断末魔の残り香
焼魚圭
断末魔の残り香
第1話 ダムの溜め池
冬の空は灰色で冷たい風が吹き付ける。心までもが凍り付きそうな寒さの中、ある私立大学の幾つもの建物がある中の友人がよく出入りする建物の前の広場のベンチにてある男が座っていた。
――寒いんだけど。なんでここで待ってなきゃいけないんだ
その男は短く黒い髪の生えた自身の頭を掻きながら友人を待っていた。
そんな哀れな男の名は鳴見春斗。大学一回生という始まりの学年をギリギリの成績でどうにか切り抜けた男。取り立てて顔が整っているわけでもなく、人目を引くような特技や趣味もない。大学生になったら彼女が出来るのだろう。などと勝手に期待を抱いていたようだがどうやら違うぞとようやく気が付いて友だちと楽しく生きて行こうと誓った男。
そんな春斗の元にようやく明るい世界がやってきた。茶髪の男が殴りかかる姿勢と勢いで走って来たのだ。そして拳を振るい止まったその空間数ミリ。寸止めというものだ。
「悪い悪い、最低限のレポート出してたら遅れちった」
そう語る男の名は小浜秋男。彼もまた特に綺麗な顔立ちをしているわけではないが長めの茶髪と切れ長の目が良い雰囲気を出していた。そんな秋男が春斗を呼び出した理由。それは実に分かりやすいものであった。
「今日は夜にあそこ行くぜ。俺たちの地元のダムのため池」
ふたりとも必要性は無いものの、ただ単に自由が欲しいからと家を出てひとり暮らしをしていたためにもう1年以上見ていない山。そしてその中にはダムがあるのだが、そこには特に冬に幽霊が出るという噂があったのだ。
「行こうぜ、大学生やってて何もなきゃつまらねぇんだしよ」
春斗は首を横に振ろうとするも、秋男の放つ次の一言が実に深く刺さるものであった。
「同い歳の女が車出してくれるんだぜ。なあ、いいだろう。女込みのドライブ」
春斗がそれを断る理由など何処を探しても落ちていなかった。どのような心持ちでいようとも下心を打ち破る術など持ち合わせてなどいなかったのだ。
☆
月の浮かぶ夜、春斗は家の中で連絡を待っていた。その中で今から行こうとしているダムでの怪談を思い出していた。それは特に冬に赤い服を着た者の前に現れる女の霊。包丁を持ってダムまで訪れた者を刺す悪霊なのだという。山にあるためとても暗く、自殺者も多く出ているためか「車のスピードが突然落ちた」「誰かに見られている気配がする」などと言った証言も多数存在する。地元の若者たちの間ではとても恐ろしい場所だと密かに囁かれていた。
そんな想像とこれから行くのだという事実に怯えながら待っていた春斗の手の先向こう側。そこにある携帯電話がメールの着信を告げた。
開いてみると「着いたぜ」の一言が待っていた。春斗はドアを開き、秋男の元へと向かう。
そこに待っていたのは赤いコートを着た秋男ともうひとり、背が低くて目付きが悪い女性の姿。目の下には濃く刻み付けられたようなクマがあり、可愛らしさの欠片も感じさせない女。影をも飾りにしながらも主役を語る事は出来ないだろう。
「ええと、この子が秋男の言ってた同い歳の女、なのかな」
女は目を逸らして吐き捨てるようにいう。
「どうせ期待外れなんだろ、知ってる。秋男の事だから期待値高めて上げて落として貶めるつもりだったんだろ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「言葉を聞くまでもない」
なんとこの女性、態度まで可愛らしさがないのだという。低くて冷たい声は暗めの性格を更にくっきりとかたどっていた。
最悪の出会いと挨拶を済ませた後に秋男は女性の事を紹介し始めた。
「コイツは波佐見冬子。高校行ってた時のクラスメイトだ」
