仮去・現想・仮想

「でも何処から説明したらいいかしら。誤解がないように頑張って説明したいけど…………そうね。人は同時に二つの扉を通れると思う?」

「は?」

「難しかった? じゃあさっきの話で考えましょう。貴方は私が人形である事を伝えなかった。でもその瞬間、私が人形である事を伝えた貴方も確かに存在している」

「何を言ってるんだ?」

 何かを選択するという事は、何かを選択しないという事だ。同時に選択するなんて論理に反している。イエスと言いながらノーと言う。Aを貰いながらBを貰う。それはだって、不可能だろう。欲張りだ。現実的には許されざる矛盾を抱えている。

「そうね。シュレーディンガーの猫の事は分かるかしら。ここはざっくりした理解でも大丈夫」

「条件を満たしたら毒ガスが出る箱の中に猫を入れると、中を開けてみるまでは猫は生きてもいるし死んでもいるみたいな……感じでいいんだよね。ネットで見ただけだから凄いざっくりだけど」

 芽々子はホワイトボードに宀の形で線を引いた。そして左の端、中央、右の端にそれぞれB、A、Cとつける。

「ある地点を分岐として、事象は分かれる。左端と右端は横軸で見れば同じ位置にある。これはつまり、人形である事を話さなかった貴方と話した貴方の存在の事。話さなかったから貴方は私からこの説明を受けている。話したらまた別の事が起こったかも。それをDやEとする。そしてそのDやEから……と、続いていくわ」

「俺がもう一つの選択をした自分を認識するにはどうすればいいんだ?」

「その方法は今の所ないとされてるわ。少なくとも現在の科学ではね。何故ならその選択をしたという認識を他ならぬ貴方が、ひいてはこの世界が認めたから。さっきの話に合わせるなら選択とは箱を開ける事。箱を開けたら猫が死んでいるのに生きているようには思わないでしょ」

 聞いていたら眠くなりそうな話だ。当然、授業で習う範囲にはない。とても難しい話であり、誤った理解をする訳にいかないのも問題だ。用意されたコーヒーはまだ残っている。口をつけて、意識を目覚めさせた。

「最初の話に戻りましょうか。人は同時に二つの扉を通れると思う?」

「無理だと思う」

「そうね。ところが仮想性侵入藥を使えば可能になってしまうの。先に言っておくと、これは科学のブラックボックス。情報がすっかり消えてしまった新世界構想の数少ない論文から再現された薬。大量生産は出来ない。だってこれは科学の根幹を揺るがしてしまうから」

「……えっと、それはどういう?」

「この薬には二種類の使い方があるけど、根本は変わらない」

 芽々子はBとCを横線で繋ぐと、その中央にA´と付けた。

「観測という概念は今となっては、この地上に存在するあらゆる生物に対応しているわね。人間でもいいけど。最初の使い方は私がモニターしていた方。あれはね、貴方にもう一つの現実を構築し、削除・付加する要素を限定する事で選択しなかった世界を見ているの。現実とは無関係だから最初に説明したような論理関係は通用しないって訳。これが、まず現代の科学とは反しているのだけど。単なる想定という意味のシミュレーションなら何でもないけど、これは論文によれば必ず同じ事が起きるとされているわ」

「……分かった。それを最初に唱えた人がどうやってそれを立証したのかが分からないのか。誰もそれが出来ないって」

「ええ。その部分はないの。ないけど、技術の発展においてこの薬の存在は偉大だから、本島の研究機関では密かに使われているともされているわね。私がモニターしているのは、モニターする事で私も向こうの世界を確認出来るのと、貴方の脳が負荷に耐えられなくなった時、無理やり戻す為」

 俺の脳が頑張っているなら負荷くらいはあるか。そんな風に考えていると、今の発言におかしなモノを感じた。詳しくはないけど、これまでの説明に反している一文がある。

「お前のモニタリングは観測の内に入らないのか? 確か仮想世界の中で変わる要素はランダムで、本人が強く意識してない限りそれは変わらないんだろ? お前が介入したらその、変わる要素にはお前の意識も入らないといけないよな?」

 芽々子の手が、斜め上にぐっと伸びる。何かと思って身構えると、球体関節の指が俺の頭を撫でようとしていた。単純に身長が足りなくて出来ないのだ。背伸びしてもまだ足りない。

「鋭いわね。そう、そこもおかしい所なの。観測の要件を満たさず一方的に見る事が出来る……まるで漫画の中の世界を読者視点で見るみたいに。でも一番反しているのはもう一つの使い方。箱の中に入って薬を打った方ね」

 芽々子はCの横にC´を作ると、A、B、Cに向けて矢印を引っ張り、更に何処とも繋がっていない場所にHを書いた。

「あれは薬を打った瞬間に、貴方の認識する情報を極限まで下げる事で現実を崩壊させ、その魂を可能性の波として移動させるの」

「た、魂? 急に科学的じゃなくなったな」

「でも魂と説明した方が一番分かりやすいのよ。C´は今の現実を止めて、どの時間へも移動する事が出来る。貴方が意識する時間帯に向けて、正確な時間の座標さえ知っていれば何処へでも。ここまでならさっきと変わらないけど、可能性の波となった貴方にとってはそこが現実だから。死んだらそれまで。まずそこが大きく違う」

「俺が死んだら、Cはどうなるんだ?」




「貴方という存在は、最初からいなかった事になる」



 

