家に帰る。

 玄関で靴を脱ぎ、ジャケットを洋服棚に掛けて、パソコンを立ち上げる。ノーパソのファンが回る音を聞きながら、冷蔵庫の扉を開けて、業務スーパーで買った二リットルの緑茶をラッパ飲みする。冷房を点け、デスクの前に腰掛ける。


「……ふうっ」


 さて、やるか。

 パソコンの画面に、講義中に考えていた内容を打ち込んでいく。

 軽快に、時には思案して。

 プロットはできているのだから、書くことは決まっている。


 ……違うな。決まっているのは物語であって、文章そのものじゃない。だから考えながら書かなければいけない。面白いか。読む人がどう思うか。評価されるかどうか。

 もっと言うならば。

 受賞し、デビューできるかどうか――を。


 今日の目標は十ページ。公募の締め切りまで時間はない。「急がないと」。心が急かしてくる。けれど、やっつけ仕事で完成させても意味はない。とりあえず、じゃ、駄目だ。もう五回目だ。他の賞も含めれば十回以上落ちている。あっという間に卒業して、就職しなくちゃならなくなるんだ。一次選考に通るかどうかで足踏みしている場合じゃない。

 一方で、頭の側の、一番奥の部分が、必死な心と僕を嘲笑う。

 「まだそんなこと考えちゃってんの?」。「まだそんな夢、叶うと思っちゃってんの?」。……うるさい、黙れ。落ち着け、自分。こんなのは幻聴だ。いつものことだろう。「冷静に現実を見れちゃう自分ってカッコいー」って、そんな思いから生み出される自己批判による自己肯定。それはやめる、って、決めたじゃないか。


 ふと、魔が差して、ブラウザの検索窓にそれを打ち込んだ。

 何度も打ち込んだ所為だろう。予測変換はすぐに、彼のペンネームを候補に出してくる。クリック。一瞬で検索結果が表示される。新刊の情報が出ている。九月に一作品、出版予定らしい。


 嫌な汗が背筋を伝う。


 ……ああ、そうだ。いつも、そうなんだ。

 彼の名前を見る度に、僕は勝手に傷付いて、現実と劣等感に犯される。定まり切らない心の、一段と柔らかな部分を凌辱される。あったかも分からないプライドが滅茶苦茶にされて、泣きたくなって、でも涙は枯れていて。


 僕と、彼。

 その間には絶対的な差があった。


「……くっ、……そ……」


 思わず拳を机に叩き付ける。

 痛みは感じなかった。


 あの時、「小説家になりたい」と語った彼――柊木野ひいらぎのは、あっという間にプロの作家になった。

 夢を叶えたのだ。

 高校在学時のデビューだった。

 公式発表によれば、最年少受賞のタイ記録らしい。

 それは、あの教室で、僕と会話を交わした、ほんの二、三年後のことだった。


 冗談だろ?と僕は思った。

 ……僕は心の中で、柊木野の夢を笑っていた。「なれるわけないじゃん」って。


 今なら分かる。

 それは自己保身であり、自己肯定であり、自己憐憫。

 夢を持つ友人に対して「はいはい、凄いね、叶うといいね」と冷笑し、彼の眩しさから目を背けて、そうすることで自分の心を守って、本当の気持ちを隠して、自分で自分を見ないフリをして、現実に適応してまともに生きてる気になっちゃって、それで、それで、それで、それで――その癖、未練がましく、みっともなく、その光に惹かれて、足掻いている。


