②
家に帰る。
玄関で靴を脱ぎ、ジャケットを洋服棚に掛けて、パソコンを立ち上げる。ノーパソのファンが回る音を聞きながら、冷蔵庫の扉を開けて、業務スーパーで買った二リットルの緑茶をラッパ飲みする。冷房を点け、デスクの前に腰掛ける。
「……ふうっ」
さて、やるか。
パソコンの画面に、講義中に考えていた内容を打ち込んでいく。
軽快に、時には思案して。
プロットはできているのだから、書くことは決まっている。
……違うな。決まっているのは物語であって、文章そのものじゃない。だから考えながら書かなければいけない。面白いか。読む人がどう思うか。評価されるかどうか。
もっと言うならば。
受賞し、デビューできるかどうか――を。
今日の目標は十ページ。公募の締め切りまで時間はない。「急がないと」。心が急かしてくる。けれど、やっつけ仕事で完成させても意味はない。とりあえず、じゃ、駄目だ。もう五回目だ。他の賞も含めれば十回以上落ちている。あっという間に卒業して、就職しなくちゃならなくなるんだ。一次選考に通るかどうかで足踏みしている場合じゃない。
一方で、頭の側の、一番奥の部分が、必死な心と僕を嘲笑う。
「まだそんなこと考えちゃってんの?」。「まだそんな夢、叶うと思っちゃってんの?」。……うるさい、黙れ。落ち着け、自分。こんなのは幻聴だ。いつものことだろう。「冷静に現実を見れちゃう自分ってカッコいー」って、そんな思いから生み出される自己批判による自己肯定。それはやめる、って、決めたじゃないか。
ふと、魔が差して、ブラウザの検索窓にそれを打ち込んだ。
何度も打ち込んだ所為だろう。予測変換はすぐに、彼のペンネームを候補に出してくる。クリック。一瞬で検索結果が表示される。新刊の情報が出ている。九月に一作品、出版予定らしい。
嫌な汗が背筋を伝う。
……ああ、そうだ。いつも、そうなんだ。
彼の名前を見る度に、僕は勝手に傷付いて、現実と劣等感に犯される。定まり切らない心の、一段と柔らかな部分を凌辱される。あったかも分からないプライドが滅茶苦茶にされて、泣きたくなって、でも涙は枯れていて。
僕と、彼。
その間には絶対的な差があった。
「……くっ、……そ……」
思わず拳を机に叩き付ける。
痛みは感じなかった。
あの時、「小説家になりたい」と語った彼――
夢を叶えたのだ。
高校在学時のデビューだった。
公式発表によれば、最年少受賞のタイ記録らしい。
それは、あの教室で、僕と会話を交わした、ほんの二、三年後のことだった。
冗談だろ?と僕は思った。
……僕は心の中で、柊木野の夢を笑っていた。「なれるわけないじゃん」って。
今なら分かる。
それは自己保身であり、自己肯定であり、自己憐憫。
夢を持つ友人に対して「はいはい、凄いね、叶うといいね」と冷笑し、彼の眩しさから目を背けて、そうすることで自分の心を守って、本当の気持ちを隠して、自分で自分を見ないフリをして、現実に適応してまともに生きてる気になっちゃって、それで、それで、それで、それで――その癖、未練がましく、みっともなく、その光に惹かれて、足掻いている。
それが僕なのだ。
そんな、どうしようもなく、救いがたい側面こそ――僕の本性だった。
●
ここだけの話だけど、僕は文芸サークルに入っていたことがある。
柊木野の受賞とデビューに触発されたのだろう。何かしなくちゃ、と思った。
このままじゃいけない、と。
置いていかれると思った。
彼の夢を心の中で笑った癖に、こっそり自分も小説を書き始めちゃったりしていたんだけど……。
……それはいいんだよ、別に。
とにかく僕は「今のままじゃダメだ」と、急にそう考え始めた。
何が、「置いていかれる」だ、馬鹿みたいだ。
今ならそう思える。
中学で友達になり、高校で彼がデビューして、違う大学に進学して……。
彼の隣にいられたことなんて、一度もない。
並んで歩いていけたことなんて、一度もないのだ。
だけど、当時の僕は真剣だった。
