助かる予知もない

 本体と、この状況での遭遇。

 俺にやれるのか。

 得た情報は濡れてはいけない事のみ。それだけでは不十分だろう。でもやらないといけない。最悪死んでもいいなんて思わない。もしそれが許されるなら芽々子が俺を送り出す前に伝えてくれる筈だ。

 携帯の懐中電灯を頼りに前方を照らす。条件として俺はまだ抗える方だろう。四肢を失っているから、恐らく他よりは殺されにくい筈だ。こんないい加減な考察も、信じるしかない。逃げるにしてもここは行き止まりで、突破するにはどっちみち一度やり過ごさないといけないのだから。

 携帯の灯りが明滅するなんて、そんな妙な事ってないだろう。光が消えた一瞬の隙に、そいつは姿を現した。

 水死体のようにふにゃふにゃで、ドロドロで、何人か混ざったような顔が幾つも胸の上についている。水の滴る指先はボロボロの衣服なのか皮膚なのかハッキリしない。泥水のような黒っぽい水に染まっていてどっちとも言い難い。

 


 三つ顔の濡れ男。


 

 生理的嫌悪感を否応なしに引き起こす、名前通りの水死体みたいな怪物。平時ならここまで冷静になれない。いや、これも冷静ではない。間近に死を感じていて固まっているだけだ。本来の俺はもっと情けなくて、きっとこんな事をする柄でもない。失禁したかもって、それくらいは冗談でも何でもない。

 だけどこれまでの情報から、自分のすぐ近くに液体を吐き出すような行為をするのは避けたいと思った。俺には怪異の全てが分からないけど、何か一つ避けようと思ったら類似した事例全てに警戒するのは当然の事だ。

「~~~~~~~~~」

 さざ波混じりの声は、誰に発しているのかまるで掴めない。ハッキリしているのは明確な敵意だけだ。ずるずると肉の表面を引きずるような音が徐々に近づいてきている。本人の痕跡を採取するならそれは当然攻撃になると思うが……攻撃しても、いい、よな?

「…………はぁ。くっ。うっ」

 喉が急速に潤いを失っていく。失敗したらどうなるかは想像したくもない。だからやるしかない。成功しか考えない。片時も目を離すべきではなく、その瞬間が訪れるまで動く事も許されない。

 ヒュっと鈍重な動きに反した何かが顔めがけて飛んでくる。殆ど脊髄反射で腕を持ち上げる事しか出来なかったが、いつの間にかまた鞄を持っていた。それが盾となって飛翔してきた物体をすんでの所で防御する。

「な、なんだってんだよ!」

 勢いは殺せず後ろに転びかけたが、壁があったお陰で事なきを得る。鋼鉄の鞄は頑丈で傷一つついていなかったが、自分に飛んできた物を見て成果とは無関係に顏が引き攣った。

 銛だ。それもこの島で使われている物。これもまた殻を纏っているがそんな事は重要ではない。大事なのはこれを俺に向けて使ったという事実。獲物として見られているという、明快な真意。


 ―――このままじゃ、殺される!


 その一発が契機となって、次々怪異の体から銛が飛んでくる。いずれも濡れて光を反射している。決して食らってはいけないと本能が語った。だがたまたま一発凌げただけの攻撃を都合よく何度も躱せる道理はない。頑張って鞄を使って防いだつもりだったが、シャベルを持っていた右手に銛が直撃。

「ぐうううううううああああああ―――っ! あ、うぐうぇぁ…………!」

 疑似神経がどうのこうの。腕に大きな穴が空いたような痛みに耐えかねて動きが鈍る。シャベルはその場に落ちて、俺も動けなくなった。

「天宮様。ソノ痛ミハ本物デハゴザイマセン。今スグ腕ヲ分離サセル事ヲ推奨シマス」

 そんな事、分かってる。だが神経は神経だ。腕の感覚は日常生活に不便を持ち込まない為に繋がっている。意識の飛びそうな痛みに反して腕はまだ動くが、とてもとてもそれどころじゃない。

 『三つ顔の濡れ男』が近づいてくる。胸の上に空いた無数の顔が笑っているように見えて……ああ、いよいよ。死期は近いか。




「私が人間なんて一言でも言ったつもりはないけど、どうして放置したのか聞かせてもらおうかしら」




 洞窟の入り口方向から、声がする。現れたのは赤いポリタンクを手に持った芽々子だった。彼女は怪異が振り返らない内に中の液体をぶちまけると、もう片方の手に持っていた酒瓶を投げつける―――刹那、『三つ顔の濡れ男』の体が大炎上。

「~~~~~゙~~~゙~~!」

 波のような声が荒ぶり、形を失っていく。その間に芽々子は俺に近づくと、銛の刺さっていた腕を分離させてくれた。傷口を見ると、既に内部から浸水が始まっているようだったが、それ以上に不思議だったのは腕が外れた瞬間、繋がっていた痛みも消えたという事だ。

