第2話 桜の木の下
地元のダムでの恐怖体験から一ヶ月近くが経った。三月の終わり、外を出歩けば咲き誇っている桜の姿を手軽に拝むことの出来る時期。春斗は二回生を迎えようと心の準備を始めていた。
あの時の一件以来変わった事と言えば新聞をよく読むようになった事。肩まで伸びるさらさらとした黒髪や鋭い目つきとその下に刻み込まれたようなクマのある背の低い女、下手な幽霊よりも幽霊に見えてしまいそうな同い年の冬子に新聞を差し出されて告げられたあのひと言が効いていた。
「昨日の件、多分割と最近の事件だ」
新聞など一切取っていなかった春斗にとっては決して知り得ないはずの事実、素行の悪い遊び一つを通して思い知らされたのは何とも言葉にしがたい。
自身が世界どころかこの狭い地域の事すら詳しく知らず大海のように思える小さな井戸の中を泳ぎ続ける蛙に過ぎないのだということをこの歳になって実感した。
それがあまりにも恥ずかしく思えた春斗は出来る限り住まいの地域周辺の出来事が書かれている新聞の朝刊を購読することにしたのだ。新聞とは世の時勢や時事を伝える歴史ある媒体。安っぽく感じられる紙に記された世の中の出来事を追っていく中で春斗にとってはそれが事実を記した小説のように思えていた。今となってはそれが楽しみの一つとなっていた。
コーヒーを飲みながら新聞に書かれた事実を読み込んでいく。
ある芸能人の不倫問題。スポーツの競技にて新記録を出した日本人。ある国の研究にて新たに発見された科学の世界の一端。
どれもが春斗が生きている間に起こっている出来事だというのだから不思議なものだった。スケールの大きな事柄が書かれた纏まりを超えたその目を惹き留めたのは住まいから近い場所での出来事。電車に乗って二駅程度、軽い気持ちで行ける大きな公園での殺人事件。夜中に起きたのだという事件の被害者は女子高生で犯人は未だ逃走中なのだという。
きっとその女子高生は苦しみの中で最期を迎えたことだろう。断末魔の残り香は無念の中で深く刻み付ける最後の生き様なのかも知れない。
新聞を読むことに集中している春斗の意識を引き付ける音が狭い部屋に響く。真剣な眼差しを崩して肩に入った力を抜くきっかけとなったそれは携帯電話のメールの着信音。
春斗はすぐさまそれを開いて確認する。
「よお、今夜空いてるか。もしヒマなら今夜花見しようぜ。お前が来てくれるなら冬子も来るらしいぜ、冬子が来なくても春斗だけは引っ張り出してやるけどな」
どの道行くほかないらしい。選択肢を持ち合わせないその指はすぐに了承の返事を打ち込み送信して携帯電話を閉じる。それから春斗は冷蔵庫を開き、コーヒーをコップに注ぐ。続けて冷凍室からエビピラフを取り出し皿に半分ほど移して電子レンジの中に入れ、簡単な昼ごはんを手早く済ませた。
☆
夜の空は明るく黒い。都会の辺りともなれば所々に細かな視界を与える街灯や建物の入口から零れる光に照らされていた。さほど暗くはない闇はそれでも残り続けるものだった。
春斗は歩きながらこの前三人で訪れたダムの事を思い出す。所々に頼りない電灯が立って弱々しい光を放つだけのあの景色。それこそまさに闇の中、薄々見える闇の中、電灯に照らされた血塗れの女は半端だからこそ気味の悪さを掻き立てる。
偶然の演出が世にもおぞましい光景を生み出していた。
「やめたやめた。この前会ったのがそことカフェだけだからって思い出さなくていいから」
根深い記憶として焼き付いたそれを振り払いながら歩いていた春斗が立ち止まったそこは近所のコンビニ。秋男と冬子は既にそこにて待っていた。
「こんばんは、春斗」
「あ、あぁ、こんばんは」
冬子の挨拶に対して頬に熱さを覚えながら挨拶を返す春斗。反射的な言葉を耳にしては秋男の目は愉快な情を示した。そんな秋男本人こそが愉快な存在なのだという事にも気が付かないまま。
「お前どんだけ照れ屋なんだよ、ウケるわ」
「秋男は春斗の事バカにし過ぎだ」
冬子に救われることに恥ずかしさを覚えていた。どれだけ自分が頼りないものか、この前から引き続き思い知らされていた。
「私だって最初はしっかり話せるか心配だった」
目付きの悪さと可愛らしさを感じさせない口調と声とは裏腹に心は案外繊細なのかも知れない、春斗は意外な反応に思わず顔を直に向けてしまっていた。
「ほら、今日は花見なんだろ。ジュースと食べ物買ってくぞ」
秋男に背中を押されてコンビニに入って行く二人。唐揚げやフライドチキンを多めに買う秋男とサラダやイカを買って行く冬子、春斗も倣うようにコロッケを手に取ると共に秋男はそれを取り上げて代わりに缶ジュースを手渡しニヤリと笑う。
飲み物を持つ役割は春斗が担うことになってしまったようだ。
☆
電車に揺られて運ばれる。足を着いたその地、その駅名に春斗は見覚えがあった。たまに出かけて通り過ぎるものや切符売り場などで見た名前とは明らかに異なるもの、もっと身近なところで見たという実感が頭をゆっくりと激しく揺らしていた。