変わらなくちゃいけないと考えて、大学入学後、文芸サークルに入った。
そして、愕然とした。
絶望した、とも言える。
……最初の内は、楽しかった。
先輩や同期の作品を読んで、自分の作品を読んでもらって、感想を言い合って……。
でも、半年、一年と経過する内に、分かってしまった。
彼等彼女等は、本気で小説家を目指しているわけじゃない。
口先だけだった。
「プロを目指すだけが芸術じゃないじゃん」。
そう言ってくれたなら、僕は納得し、安堵しただろう。
それならそれで楽しいし、楽しい趣味だと思うのだけど――違った。
先輩達は、そして、ほとんどの同期は、「受賞する」「プロデビューが目標だ」と言いながら、お互いを褒め合って、傷口を舐め合って、その現状から目を背けて、毎日を過ごしている。
夢を語ることで、自分を騙って、生きている。
『……バッカ。アンタ、今更気付いたの?』
……ある飲み会の帰りだった。
僕は酔った勢いで、同期に心の内を打ち明けた。
先輩も、同期も、誰も彼も本気でやっていないじゃないか、と。
彼女は驚いたという風に目を見開き、次いで笑い飛ばして、こう言った。
『アンタ、小説家になりたいの?』
『いや、その……。そういうわけじゃないけど、変だな、って……』
『……結局ね、人はぬるま湯が心地良いのよ。身を削って、血を流して努力するよりもね。実のところ、私達は才能のない自分を肯定し、誰かに自分を認められたいだけ』
どうせ、ほとんどの奴はデビューできないし、夢は叶わないんだ、と。
『だから、あそこで「小説家になる!」って宣言したところで、恥ずかしい思いはしなくていい。だって、どうせ誰も夢を叶えられないから。その上で、周囲のお仲間からは、肯定される』
自分を認めてもらえる。
自分が才能のない、その他大勢の人間であることを忘れられる。
……ああ、僕だって、身を以て知っている。
その環境は、あの部室は、どうしようもなく、心地良い。
自分が『特別な人間』だと、錯覚できる。
彼女は路上の空き缶を勢い良く蹴飛ばした。
そして、それは大して飛ぶこともなく、すぐに地に落ちて、カランコロンと空虚な音を立てる。
まるで僕達のようだと思った。
星は夜空にいくつも瞬いているのに、飛ぶこともできずに、ここにいる。
うだうだと、あれはダメだ、これがダメだと、文句を垂れ流している。
「意見を言えるほどに、努力したの?」という問いからは、逃げ続けて。
僕は訊いた。
それでいいの?と。
『私が、ってこと? それとも、みんなが、ってこと?』
どちらもだよ。
僕は言った。
どちらもか。
彼女は言った。
『みんなに関して言うなら、それでいいんでしょ。そして、私だってそうよ。それでいいの。なんとなく、努力してる感に酔えれば、それでいい―――』
その酔いが覚めそうになった時には、こうして飲むの。
彼女はそう続けた。
真理だと思った。
僕は、サークルを辞めた。
●
柊木野なら、どう言うだろう。
彼はどうやって、「小説家になる」という夢を叶えたのだろう。
真夏の夜分。
クーラーの音だけが聞こえる部屋の中で、僕はふと、彼のことを思い出す。
それはいつのことだっただろう。
あの『しょうらいのゆめ』に関する出来事よりは、後だっただろうけれど。
彼に倣って、自分も小説家になろうと夢を持ち、小説を書き始めた頃だろうか。
はじめて送った文学賞で一次落ちし、早速、夢を諦めそうになった頃だろうか。
何度目かの落選の際、僕の名前のない結果発表ページを睨んでいた頃だろうか。
『受賞した、ってことは、それだけ努力したんだろうね』
僕は言った。
ああ、そうだ。
これは高校の頃だ。
彼が文学賞を受賞し、作家デビューを決めた秋のことだ。
『努力、ねえ……』
彼の答えは意外なものだった。
『努力なんて、したことないよ』
『……え?』
『好きなことを、好きな風に、好きなだけ、やってるだけだ。そのことを世間様では、「努力」とは呼ばないんじゃない?』