「俺は鳴見春斗。秋男とは中学の時に仲良くしてたんだ」
それから一旦関わりは途切れ、大学が同じだったが為に交友関係が再び紡がれ始めた、そういった経緯だった。
「よろしく」
春斗が差し出した手をしばらく睨み付けていた冬子。黒い瞳は冷たい空気をさらに冷やしていたものの、数秒の時を経て「……よろしく」とぶっきらぼうに呟きながら手を握り返す。見た目も口調も可愛げの無いとはいえどもその手の柔らかさは間違いなく女の子そのもの。不覚にも春斗の心の中に隠れきっていたドキドキが再び蘇る。
「因みに大学は俺たちより偏差値高いぞ、勉強もアレで運転も任せて俺らカッコいいとこなくね」
秋男の冗談に一切笑うことが出来ないのは気のせいではないだろう。春斗の頭にのしかかる重みは怨念よりもずっと暗いものだった。
☆
夜の道は特に混んでいるわけでもなく順調に進んで行く。見覚えのない景色たちはやがてどこかで見たような景色へと変わって行き、そしてかつてはいつも見ていた景色へと変貌を遂げる。あの頃と変わらぬ懐かしきそれは暗闇に閉ざされていても同じ鮮度を保っていた。
冬子は近くのスーパーの駐車場に車を停める。
「飲み物でも食べ物でも好きなもの買って。秋男がうるさいからな」
後部座席に座っていた秋男は車内で流れている流行りの男性アイドルグループの甘い歌声をかき消す程の奇声をずっと上げ続けるのだ。
「腹減った喉乾いた食い物よこせ飲み物よこせなんでもいいからよこせよこせよーこーせー」
下手な亡霊よりも余程迷惑な様を見せていた。
最早これがBGMなのだとしか言えない至極迷惑な状況に冬子は何度も舌打ちをしてただでさえ悪い目付きをよりいっそう悪く鋭く歪めていた。
そのような事もあり、車を停めたのであった。
「春斗ダッシュ。あっ、金はふたりで割り勘な」
そう言って店に入るや否や秋男が手に取ったのはメロンパンとコーラ。春斗は麦茶を、冬子はコーヒーを持っていた。秋男の我が儘に付き合わされる彼女が可哀想に想えて仕方がなかった。
「後で眠れなくならないかな」
「今眠って私たちが心霊になるよりマシだろう」
黒いユーモアに満ち溢れた言葉を受けて頷きながら春斗は冬子のコーヒーを取って秋男と二人で割り勘の会計とした。
「いいのか、春斗も貧乏なんだろ」
戸惑いを見せる冬子に対して春斗は微笑みの明るみを見せた。
「いいんだよ、ガソリン代の代わり」
「全然足りない」
そしてみんな乗り込み走り出す自動車。秋男は一人で瞬く間にメロンパンを食べ終えていた。
「春斗に分けてやらないのか」
「俺のだし」
――俺と秋男で割り勘したよな確か
呆れのあまり黙る春斗と呆れ交じりにため息をつく冬子。そして満足気な秋男の三人を乗せた車は古びた家を抜け、やがて見えて来る田畑を通り過ぎ、更に奥に建てられた夜の闇に包まれた中学校は車の窓越しに後ろへと流れて行き、しばらくの間暗闇を走り続ける。やがて見えてきたそこは木々に挟まれたコンクリートの道路。山へは登らず駐車場に停める。
車から降りた三人を待ち受けていたのは夜の公園。誰もいないだけにそれだけでも不気味な広い公園だが、恐怖の最高潮はそこではない。
春斗は辺りを見渡す。何かしらの気配を感じるのだ。曖昧ながら少々の影を潜ませた薄気味悪い気配を。隣で冬子も立ち止まっていた。秋男は呆れ混じりの視線を冬子へと投げかける。
「またあれかよ。心霊スポットで自殺スポットだから出て当然だっての」
冬子は身震いしながら春斗の側に寄って地声混じりに囁く。
「気を付けろ、断末魔の残り香が見える」
「断末魔の……残り香」
春斗は頭にはてなを浮かべていた。断末魔なら残響だろう。聞こえるものを嗅いでどうするのだろう。