大勢の人々が流れている駅周辺から歩いていく。初めと比べて少しずつ人は減っていく。どれだけ歩いたであろうか。駅からは大して離れたようには見えないが春斗にとってはそこそこの距離を歩いたように感じられた。
「運動不足だな、私。これだけで疲れるんだ」
冬子も同様に感じているようであった。そんな彼女は春斗の表情や息遣いを何となく感じ取ったのか、目を柔らかに緩めながら訊ねる。
「春斗もそうなのか」
見栄を張るような真似もしない春斗に同意しない理由などありはしなかった。
「俺も疲れたよ。やっぱ運動しなきゃな」
遠くから手を振る小さな人影を目にして春斗は呆れのため息を吐く。秋男は随分と先にたどり着いていたようだった。
「アイツかなり元気だよな」
「知ってた。羨ましい限りだな」
ようやくたどり着いた公園。広くも無ければ人の目を惹く程の桜景色でもない。そんな公園の名前を見て冬子が訊ねる。
「なんでよりにもよってこの公園を選んだ」
春斗はただ頷くのみ。二人が敢えて口にすることを避けていた理由は秋男によってしっかりと語られた。
「ったりめえだろ。俺ら三人揃って行く場所なんて例のカフェか……心霊スポットだけだろ」
秋男は初めからこの場所が目的なのであった。二人揃ってため息を吐く姿は打ち合わせでもしたかのような一体感があった。
「おめでたい男。春斗、来年はふたりでもっといい場所で花見しような」
「遠慮しとくよ。このふたりじゃ絶対盛り上がらないし」
「はたちになって酒入れれば勝手に盛り上がる」
顔を赤らめる春斗と下にくまの刻まれた目を細める冬子を眺めつつ秋男は桜の木の下でシートを広げて座り、唐揚げを食べ始めた。
「ほら二人ともさっさとこっち来い、唐揚げ冷めちまってんぞ」
春斗は渋々従ってビニールシートの上に座り、缶ジュースを取り出す。その一方で冬子はただ立ち尽くしていた。
「どうしたよ、紅一点」
冬子は秋男の方、否、秋男の向こう側、その奥の方を指して震えの混ざった声で恐る恐る訊ねる。
「そいつも同席なのか」
冬子の指先が示す方へと目を向けるとそこに佇むのは女子高生。灰色がかって見える肌は冬子と違った気味の悪さを露わにしていた。秋男の後ろから二人へと浴びせられる無念の視線が背筋を這いずり回る。
秋男は一直線に春斗たちへと目を向けてただ口を動かすのみ。
「心霊スポットって言っただろ」
そのような言い分が聞きたくて訊ねたわけではない。無言で立っているだけの冬子の排他的な目の色がそう物語っていた。
「よく言うじゃねえか、桜の木の下には死体が埋まってるって。何が出てもおかしくはねえんだっつーの」
「桜の木の下に死体って」
誰が言い始めた事なのだろう。確かにそのような事を聞いたことはあったものの、今は状況が違っていた。
「ここは公園だぞバカ。そんな物騒なもの埋まってるわけがない」
ただ感情に思考を任せて見つめていただけの女子高生が近付いて来る。足を動かしたわけでもなく、身体を動かしたわけでもなくただ滑るようにゆっくりと。少しずつズレながら確実に。
秋男は気が付いていないのか、それにしてもおかしいほどの無反応を示している。冬子の言葉を聞いているのは本当に秋男なのだろうか。そこに秋男の意思は残されているのだろうか。
あまりにも強烈な不気味の情に絶え兼ねた春斗の身体は震え上がり、目には力が入っているのだろうか、張り詰めるように見開かれ女子高生を見つめ続けていた。
近付いてくる女はやがて秋男の背中のすぐ後ろで立ち止まり、肩に手をゆっくりと伸ばしていく。
この過程をただ見つめていることしか出来なかった。
「春斗、逃げるぞ」
突然飛んできた強い声によって我に帰った春斗はようやく身を縛る震えを断って、秋男の手を引き精一杯駆け出す。先程の優位順と異なり秋男はただ虚ろな目をして引っ張られるだけだった。
☆
結局三人はその後、人通りの多い公園で花見をしていた。あのことについての気まずさが春斗の口を塞いでいた。秋男も同じく何も語ることが出来ないまま。そんな二人を見つめながらまず初めに冬子が口を開く。
「秋男、大丈夫か」
「おう」
ようやくひねり出した声に元気は宿っていなかった。明らかに参っているように見えた。
「結局あれはお前に取り憑いてたんだと思う」
あの女子高生が現れてからの秋男の反応、あれは明らかに普通ではなかったのだ。冬子は続けて質問を投げかける。
「いいか、答えてくれ。秋男はあそこで殺人事件があった事を知ってるか」
「殺人事件なんかあったのか。知らなかった」
その回答に春斗は言葉も発しないまま力なく開いた口を閉じる事が出来なかった。
「そもそも今日は花見に行っただけだよな」
秋男が言ったはずの心霊スポットの事、それを秋男は知らなかったのだ。
「やはり取り憑かれてたな」
そして冬子は自身の思う一つの結論を口にした。
「もしかしたら、あの桜の木の下には死体が埋まってるのかもな」
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