背徳の蠱惑

 シャワーの熱湯で恐怖に凝り固まった俺の思考が水と共に流れていく。この密室が恐怖を抑制し、湯船は一日の疲れを洗い落としていくようだ。窓があったら堪えられない。アイツが見ているかもしれないと思ったら、想像するだけでもいまに寒気がやってくる。

「………………」

 叫んだのは、良くなかった。

 芽々子のいいたい事は分からなかったが、あそこまで示し合わせたように柳木家の異変が無視されている時点で、それを探る存在を知らせるような声は出すべきじゃなかった。それで大勢が集まってきたら本当にどうするつもりだったのだろう。今回はそれは起きなかったけど、代わりに響希にそれを知られてしまった。翌日どうなるかは誰にも分からない。芽々子も特に触れなかった。


 ―――俺のせい、だよなあ。


 冷静になると自分がどれだけ情けない男だったか思い知らされる。危機的状況に対応出来てこそ、一人暮らしの意味があるだろう。誰にも頼らないは無理だが、おんぶにだっこは避けたいと思ったからその暮らしを望んだのだ。これじゃあ何のために一人暮らしを望んだのか。頼るより頼られる人でありたいのに。

 長風呂は程々に、入浴を終えて脱衣所で着替えを済ませる。一旦冷静になったせいか、疲れを一時的に忘れている。眠気もない。

「おかえりなさい。アレの事ならもう大丈夫。ここには入ってこない」

「な、何をしたんだ?」

「それよりも、まずは空腹を満たさないと。飢餓・不安・未知は恐怖の糧よ。簡単な物しか作れないし、レシピ以上のアレンジは何も出来ないけど食べて」

 用意された夜食は豆腐をざっくり切って入れただけの味噌汁と、冷蔵庫に入れてあった冷凍のハンバーグだった。味覚を人形に期待する事がどれだけバカげてるかという話がある。だから味が最初から完成している冷凍食品は非常にありがたい。

「温めておいたから大丈夫。味は……その会社が保障している通りよ」

「やっぱり芽々子は何も感じないのか? 美味しいとか不味いみたいな」

「場の空気に合わせて言う事は出来るけど、そうね。実際何も感じないわ。貴方は私を憐れむ? 意外と苦にはならないものよ。お陰でまだ生きてる。本来はこうはならなかった」

 芽々子は俺が食事をする様子をじっと見つめたまま机の上で肘をついた。空腹のない彼女にとって他人の食事の時間は暇で仕方ないだろう。品数も少ないから早く食べて、話を済ませないと。

「できれば食事中にも話を聞きたいんだけど……もぐもぐ」

「あまり行儀が良くないわね。何処から説明したものか……そうね。まず、事態はより深刻な方向へと進んだわ。雪乃響希さんも目をつけられてしまった。叫び声を聞いて出てくるなんて」

「それ、一体……何の話だ? 俺はそんな話を誰からも聞いてないぞ」

「貴方はどうせ日替わりのバイトでくたくたになって帰るから気づかないでしょう。これは本来もう少し後の時間……丑三つ時と呼ばれる深夜二時頃の取り決め。叫び声が聞こえても取り合わない。獣が集まるから……と言われているけど」

「…………けど」

「実際は違う。怪異に殺された死体を見てしまうからよ。あ、怪異っていうのはお化けみたいなモノね。私達がさっき必死になって遭遇を回避してたあれの事。本島に居たなら、こっくりさんと口裂け女の同類と言えば分かるわね」

「ああ、そういう……いや、それなら対処法がある筈だろ。実在するかしてないかはこの際置いといてさ……柳木は絵を描いてただけで対処法を遺した訳じゃない。ひょっとしたらあったのかもしれないけどアイツは取り込まれたんだろ」

「…………」

 芽々子は目を細めると、大きなため息をついて俯いた。

「説明が難しい。面倒くさくなってきたかも。そうね、貴方の言いたい事は分かる。対処法が伝わってないのはおかしい。みんな、まるで何も知らない様子。そう、怪異とは迷信。噂から生まれる筈のモノ。だから響希さんは少なくともそれを知っていなければおかしい。その通り」

「……………お、おう?」

「………………納得のいく説明にはならないけど」




「この島に怪異への対抗策は一切伝わっていないの」




 進んでいた箸が止まる。難を逃れて満たされていた筈の腹は、突然食べる事を停めてしまった。意味が、分からなくて。

「怪異の事なんて誰も知らない。けど残念ながら確かに彼らは存在する。誰も被害に遭ってこなかったのは相互認識がないから。迷信は、そもそも信じなければ存在していないの。だから大人が夜に活動しても基本的には大丈夫」