「死に際の叫び、断末魔の叫びの残響の事。見えるように漂って香りのように入り込む第六感に訴えかける何とも言えない霊の存在」
つまり春斗が感じている気配のことであろう。言われてみれば確かに五感のどこで感じているのかどこにでも薄く被せられているように思えた。冬子は春斗に訊ねる。
「春斗はここにどんな霊が現れるのか分かってるのか」
地元民として一応耳にしたことのある話。春斗は素直に答えた。
「赤い服を着てダムのため池まで行ったら包丁を持った赤い服の女に襲われるんだよね……あっ」
「あのバカ」
冬子は秋男を追いかけるべく駆け出した。悪意に満ち溢れた彼が着ていたコートの色、それはくすんだ赤。まさにあの条件と一致しているではないか。
春斗もまた冬子を追いかけてダムの方へと向かって行く。冬子の急ぎ足は女子の中ではそれなり以上に速い。きっとこれまでにも秋男と様々な場所へと潜り込んで来たのだろう。
遠目に見えたそれは尻もちをついて後退りをしている秋男とすぐ後ろにまで来ている冬子。秋男の目の前には赤い服を着た長い黒髪の女の姿があった。
生気のない白い肌と血走った瞳、そして手に持っていたのは血の滴る包丁。よく見るとその女が着ている服はただの赤ではなかった。腹部に入った切れ目から流れ出る血は血の気のない青白い脚を伝って滴り、また、赤い服だと思っていたそれは血の赤に染まった白い服。女は苦しそうな呻き声を口から洩らしながら一歩ずつ、ゆっくりと迫ってくる。
「こ、こここ、来ないでくれ」
情けない声を上げながら後退りをする秋男。その肩を冬子がつかみ、「逃げるぞ」と声をかけていた。
女はゆっくりと近付いていたが、秋男たちが走って逃げて行くのを目にすると動きを止める。ぶら下がる腕は振り子のように力なく揺れていた。
そんな幽霊はやがて包丁を握る手に力を込めて腕を上げ、奇声を上げながら走り出す。
「逃げろ」
冬子に言われたままに春斗も後ろへと振り返り逃げ出す。
生気は無いが怨みは篭もり切ったあの目を見て平常でいられるはずもなく、春斗もまた、焦りを抱えながら走っていた。心臓の鼓動は速くなり、頭の中は恐怖一色で満たされていく。身体を伝う汗は冬という季節を忘れさせてしまう程の熱を暗闇に放っていた。
走れども走れども見えて来ない出口。足を動かす速度すらも遅く思えて追い付かれないだろうかと恐怖を感じずにはいられない。焦りによって生まれた熱も冷め、汗を撫でる風がまた寒気を運び込む。
どれだけ走っただろう。ようやく見えて来た車。たどり着いては逃げ込むように必死にドアノブを引く。何度でも引いて開こうとする。しかし、そのドアが開く事はなかった。
「なんで」
「何してる」
冬子は秋男の手を引いて力の限り走っていた。息は切れ切れ、蒼白の表情は死の一歩手前。冬子は車の元へと駆けて鍵を差し込む。
ようやく開かれたドアから素早く乗り込み車を走らせた。
☆
あるカフェにて、目にクマのある目付きの悪い女が新聞を広げて春斗に突き出した。
「昨日の件、多分割と最近の事件だ」
そこには殺人事件の記事が載っていた。被害者は白いワンピースを着た女性で腹部を三度刺されて死亡したとの事。
春斗は昨夜のあの女の事を思い出して全身に走る寒気に打ちひしがれていた。
「冬子、もしかして」
ただ黙っていただけの秋男と理解の言葉を覗かせた春斗の顔を見つめ、冬子はただ一度頷くだけ。
心霊スポットには日頃抑え込まれている凶行の衝動を呼び起こす不思議な何かがあるのかも知れない。
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