかったためか更に近付いて来る男の子。


 代われよ……代わ……れ…………よ


 男の子は手を伸ばす。その手が狙うものは春斗の首、命を奪おうと必死なのだ。春斗は手をベッドに這わせて後ろへと下がろうとするもそれは全く意味の無い事。

 微かにしか動かない春斗に男の子の手はすぐさま追いつき首を掴んで思い切り力を入れる。


 お前が死ね


 なんでボクが死ななきゃいけない


 透き通る爪は首筋に食い込み、小さな手は春斗の喉を締め上げる。

 春斗は手を思い切り振って抵抗するも、その手は寸の動きすら見せない。振っていた手はある物に触れて払い、そのまま床に落とす。

 その感触は固い紙、恐らくノートであろう。冬子の優しさが刻まれた絵が描かれているノート。可愛らしさは希望の明るさを持っていた。


 ファイト!


 春斗はどうにか息を吸って子どもを睨み付け、憎しみを吐き出す。

「誰が殺されてやるか、諦めろ」

 言葉の強さは心の強さとはなり得ないのだろうか。首を締め上げる手の力は更に強くなり、もがく春斗の意識を忽ち奪い去るのであった。



  ☆



 目を開いたのは意識が振動を見て取ったから。看護師に揺すられ起こされ時計に目を向ける。針が示す時間は朝七時。春斗の眠そうな顔を覗き込んで看護師は訊ねる。

「健康は大丈夫ですか」

「良好です」

 表情からして到底騙せるとは思っていない。看護師は一冊の本を手に取り春斗を諭し始めた。

「どうせこれ読んでたのですよね、いけませんよ」

 事実は要らない。恐怖体験など話したところできっとその本のせいにされるだけの事だろうから。

「病院で病院の怖い話なんか読むから怖くて眠れなくなるんですよ」

 昨夜の出来事は怪談の読み心地よりも遥かに鮮明な現実で、あまりにも身近な悪夢だった。今でも鮮明に思い出すことが出来る男の子の視線、そこに込められた怨みと不確かな冷たい手の確かな感触は体調を崩すにはもってこいだった。

「彼女さんだってこんなの描いてらっしゃるじゃないですか」

 看護師は床に落ちているノートを指していた。開かれたページに居座る彼女は本物よりも柔らかでしかし確実に冬子本人の絵。

「彼女じゃないですよ、友だち」

 看護師は微笑みを見せる。

「そうですか、とても良いお友だちですね。大切になさって下さい」

 その目には不信が積もっていた。明らかな桃色の幻想であり春斗の願望の一つ。看護師は確実に二人は付き合っているのだと思い込んでいるようだ。

 それから数日後、あの夜に春斗に恐怖体験をお届けしたあの男の子の病室を覗き込む。そこにいたのは全くの別人だった。年齢は遥かに上の男。表情や皺にこびりついた疲れは社会の厳しさを語っているようだった。

 看護師に訊ねたところ、男の子は手術に失敗してしまったらしい。

 春斗は今でもたまに思い出す。首を掴む男の子の小さな手を、怨みの籠った目を、そして欲望に満ち溢れたあの恐ろしい言葉を。

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