第3話 アパート

 大学の二回生に上がってからの春斗の生活からは自由が感じられなかった。

 講義とレポートという名の亡霊が毎日のように訪れては金縛りのように身を縛り付ける。教室や家、そしてバイト先という空間に縛られた地縛霊のような様、バイトも給料を貰う為に行ってやる気もなく働くという悪霊のような有り様であり、春斗そのものが幽霊のように思えて来る。

 春斗は許されざる悪事でも働いてしまったものだろうか。

 そんな冗談を舌に塗り付け後ろ向きの想いを巡らせながら春斗は今日も給料を貰いに行く悪霊として都会の駅前に建っているコンビニで働いていた。

 ここで働こうと思ったきっかけは女子高生と思しきバイトの子が可愛いからという色欲に塗れたもの。付き合えたら嬉しいと思いつつ面接を受け、無事に合格をもらったという事。

 当時は嬉しさのあまり心臓が踊り出し歩みも跳ねるようなもので、煌めく情でバイトデビューを果たしたものだった。

 しかしいざ働き始めると大して言葉を交わし合うこともないのだと気付かされた。上手く話題を切り出す事も出来ずに話しかけられても上手く話す事も出来なくて想いは怨霊のような黒さで己の心の内を遊泳し続けるだけだった。

 このような状況ではそばにいる可愛い女子高生が逆に邪魔に思えて仕方がなかった。

 女子高生はレジ前で堂々と宿題を進めており、態度は悪質。特に話しかけて来る時には憎しみすら覚える程であった。彼女が持ち込む話題の全てが宿題関係の事だからである。

 春斗は女子高生をひと目見て、良からぬ事を考えながらレジから離れて行く。

――さて、こうして品出しや掃除をしている間にお客さまがレジへと参ったらどうなるでしょうか

 棚に積まれたり掛けられている雑誌を一旦カゴに入れて棚を拭き始める。いつも以上に時間を掛けて確実に困らせようとしていた。

 そうしている間にもドアが開き、入店を報せるいつもの音が鳴る。普段なら鬱陶しいと思っているその音も今この瞬間だけは最大級の楽しみとなっていた。

「いらっしゃいませ」

 業務的に決まりの言葉を無造作に投げて再び棚を拭き始める。丁寧を心掛けることは悪いことではない、そう言い聞かせながら。

――さあ来いさあ行け思い知らせてやるのだ

 入店して来た人物は春斗の後ろを通り、立ち止まる。窓ガラスを鏡として客の姿を確認した。顔は見えなかったものの、体格からして恐らく女性であろう。見えている腰から膝の形が告げていた。掃除に必要以上の時間をかけて丁寧風を装っている。その時に後ろに立たれると監視されているような気がして気まずくて仕方がなかった。罪悪感は心臓を何度も叩くものなのか、鼓動が速くなる。焦りは汗となって春斗の身体を静かに確かに伝っていく。

――お願いします話しかけないで、通り過ぎて、早く速く

 黒々とした願いが通じたのか、後ろの女性は微かに笑って通り過ぎて行った。

 春斗は力が抜けたのか、尻もちをついていた。汚い床であってもお構いなし、それ程までに安堵は大きかった。袖で汗を拭い、強張っていた顔の力が抜け落ちる。

――なんで恐怖体験並みのドキドキを味わってるんだ俺

 この時を乗り切ったからにはあと一息。目当ての時間が来るまでに残されたそれは恐らく五分にも満たないであろう。しかし春斗が過ごしたスリルの時間は十分にも二十分にも思える大きな錯覚をもたらす。

 そしてついにたかだか一か月程度の積年の怨みを晴らす裁きの時が始まる。そう思っていた。

 しかし、春斗の想像は大きく裏切られる。

「すみません、レジお願いします」

 妙に太く高い声による叫び。明らかに作ったような不自然な声に違和感を覚えつつも、レジ打ちならそこにいるだろうと無言の愚痴を吹きながら拭き掃除の形をした復讐の続きに励む。

「さっきから棚拭いてるふりしてる人お願いします」

 やはり春斗を呼んでいるのだ。

「指名かよ、ホストじゃあるまいし」

 秋男の心でも感染してしまったのだろうか、薄っすらとぼやきながら春斗はしぶしぶレジへと向かう。レジの空いた方に立っていた女の姿、その既視感からの正体の確定。そこまでの一秒間を引き摺る驚きを隠せなかった。