「早く逃げて。貴方の役目はこれで終わった筈だから」

「お、お前は壊されたんじゃ……?」

「壊されたくらいで死んでたら、貴方とも出会ってない。こっちの未来ではもはや打つ手はなく、夜が明けるまでに私以外の全員が全滅するでしょう。でもそうはならない。予知したのなら、貴方には防ぐ余地がある……あ、駄洒落じゃないから」

 突っ込む隙すらなく、芽々子は腕に刺さっていた銛を抜くとクロメアの口に向けて縦に突っ込んだ。

「さ、早く。急いで助けに来たからお土産は持たせてあげられないけど、情報はあったわね。見ての通り、が苦手みたい。勘違いしないでおきたいのは、怪異側から見て理解出来る物じゃないと駄目だから、そこはちゃんとしてね。撥水性の凄い傘なんか用意しても意味ないから」

「あ、いや、えっと。まだその、有効なあれこれが!」

「そういう思考はもう何時間か前にする事で、今じゃない。行って」

 どん、と背中を押された勢いのまま、俺は洞窟の入り口に向かって走り出した。横目に通り過ぎた怪異からは殆ど火が鎮火しているように見えたが攻撃はなかった。

 洞窟を出た瞬間、砂に足を取られたが。立ち上がってまた走る。クロメアの案内の下、あの箱へ。片腕だけを失うとバランス感覚が奇妙な事になる。思うように走れなくて何度も転んだ。砂が深すぎる。

「分析ガ完了致シマシタ。銛ハ海底ニ落チテイタリ、浜に流レ着イタ物ノヨウデス。結論、干渉力ヲ発揮スルノハコノ殻ト見テ間違イ無イデショウ」

「どうすればいい!?」

「怪異ニ縁アル物体ナラバ、苦手ハ共通シテイマス。推奨、水ヲ遠ザケル物ノ用意」

「遠ざけるって…………」

 潮の匂いが背後から近づいてくる。急がないと。灯りもつけず走っているが、音で位置はバレているとみるべきだ。だがもう少し、後少しで箱に到着する。

「目標地点ニ到達シマシタ。推奨、肉体ヘノ帰還」

 箱の入り口を開けて、鞄と自分の体を滑り込ませる。そこで気づいたが、箱を閉める人が居ない。内側に取っ手なんかつけなかったから、誰かが外から入り口を閉めてくれないと状況再現が出来ないのだ。 

 ズルズルと引きずるような音と潮の匂い。確かに近づいてくる。だが今更顔を出す度胸はない。ここでずっと、殺されるのを待つ? でも顔を出して見つかったら―――そもそも俺には、一人で入りながらここを閉める方法がない!

 思考と体が絡み合ってドツボに嵌っていると、急に入り口の蓋が持ち上げられて、内側に翻った。バタンと蓋が閉まるとまた完全な暗闇が俺を包み込む。

「だ、誰だ!?」


 …………


「芽々子!?」

 

 ………………


「もしかして、響希か!?」

 

 ……………………


 音はなく、色はなく、感覚もない。現実が崩壊したように全ては意味を為さない。ぼんやりした視界と気だるげな意識が感知するにはあまりに脆かった。全て、俺から隠れるように分からなくなる。未来の不確定を証明するように、或いはその予知を終わらせるように。全ては夢か現か幻か。現実なんて言葉に反して、俺にはどこが正しい世界か全く分からない。

 どれくらい経っただろう。意識がクリアになった気もするが、景色がこれでは正しいのやら。潮の匂いも、引きずるような足音も聞こえてこない。直前までは本当に、すぐそこまで来ていた。

「………………」

 思い切って右手を上に突き上げる。

「えっ」

 失った筈の右手が動いた事に驚いて、そのまま力いっぱい蓋を殴りつけてしまった。蓋は勢いよく翻って密室を解除。眩しい陽射しが簡素な箱の中に差し込んだ。

 上体を起こすと、隣で芽々子が祈り手を組みながら目を瞑っていた。俺が彼女を認識したのとほぼ同時に、その両目が見開かれる。瞬きをする必要がないだけで、それ自体は可能なのか。

「…………おかえりなさい」

 隠す必要なんてないのに、芽々子は手をすぐに離して両手を後ろに隠した。


「一応労うけど、心配はしていなかったわ。さあ、成果を聞かせてくれる?」

 

 芽々子の体が壊れていない。一度も壊されていない。造られた美貌を喪う事なく、そこに座っている。

 箱から出ると同時に、身体は彼女を抱きしめていた。存在を、その実体を、確かめたくて。

「………………何?」

「ごめん。自分でも良く分からない……壊されても復活するのに、なんでだろ……分からないけど………………お前が無事で良かった!」

「…………」

 人を模した指が、背中を優しく伝う。










「………………怖い思いをさせたみたい。ごめんなさい」

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