 それが僕なのだ。

 そんな、どうしようもなく、救いがたい側面こそ――僕の本性だった。






 ここだけの話だけど、僕は文芸サークルに入っていたことがある。


 柊木野の受賞とデビューに触発されたのだろう。何かしなくちゃ、と思った。

 このままじゃいけない、と。

 置いていかれると思った。

 彼の夢を心の中で笑った癖に、こっそり自分も小説を書き始めちゃったりしていたんだけど……。


 ……それはいいんだよ、別に。

 とにかく僕は「今のままじゃダメだ」と、急にそう考え始めた。


 何が、「置いていかれる」だ、馬鹿みたいだ。

 今ならそう思える。


 中学で友達になり、高校で彼がデビューして、違う大学に進学して……。

 彼の隣にいられたことなんて、一度もない。

 並んで歩いていけたことなんて、一度もないのだ。


 だけど、当時の僕は真剣だった。

 変わらなくちゃいけないと考えて、大学入学後、文芸サークルに入った。


 そして、愕然とした。

 絶望した、とも言える。


 ……最初の内は、楽しかった。

 先輩や同期の作品を読んで、自分の作品を読んでもらって、感想を言い合って……。


 でも、半年、一年と経過する内に、分かってしまった。

 彼等彼女等は、本気で小説家を目指しているわけじゃない。

 口先だけだった。

 「プロを目指すだけが芸術じゃないじゃん」。

 そう言ってくれたなら、僕は納得し、安堵しただろう。

 それならそれで楽しいし、楽しい趣味だと思うのだけど――違った。


 先輩達は、そして、ほとんどの同期は、「受賞する」「プロデビューが目標だ」と言いながら、お互いを褒め合って、傷口を舐め合って、その現状から目を背けて、毎日を過ごしている。

