仮想ノードの向こう側

「…………ここは」

 立っている場所には見覚えがある。意識は明瞭で、だが世界は一変していた。壁の落書きもブレーカーの落ちて殆ど真っ暗闇な玄関も、あの夜の柳木宅だ。本来は芽々子と一緒に来ていた筈だが、その姿はない。要素の絞り込みは成功したようだ。

「せ、成功したん、だよな」

 後ろを振り返ると、玄関が開いている。そう、確か芽々子が鍵を開けたのだ。俺が単独でここに居るのはおかしいが、彼女の話を信じるならここで何をしようが現実に影響はない。本来居る筈の彼女がブレーカーを上げに行ってくれないので、代わりに自分で上げるとしようか。

「これ、見えてるんだよな? 返事は……無理そうだ。じゃあ俺はブレーカーを上げに行くぞ。上に何があるかはもう分かってるからな」

 向かう方向には台所があったが、その続く壁まで漏れなく怪物の絵が続いている。『三つ顔の濡れ男』とされている絵。最初に見たのは芽々子の家の物置だったし、それ自体は疑問でも何でもないが。

 懐中電灯で照らし上げて俺の事をモニタリングしているであろう二人に分かりやすいよう静止する。画面が何処にあるかは、没入してる俺には分からない。

「これさ…………本当に濡れ男か?」

 そうだ、本体と遭遇してから釈然としなかったのはこれだ。色々と説明不足な状態のまま動いていたから、すっかり忘れていた。全体的な特徴は塗り潰されていて分からないが、身体が両断されていて上半身が破綻している。三つ顔の濡れ男はそんな特徴じゃなかった。

「響希は知らなかったからこれをそうだと思うのは仕方ないとして、ずっと前から認識してた割には俺の知ってる姿じゃない。これはどういう事なんだ?」

 台所に辿り着いたので、ブレーカーを上げた。電気が戻れば通常通り探索が可能になる。この日の夜はそう。俺が叫び声をあげてしまったせいで大人の中で妙な動きがある事を目撃した。電気が点いているだけなら問題ない……だろう。

「前は部屋を真っ先に見に行ったけど、他の部屋も見てみようか」

 リビングの電気を点けると、ちょっと前まで普通に生活していたような痕跡が残っていた。よそってあるご飯に、すっかり冷めた味噌汁。途中まで食べてあるサバの味噌煮。台所はさっき見たが、流し台にまとめて洗う為の食器が溜まっている事には今気づいた。

「過去だからややこしいんだけど、これは一体いつの物なんだ? この直前まで柳木が生きてた訳じゃないから……えっと、俺がこの事を知ったのは芽々子と協力した翌日の事だ。でも芽々子は……そもそも柳木を助ける為に一人で無茶をして、それで…………」

 芽々子の死体が一日以上放置されていた事はない。パニックになった俺が何度も試した。あそこで目撃する以外に二人が生き残る道がなかったのだ。

「当時の夜までにはまだ生きてたから……いや」

 違う。それは芽々子が複数存在する可能性を考慮していない。出会った芽々子は破壊されていたが、それが柳木の生きていた時期の証明にはならない。分かるのは濡れ男に挑んで敗北した事実だけであり、昼に生きていただろうという推定は二体目を学校に行かせておけばいいだけなのである。

 ぐるりと部屋を見回した。ゆっくり、モニターしている二人が何かに気づけるなら、今俺が気づく必要はない。

「そろそろ二階に行く」

 階段を上れば、あの凄惨な死体がある。俺はもう覚悟しているが、また響希に見せるのは忍びないが、それは俺一人ではどうしようもない。死体を見る前に息を大きく吸い込んで、何度か深呼吸をして、それからもう一度息を吸い込んだ。叫ばないように、気分が悪くならないように。



 腰から胴を分断された死体が二つ。男女一組の亡骸は事の理解が及ばぬ顔で息絶えており、髪はどちらもびしょ濡れ。手はふやけて、どちらも原型を留めていない。

 腸だけが辛うじて繋がっている所も、中身が零れた眼球も漏れなく完璧だ。見るのは二回目でもやはり非常に度し難い。本当は直視したくないけど、そんな我儘を言ってる場合じゃない。死体の……死因を探さないと。

「…………濡れてるけど、やっぱり違うよな。これは死因は……斬殺って所か? 黒夢曰く、濡れ男は血液汚染……相手の血液に干渉して殺す力があった。そうだ、やたら水とか濡れるとか、そういうワードに由来してる。使ってた銛も、当たった場所から浸水が始まってアイツの支配下に置かれるような感じだったし……間違いない。濡れてるだけで、これは濡れ男が殺したんじゃないぞ!」