「冬子、さっきの声どこから出してたんだ」

 見覚えのあった女、目の下のくまが印象的な彼女は一度咳払いをしていつもの低い声で話し始める。

「驚かしてやろうと思っただけ。結構苦しかったけどな」

 計画通りに行かなかったどころか別の罠に嵌められた春斗は悔しさを噛み締めながらやむを得ず冬子が差し出した商品を読み込ませていく。

「コーヒーを一杯頼む」

 目付きの悪い冬子から出て来た頼みの言葉は何故だか脅しのように見えてしまう。

「あと終わったらテイクアウトで春斗を頼む、カフェは閉まってるから最寄りのファミレス集合。名前はアキオのテーブルだ」

 その瞬間、春斗は全てを把握した。つまり今回の冬子は秋男の放った刺客なのだと。



  ☆



 バイトを終えた頃、辺りは暗く闇に閉ざされて行く。心霊スポット探索にはうってつけの環境が広がり始めた。涼しいどころか未だに肌寒い風の吹く夜道を歩く。この辺りは明るい闇よりは暗く、しかしあのダム程には暗くない。同じ闇の空でもここまで違うのだと最近になって改めて思い知らされていた。

 例のファミレスに足を運び、秋男と冬子の待つテーブルへと向かう。

 そこでは秋男がいつも通りに楽しそうに話していた。

「よお、粋なプレゼントだったろ」

「全然、宿題娘に赤っ恥かかせようとしてたのに」

「それは悪かった。ただのサボりと思ってた」

 冬子のばつの悪そうな表情を目にして春斗は笑顔を見せつける。恐らく冬子の方もサボりを貪る人物を許してはおけないのだろう。

「気にしなくていいよ。あの後成功したし何より知り合いが来てくれて嬉しかったから」

「そうか……知り合いな」

 気まずい空気を打ち破るのは秋男の仕事。これから入って行く話題こそが秋男の本命だった。

「これからひとつ、良いお知らせがあるぜ」

 秋男の口からそんな言葉を用いて切り出される話題など方向性は既に分かりきっていた。

「なんと俺のダチのひとりが事故物件に住んだんだ」

 アパートにて秋男の友だちが体験した事。前住んでいたアパートが大規模な改装工事を行うことに決まったため一時的に別のアパートに引っ越したのだそうだ。その引っ越し先は家賃も間取りも悪くはなく特に何も書かれていなかった場所で学校に近いため満足して選んだのだという。そうして心浮き立って住んだ家、しかし悲劇は一夜にして訪れたのであった。

 男が住んだ部屋は二階の一番端、右隣には誰も住んでいないと言う好条件の部屋の中、ベッドに寝転がり静寂と共に過ごそうとすると壁から何やら一人でボヤく声が聞こえてくるのだ。その声は呻くようなもので言葉は曖昧で聞き取れない。

――もしや移動遅れただけで今日から住んでんのか。同じアパートのヤツか

 そう思い、眠ろうと目を閉じるも例の声が気になって仕方がなかった。あまりにも耳障りな呻き声を黙らせるべく起き上がって壁の方を見たその時、気が付いた。その窓の向こうは暗闇の空白、つまりは外。そこに誰かが立っているはずもなく、しかし何やら声が聞こえて来るのは確かな事。その事実に怯えた男は意識を遠くに投げ飛ばしたのであった。

 それが秋男の友だちが体験した恐怖。そしてこれから秋男たちが立ち向かう恐怖。

「待った、そこに行くのか。私は嫌だ」

 冬子はそんな恐怖に自ら首を突っ込むのはゴメンだと示すべくはっきりと首を横に振る。そんな態度を窺った秋男は得意げな表情を浮かべてとっておきの考えを発した。

「分かった。じゃあお前は来なくていい」

 突然不要だと語る。本来なら喜ぶべき状況だったものの、仲間外れにされたように感じてしまう。

「春斗さえいれば充分だ。いざとなれば盾に使えば生き残れるしな」

 春斗は恐怖した。巻き込まれたら放置されるのだという事実を知って驚かない人などそうそういないであろう。

 そんなやり取りの末、冬子は溜め息をついて着いて行く事を了承したのだという。



  ☆



 次の日の夕方、例の友人は秋男の家に泊めて例のアパートに三人で居座る形と成った。冬子は秋男を睨み付けていつも以上に低い声で脅しをかける。

「春斗を盾にとか言ってたが実行したら絶対許さないからな」

「分かってるぜ、そうでも言わなきゃ俺ひとりだと『死んで来い』とかしか言われないと思ったからな」

 それは冗談なのか本気なのか、二人揃って分かることが出来なかった。それ程までにいつも通りの秋男だということだった。話しながら歩く三人、恐怖のアパートはそんな三人の目と鼻の先に来ていた。

「ここが悪霊の住まいだぜ、確か事故物件も一度誰か住まわせたら事故物件って書かなくていいんだよな」

 そうして貼り付けられた偽りの安全潔白、秋男は鍵を持って例の部屋へと向かった。部屋の前で冬子は鼻をつまみ、立ち尽くす春斗に対して静かに言った。

「断末魔の残り香が見える。これは悪霊の類いだ、気を付けろ」

 恐らくはここで何者かが何かの悲劇に巻き込まれ、断末魔の叫びを上げながらこの世を去ったのだろう。その残響はこの世にこびり付き続けて第六感持ちの五感に訴えかける。まさに無念の残滓なのだ。