 夢を語ることで、自分を騙って、生きている。


『……バッカ。アンタ、今更気付いたの?』


 ……ある飲み会の帰りだった。

 僕は酔った勢いで、同期に心の内を打ち明けた。

 先輩も、同期も、誰も彼も本気でやっていないじゃないか、と。


 彼女は驚いたという風に目を見開き、次いで笑い飛ばして、こう言った。


『アンタ、小説家になりたいの?』

『いや、その……。そういうわけじゃないけど、変だな、って……』

『……結局ね、人はぬるま湯が心地良いのよ。身を削って、血を流して努力するよりもね。実のところ、私達は才能のない自分を肯定し、誰かに自分を認められたいだけ』


 どうせ、ほとんどの奴はデビューできないし、夢は叶わないんだ、と。


『だから、あそこで「小説家になる!」って宣言したところで、恥ずかしい思いはしなくていい。。その上で、周囲のお仲間からは、肯定される』


 自分を認めてもらえる。

 自分が才能のない、その他大勢の人間であることを忘れられる。


 ……ああ、僕だって、身を以て知っている。

 その環境は、あの部室は、どうしようもなく、心地良い。

 自分が『特別な人間』だと、錯覚できる。


 彼女は路上の空き缶を勢い良く蹴飛ばした。

 そして、それは大して飛ぶこともなく、すぐに地に落ちて、カランコロンと空虚な音を立てる。


 まるで僕達のようだと思った。

 星は夜空にいくつも瞬いているのに、飛ぶこともできずに、ここにいる。

 うだうだと、あれはダメだ、これがダメだと、文句を垂れ流している。

 「意見を言えるほどに、努力したの?」という問いからは、逃げ続けて。


 僕は訊いた。

 それでいいの?と。


『私が、ってこと? それとも、みんなが、ってこと?』


 どちらもだよ。

 僕は言った。

 どちらもか。

 彼女は言った。


『みんなに関して言うなら、それでいいんでしょ。そして、私だってそうよ。それでいいの。なんとなく、努力してる感に酔えれば、それでいい―――』


 その酔いが覚めそうになった時には、こうして飲むの。

 彼女はそう続けた。

 真理だと思った。


 僕は、サークルを辞めた。





 柊木野なら、どう言うだろう。

 彼はどうやって、「小説家になる」という夢を叶えたのだろう。


 真夏の夜分。

 クーラーの音だけが聞こえる部屋の中で、僕はふと、彼のことを思い出す。


 それはいつのことだっただろう。

 あの『しょうらいのゆめ』に関する出来事よりは、後だっただろうけれど。


 彼に倣って、自分も小説家になろうと夢を持ち、小説を書き始めた頃だろうか。

 はじめて送った文学賞で一次落ちし、早速、夢を諦めそうになった頃だろうか。

 何度目かの落選の際、僕の名前のない結果発表ページを睨んでいた頃だろうか。


『受賞した、ってことは、それだけ努力したんだろうね』


 僕は言った。


 ああ、そうだ。

 これは高校の頃だ。

 彼が文学賞を受賞し、作家デビューを決めた秋のことだ。


『努力、ねえ……』


 彼の答えは意外なものだった。


『努力なんて、したことないよ』

『……え?』

『好きなことを、好きな風に、好きなだけ、やってるだけだ。そのことを世間様では、「努力」とは呼ばないんじゃない?』


 好きなことを、好きな風に、好きなだけ―――。

 ただ、そうしているだけで――プロになった。

 なれて、しまった。


『まっ、嫌味になっちゃうから、言わないけどさ』


 そう言って、彼は困ったように笑う。

 形容し難いほどの才能の差を実感する。


 ……分かっていた。

 柊木野はそういう人間だ。

 謙遜するでもなく、かと言って、誇張するでもなく。

 彼の認識の中では、そうでしかないのだ。


 小説を書くことが好きだから、小説家になりたい。

 小説を書くことが好きだから、小説を書くことは苦にならない。

 当たり前のように書き続けてしまう人間。

 それができる人間。

 努力は努力ではなく、

 苦しみは苦しみではなく、

 汗は汗ではなく、

 涙は涙ではない。

 だって――小説を書くことが、大好きだから。


 ……柊木野は、僕とは違う。

 僕は、柊木野とは、違う。


 彼が光なら、僕は影だ。

 僕は「認めてほしい」という思いに支配され、創作をしているけれど、

 彼は「楽しいから」という、ただそれだけで、物語を紡ぐことができる。


 あの日、あの時、光に焼かれた目は、今の現実を映さない。

 僕はそれなりに、普通に生きていくことすら、できなくなってしまった。



 ……なあ、お前の所為だぞ、柊木野。

 僕の人生、どうしてくれるんだよ、ちくしょー。






「よっ、久しぶりじゃん!」


 柊木野と再会したのは夏休みだった。

 どうにか完成させた原稿をポストに入れて、そのままの足で地元に帰り、実家に向かう途中で、出会った。

 出逢って、しまった。


 駅を出てしばらく進んだところにある大きな十字路。

 常に自動車が行き交う交差点。

 彼はそこで信号待ちしていた。

 僕を見つけた彼は、声を掛けてきた。

 日差しがやけに暑く感じ、頬に汗が伝うのが分かった。


 僕は上手く言葉を紡げず、「あ……」とか「ぅ、え」とか、奇妙な声を出していたが、

 やがて、


「……元気そうだね、柊木野」


 と、応じることに成功した。

 どくり、どくりと、心臓の鼓動が速くなる。


「……新作」

「え?」

「新作……。出るんだってね」

「ああ、新作ね。まあね。面白いぜ」

「それ、自分で言うんだ」

「俺が『面白い』って思わないような作品を他人に読ませるわけにはいかないだろ」


 僕が笑うと柊木野も笑う。

 らしいなあ、と思う。


 彼は変わらない。

 中学の頃、僕に夢を教えてくれた頃から、変わらない。

 眩しいほどに真っ直ぐで。

 僕は、その光に目を焼かれる。


「そっちは?」

「え?」

「元気か、ってこと」


 そこそこ、と僕が答えると、「そこそこか」と彼はまた快活に笑う。

 信号が青になる。


「じゃ、俺はこっちだから」


 カッコー、カッコーと音が鳴り始め。

 柊木野はそう言って、歩き始める。


 僕も、行かなくちゃ。

 歩いていかないと。

 彼とは違う道だとしても。


「柊木野!」


 僕は何を思ったが、彼を呼び止める。

 柊木野は、んー?と、気の抜けた声と共に振り返る。


「僕も――小説家、目指すことにしたから! ううん、違う……。あの時、お前の夢を聞いた時から、目指してるから!! ずっと!」


 こんなところで何を言っているんだ、恥ずかしい。

 馬鹿なんじゃないのか。

 それを伝えたところでどうなるって言うんだ。


 ……うるさい。

 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい―――!!


 これは僕の決意表明だ。

 僕ははじめて、自分の夢を語る。

 誰にも言っていなかった、僕だけの夢を伝える。


「そこで待っててよ! すぐに追い付くからさ!」


 僕は走り始める。

 彼の答えを待たぬまま。


 光に焼かれた目で、現実を見ないまま。



 ―――「分かった。楽しみにしてる」。



 その声は、夏の暑さにやられた所為で聞こえた幻聴だろう。


 大丈夫、分かってるよ。

 自分自身に言い聞かせる。

 いつか追い付いたら、ちゃんと全部、伝えるから。


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