 死体の周りにある物に手がかりはないだろうか。手に持っている物はない。周りも、殆ど血塗れなだけだ。

「目をつけられたのは柳木だけで、両親は違うのに殺されてる……んじゃないかな。相互認識が完了しなきゃ襲われないんだ、俺達がそいつを知らないなら襲われなくても不思議はない」

 死体の中に手を入れるべきか迷った。そういうのは確信がないとやりたくない。でもここは飽くまで現実世界じゃない。やれるべきはやるのが当然ではないだろうか。いつか好奇心が理性を殺した時、後戻りは出来なくなる。気になって眠れなくなるような日が続くなら、ここで満たしておいた方がいいだろう。

「う…………」

 ぬめぬめした感触は臓器だろうか、生で触りたくなんかない。不衛生だし、触感からして気持ち悪い。粘っこい質感は血液が―――ああそれどころじゃない。鉄の匂いがする。それ以上に腐っている。訳もなく手が震えてきた。何もない。そう結論づけてさっさと手を引っ込めたい所だ。

「…………ん、ん?」

 死体の中に、液体的ではない感触を見つけた。覚えのある手触りは、恐らくペットボトルだ。掴んで取り出してみると、案の定それは五〇〇ミリのペットボトル。血に塗れていても、その血でペットボトルが溶けたりはしない。ただ非常に汚れている。洗って中を見てみよう。その方が安全だ。何もなければそれでいい。

 下の階に戻って洗面所の水でペットボトルの外側を洗い流す。中には……小判型の真鍮板と、銃弾が一発。弾はともかくどうやって中に入れたのだろう。周りを弄ってみると底が簡単に引っこ抜ける造りになっている事に気が付いた。

 板の裏には、筆で描いたような血文字が一言。



『既知ナル 後世ヲ介 スレバ 神風吹 テ戦ハ終ワル』















 









「お疲れ様。体調はどう?」

「……頭がぼんやり……視界もちょっと、歪んでるかも」

「大丈夫なの? やっぱりこれって危ない薬なんじゃ」

「ついさっき説明した通り、真に危なかったのはバーベキューをしていた時だから。あっちは、死んでもやり直しが効かないし、私から起こしてあげる事も出来ない」

 歪んだ視界は万華鏡のようにチラついて、気分が無条件に悪化する。せっかく台に寝転んでいるならもう少しこのまま仰向けになっていても罰は当たらないと信じて動かない。口が動けば十分だ。

「収穫はあったと思うけど……芽々子的にはどうなんだ?」

「まず私も勘違いしていたけど、確かに柳木君の両親は三つ顔の濡れ男にやられた訳ではないみたい。じゃあ誰がって話だけど……違う怪異って線は、考えてない」

 響希がにわかに声を荒げて割り込むというより俺の返答を潰すように入ってきた。

「芽々子ちゃんは、あんな滅茶苦茶な殺し方が化け物じゃないっていうの!?」

「人間がやったと考える方が自然ではあるの。まず死体は、濡れていたでしょう。三つ顔の濡れ男の殺し方は必ず死体が濡れる。でもそれは殺した後でも前でもなく、殺す手段が血液や海水などの液体に干渉してるから。ああ、響希さんは私がまとめておいた怪異ファイルに目を通しおいてね。三つ顔の濡れ男しか項目を作ってないけど、それを見れば何が起こったか大体把握出来るから」

「れ、冷静…………人形は恐怖を感じないって本当なんだ」

「人形……? 芽々子、お前教えたのか!?」

「隠し通す方に無理があると感じただけ。どうせお互い弱みはあるんだから。それよりも私達が考えるべきは死体は何故偽装する必要があったのかよ。死んだ人間は本島に引っ越した扱いで皆それを疑った事もなかった。死を隠すだけならそれで充分なのに何でそんな事をしたのか……まるで誰かがここに来るのを分かってたみたい」

「でも、それを考えるには情報が足りないだろ」

「あのペットボトル…………銃弾と、あれはドッグタグね。それもこの国が戦争してた時代の。体の中にあったのは……誰かが後から入れたと考えるべき…………」

 芽々子はうんうん唸っていたが、不意に指をパチンと鳴らして、球体関節の指をカラカラと鳴らした。

「偽装は、私達に向けてされたんじゃないとしたら?」

「何? それはおかしいだろ。死体はだって、そもそも家に鍵がかかってるんだ。俺達が来る事を―――俺達って知らなくても誰かが来るのを知ってたから偽装したって考え方が普通だろ。濡れ男が殺したって勘違いしてほしくてやったんだ」

「死んだ人間は引っ越した扱いを受けるけど、死体はそのままなの? 私達以外に死体を見に来る勢力は、確かにいるでしょう」

「それって、芽々子ちゃんを探してる誰かって事……?」








「そしてその誰かは、敵じゃない可能性があるわ。更に言えば噂がない筈の濡れ男について半端に知識を持っている様だから……もしかすると、向こうの離反者だったりするのかも」

 

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