好きなことを、好きな風に、好きなだけ―――。
ただ、そうしているだけで――プロになった。
なれて、しまった。
『まっ、嫌味になっちゃうから、言わないけどさ』
そう言って、彼は困ったように笑う。
形容し難いほどの才能の差を実感する。
……分かっていた。
柊木野はそういう人間だ。
謙遜するでもなく、かと言って、誇張するでもなく。
彼の認識の中では、そうでしかないのだ。
小説を書くことが好きだから、小説家になりたい。
小説を書くことが好きだから、小説を書くことは苦にならない。
当たり前のように書き続けてしまう人間。
それができる人間。
努力は努力ではなく、
苦しみは苦しみではなく、
汗は汗ではなく、
涙は涙ではない。
だって――小説を書くことが、大好きだから。
……柊木野は、僕とは違う。
僕は、柊木野とは、違う。
彼が光なら、僕は影だ。
僕は「認めてほしい」という思いに支配され、創作をしているけれど、
彼は「楽しいから」という、ただそれだけで、物語を紡ぐことができる。
あの日、あの時、光に焼かれた目は、今の現実を映さない。
僕はそれなりに、普通に生きていくことすら、できなくなってしまった。
……なあ、お前の所為だぞ、柊木野。
僕の人生、どうしてくれるんだよ、ちくしょー。
●
「よっ、久しぶりじゃん!」
柊木野と再会したのは夏休みだった。
どうにか完成させた原稿をポストに入れて、そのままの足で地元に帰り、実家に向かう途中で、出会った。
出逢って、しまった。
駅を出てしばらく進んだところにある大きな十字路。
常に自動車が行き交う交差点。
彼はそこで信号待ちしていた。
僕を見つけた彼は、声を掛けてきた。
日差しがやけに暑く感じ、頬に汗が伝うのが分かった。
僕は上手く言葉を紡げず、「あ……」とか「ぅ、え」とか、奇妙な声を出していたが、
やがて、
「……元気そうだね、柊木野」
と、応じることに成功した。
どくり、どくりと、心臓の鼓動が速くなる。
「……新作」
「え?」
「新作……。出るんだってね」
「ああ、新作ね。まあね。面白いぜ」
「それ、自分で言うんだ」
「俺が『面白い』って思わないような作品を他人に読ませるわけにはいかないだろ」
僕が笑うと柊木野も笑う。
らしいなあ、と思う。
彼は変わらない。
中学の頃、僕に夢を教えてくれた頃から、変わらない。
眩しいほどに真っ直ぐで。
僕は、その光に目を焼かれる。
「そっちは?」
「え?」
「元気か、ってこと」
そこそこ、と僕が答えると、「そこそこか」と彼はまた快活に笑う。
信号が青になる。
「じゃ、俺はこっちだから」
カッコー、カッコーと音が鳴り始め。
柊木野はそう言って、歩き始める。
僕も、行かなくちゃ。
歩いていかないと。
彼とは違う道だとしても。
「柊木野!」
僕は何を思ったが、彼を呼び止める。
柊木野は、んー?と、気の抜けた声と共に振り返る。
「僕も――小説家、目指すことにしたから! ううん、違う……。あの時、お前の夢を聞いた時から、目指してるから!! ずっと!」
こんなところで何を言っているんだ、恥ずかしい。
馬鹿なんじゃないのか。
それを伝えたところでどうなるって言うんだ。
……うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい―――!!
これは僕の決意表明だ。
僕ははじめて、自分の夢を語る。
誰にも言っていなかった、僕だけの夢を伝える。
「そこで待っててよ! すぐに追い付くからさ!」
僕は走り始める。
彼の答えを待たぬまま。
光に焼かれた目で、現実を見ないまま。
―――「分かった。楽しみにしてる」。
その声は、夏の暑さにやられた所為で聞こえた幻聴だろう。
大丈夫、分かってるよ。
自分自身に言い聞かせる。
いつか追い付いたら、ちゃんと全部、伝えるから。
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