 三人はアパートに入り、荷物を降ろす。それから検証開始の時間、夜を待つ。

 時計の針の進みは遅く感じて心臓の鼓動は早く感じる。早く終わって欲しい事が未だに来ない。いつまでも始まって欲しくない事が思い通りに来ないまま。良いのか悪いのか、冬子はただ部屋の隅を睨み付けていた。

「おい冬子、お前早く風呂入れ。俺も春斗も入ったぞ」

 冬子はただ一度頷いてその場を立ち去る。

「やれやれ、春斗も少しは話し慣れたか。可愛げもないし話しやすい方とは思うけどアイツじゃ練習にもならねえかもな」

「失礼過ぎる」

 同級生のことをどのように想っているのだろう。秋男の容赦のない言葉に春斗自身の言葉で返して。

「冬子もよく見たら女の子してるからな」

 秋男は缶ジュースのタブに指をかける。引き上げると共に空気が抜けるような心地の良い音が響いていた。

「ビールならカッコいいんだけどな、仕方ねぇか、あと一ヶ月ちょい待ちだな」

 秋男が大人になる。それに続いて冬子や春斗も大人になって行く。見えないもののくっきりとしている壁を抜けた先、そこで何が変わるのだろう。何も変われる気がしなくてひとり置いて行かれる自身が春斗には見えた。

「どうした……ああ、お化けが怖いのか。そうかそうか」

 一体どのような表情をしていたのだろう。春斗は自分の顔を触って確かめるも何一つ分からなかった。

 やがて冬子が戻って来た。シャワーを浴び終えた証の香りが春斗にとっては色っぽくて堪らない。

「じゃ、電気消して待つとしますか」

 秋男は電気を消して小さなランプを取り出す。頼りない光は恐怖の闇を消す事もなく、逆に希望にもなり得ないまま心細い輝きを灯し続けるだけであった。

 それから一時間が経った。

「何も来ないな、そろそろ時間だろうに」

 冬子のその一言、それが引き金にでもなったのだろうか。壁の向こうから呻くような声が響き始め、静寂は打ち破られる。

 声は不明瞭で曖昧。しかし確実に意味を持っていた。

「カーテン開けてみろよ」

 秋男の提案に従って春斗はカーテンを開けた。その瞬間。春斗は尻もちを着いてしまう。感情に従って後退りをしてどうにか距離を取る。窓の向こうに見えた影、それは疑いようもない人の顔。さぞかし恨めしそうに呻く男の顔。

 春斗は一瞬だけ目を逸らした。それが全ての間違い。

 冬子はずっと見つめていた壁の方を指して口を動かしていた。恐怖は言葉を吐く事すら許さず、冬子はただ不格好に口を動かし続ける。

「よくも……コ……ロシ……タ……ナ」

「ヨ……クモ……ヨク……モ……」

 突如明瞭になった言葉に驚きを隠せず、春斗はそばにいる冬子の肩を掴み震えていた。

「オ……マ……エモ…………イッ……シ……ョ…………」

 そんな呻きと足のない男が伸ばす手、そして金縛りにあい動く事すら許されない三人はただそこにて聞き続けるのみ。

 歩けないはずの男は進み始め、その手を秋男の方へと伸ばしていく。その手は秋男の首へと冷たい感触と冷たい感情をぶつけ続けるだけだった。



  ☆



 開かれた目を最初に出迎えたのは朝の日差し。春斗は昨夜の出来事を思い出して冬子を揺り起こす。冬子は目を擦りながら春斗の姿を目にすると、ただ「おはよう」とだけ言った。

 次に秋男を起こそうとするも、秋男の姿はどこにも見当たらなかった。

 狭い部屋に隠れる場所などありはせず、果たしてどこへ消えてしまったのだろう。

「秋男……秋男」

 見回してみたものの、何処にもあの不謹慎な笑顔は見当たらなかった。

「どこだよ、どこに行ったんだよ」

 行くあてもなく見失ってしまった存在のありかなど分かるはずもない。いなくなった事実だけを受け止めて悲しみに暮れて俯いていた春斗。

 そんな彼の肩を突然何者かが叩いた。

「なんて顔してんだ、昨日は怖かったな」

 それはいないはずの男。声の持ち主の方へと顔を向ける。

「生きてたのか」

 その男、秋男はいつも通りの笑顔を浮かべていた。

「もちろん。死ぬかと思ったけど生きてたぜ」

 どうやら秋男の話によるとシャワーを浴びていたらしい。朝の習慣に無駄な心配を持ってしまった春斗は恥ずかしさに顔を赤くした。

 対策も何も出来ない事を悟った三人は大人しく引き返して秋男の友人に引っ越しを勧めに行く。もっとも適切な手段は元凶から遠ざかる事、それだけしか言えることが無かった。

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