「………………え?」

 聞いていた説明どころじゃない。自分が生きる現実全てを否定された気分だ。理屈が分からなくても、言いたい事は分かる。

「ちょ、ちょっと待った。それはおかしい。ここの現実が止まるってのもなんか納得いかないけど、止まってるなら何処で俺が死んでようがこっちで死ぬことはないはずだ! 何で、そんな事になる」

「だから魂と言った方が分かりやすいって話をしたでしょ。提唱者がこれをどうやって立証したかは分からない。でも次の性質が、有り得ない話ではないと納得させてしまった。それが、この何処にも繋がらないHの話」

 一旦言葉を切る。彼女は理解が追い付いているかどうか確認したいようだ。自分なりに嚙み砕いたつもりだ。質問も聞いてくれたから理解は及んでいると思う。決して的外れな質問はしたつもりがない。

「AがあるからBがあって、AがあるからCがある。そんな風に時間は一本で繋がっているように見えるけど、『仮想性侵入藥』は違う。Cに居ながら薬を使用して移動したBで起こした行動や結果は、Cに影響を与えてしまうの。これはAに移動したとしても同じ。Cより向こうのDやEに移動した場合でもね。分かりやすく三つ顔の濡れ男で言いましょうか。貴方は向こうで全滅の未来を観測した。それは貴方に影響を与えたけど、他の人の影響は? 気づかなかっただろうけど、向こうで死んだ全員が怪異と相互認識を完了していたのよ」

「はあ!?」

「全滅を目撃した事でその時間帯まで誰も死ななくなったのも干渉が起きた証。二体目の私が死体を破壊している最中の貴方を発見したのも向こうの世界の影響でしょう。勿論意識はしてなかった。更に言えば『黒夢』。向こうの世界から持ち込んだモノを分析したから、怪異を破壊する事が出来た。あの水銀剣は科学的な害はともかく、三つ顔の濡れ男にも通用するれきとした対抗武器だったの」

 鋼鉄のカバンは現在ハンガーにかけられている。絶対に掛ける場所は違うが、俺達のやり取りを見て尚、巨大な目玉は開きもしないし口を挟んだりもしない。

「あれは何なんだ?」

「正式名称は『対怪異特殊分析機構』。普段は持ち主の私にしか聞こえない音声を話すけど、仮想性侵入藥を使用している場合のみ、同じように可能性の波となって持ち込める。そして貴方にも声が聞こえるようになる」

「それって…………薬を打ったら向こうの選択とか要素はお構いなしに、箱の中にあるって事か? それも妙じゃないか? 観測も干渉も出来てない内から『黒夢』だけが自分の存在位置を自由に変更してるじゃないか。もしかして薬とあれの製作者は同じなのか?」

「試作品を作ったのは同一人物と言われてるわ―――もう分かったでしょう。要するにこれは自由自在に選択の違う世界を行き来し、そこで起こした影響を本来の現実に持ち込む事が出来る。私達はそれで噂のない怪異を相手に勝利した。手遅れの未来に行く事で隠蔽された情報を取得し、対策を練り、そこでほんの少しの揺らぎを与える。この何処にも繋がらないHは文字通り、Aを経験しながらBも経験しCも経験した状態の事。仮想性侵入藥の前には、時間は一本の線ではないの」

「つまりこういう事……か?」 

 ホワイトボードにペンで図を描いた。AとBとCを描いて、それらを円で繋ぐように⇔を描く。BとCの点から垂直に線を引いてそれぞれDとE、それからBとCの間にある弧から点Hまで線を伸ばした。

「本来はBを経験しなきゃDに行かない。Cを経験しなきゃEに行けないけど、BもCも何ならA以前にすら行けるから、これらは全て相互に干渉して本来の時間と因果関係に影響を与えるからそれでHに行けるって事だよな? 観測ってのが影響を確定させるなら……この世界全ての観測権を薬を使ってる間だけ握るって事になる」

「そう。そういう事。数少ない論文とその実験。そして実際に使った何人もの人が効果を実感してしまったから認めざるを得なくなってしまった。問題はあまりに今の科学とは結び付かず、かといって荒唐無稽でもないから扱いにくいという事ね。だって使えてしまうんだから。薬の成分は用意出来るけど、残された資料に書かれた以外の方法では再現に成功していないわ。同じ材料を使っても、似たような効果すら出てこない」

 俺はそんな薬を、自分の精神安定剤として何度も使ったのか。今更ながら、己の情けなさに腹が立ってきた。そんな貴重だと分かっていれば……なんて言っても、後悔は先に立たない。薬を使ってまで選択をやり直したいとも思わない。それで濡れ男の一件がどうなるかは予測がつかないのだから。

「…………説明はこんな所。質問がなかったらもう帰っていいけど、何かある?」

「戻れる時間帯に制限はないのか? 後、もし箱で閉じなかったらどうなるんだ?」










「制限はない、とされている。まだ誰も試してないの。危ないという結論でね。現実を知覚する情報を少なくしなかった場合、貴方の魂は中途半端に飛ばされ、二つの現実を跨ぐ事になるでしょう。Bに居ながらCに居るとか。誰もやったことはないけど、おススメはしない。二つの現実を同時に認識するなんて……脳のキャパが持たないわ。理屈で言えば……本来あるべき現実に起こる影響を認識しながら干渉を起こせるけどね。それで死んでしまったら、元も子もないでしょう?」

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