「でも柳木は!」

「そう、随分前から信じていた。恐らくは彼の両親も。だから被害に遭ったの。両親の死体だけが残ったのは―――そうね、次の獲物を探す為って所。死体を見たせいで私達は全員それを認識してしまった。これからずっと、死ぬまで、つけ狙われる事になる」

「頑張って逃げながら生活する…………のは、無理だよな。そういう事すると多分、怪しまれる気がする。人形を―――お前を探してる誰かと、同じ勢力なんじゃないのか?」

「へえ、鋭い。そうよ、この人形の体も怪異と同じ。厳密には少し違うけど……私の体に用があるんでしょう。それに怪しまれなくても、認識された以上タイムリミットがつくわ。個体差はあるけど、大体三日。三日も付け狙われたら怪異は家にも入ってくるようになる。私達が生き残るには、三日以内に怪異に対処しないといけない」

 途中から料理の味を感じなくなってきたのは、味覚が壊れたからではないだろう。恐怖で舌が麻痺して、上手く伝わってこない。それでも栄養の為には無理やり胃の中へ運ぶ。

「で、出来るのか? そんな事」

「私と貴方なら出来る……この際、響希さんにも手伝ってもらわないとね。噂の伝わっていない怪異への対処は並の手段では不可能だけど……大丈夫。ただ一つ注意。この方法は倫理観を軽視しているわ。本来はもっと穏便に済ませるつもりだったけれど……響希さんが初日で殺されるのは嫌でしょ。私が何をしても、貴方に何を命じても文句は言わないって約束して」

「…………ほ、方法次第なんだけど」

「今言ったら、断言してもいい。貴方は拒絶する。自分と私と響希さんの命がかかってても、約束はしないでしょ。ねえ、お願い天宮君。代わりはいないの。この体の事を知る貴方の事しか―――信じたくない」

 用意された食事は綺麗に空となった。味なんてもはやよく覚えていない。まっすぐに留められた黒の瞳は吸い込まれんばかりに美しく、妖しく、自分が自分でないような浮ついた感覚に囚われているようだ。

「………………わ、分かった。分かったけど…………響希は本来関係ないんだ。自分の事よりも、俺はアイツの事を優先するからな。絶対、死んでも助ける。お前にも協力してほしい」

「それは勿論。じゃあ、約束ね?」

「俺達は共に、人形の手で指切りをした。表情は一切変わらないが、やっぱり何故か芽々子が嬉しそうに微笑んでいるようにも見える。泣いているようにも……幻覚、幻覚だろう。

「正直に言えば、貴方以外に協力者を作る訳にはいかないの。だから―――私を信じてくれて、嬉しい」

「それはどうしてだ? 俺みたいに脅せばいいだろ」

「貴方を捨てて他に協力者を作るとなれば、貴方は私の正体を知ったまま放置される事になるわ。それは非常に困る。そんな事はしない。自分で勝手に爆弾を作るようなものじゃない」


 ―――――――!


 「…………なあ、その。お前の寝る場所についてだけど。良かったらベッド使わないか? 俺はソファでいいから」

「気を遣わないで。私の事はそれこそ人形か何かだと思ってくれたらいいから。何より大事なのはまだまともな生体機能を有してる貴方の体調……こんな事で恐怖が和らぐかは分からないけど」



















  人肌は緊張感を和らげてくれる。

  だそうだが、人肌の温もりを持つ人形の体はどうだろう。躊躇いなく己の体を差し出してきた時―――自分の保存本能という物がとても恥ずかしくなった。その提案を受けた時、尋常な男であるなら断るべきだったのだ。

『私を抱き枕だと思って寝ればいい。今日はまだ少し緊張しているみたい」

 人形の体を知っている。

 感覚がない事を知っている。

 芽々子がクラスで一番顔が整っている事なんて当然だ。精緻な造りの人形はおよそ現実離れした人らしくもない美貌を持つ。忙しさに殺されていたから見向きもしなかっただけで……あの夜からずっと、ほんの少しでいいから。

 俺は。

「天宮君。そんな強く抱きしめられたら、私の身体が壊れちゃうけど…………」




「…………ううん、何でもない。貴方の四肢を奪った私には、その権利がなさそうだから」

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