理破りの因習

 人間が強い恐怖を覚えると気を失う。そういう事もあるかもしれないが、必ずしも人間が意識を失うとは限らない。

「あ…………………………………………ぅ」

 俺にとっては意識を失う方が幸運だったろう。腰から下の感覚がふっと消えたのは錯覚じゃない。力が入らなくなって、身体を動かせなくなった。意識を失いたい

視界が本能に従って目を閉じる。体を縮こまらせて、ぐっと固くなった。


 ―――脳の理解が及ぶ事を拒絶する。


 一度、一秒、脳裏に焼き付いた記憶は永遠のよう。初めからこの景色に毒されたいたように頭から離れない。俺が求めていた希望、充実、そういった物から大きくかけ離れる光景だった。それはこの世にあるまじき地獄であり、幸せを求めた人間が決して立ち会ってはいけない刹那。

 カチ、カチ、カチ。

 何の疑問も抱かなかった秒針が、今はこんなにも煩わしい。怪物が襲ってこようとはしていない。そこにあるのは物言わぬ肉塊が四つばかり。そいつが今にも動き出して俺を食べようとしている事もない。

 だが体が動かない。蛇ににらまれた蛙なんて、そんなことわざがぴったり当てはまる状況だ。零れた目玉が俺を睨みつけている。この光景を忘れるなと。お前が見たかったものであると。

「………………………」

 ここは絶海の孤島。こういう時に頼りたい両親は居ない。その干渉を望まなかった俺の願った通りだ。だがこれは違う。これはあまりにも俺にとって…………認めたくない世界の話だ!



「アンタ、こんな所で何してんの?」



 無限にも思える時間。俺の体に触れたのは。響希だった。

「…………あ………………ひび、き?」

「ひび、き? じゃないのよ。柳木の家に勝手に入るなんてどうしたの? ていうか鍵開いてたの? 何を見て―――」

「―――う、後ろを見ちゃだめだ!」

「え?」

 注意喚起のつもりが、自分で正体を言ってしまった事に気づいても遅かった。床に転がった懐中電灯がその悍ましい光景をありありと照らしている。死体を見た瞬間、彼女の動きは確かに止まった。

「………………………………………………は、は?」

 位置関係として雪乃響希の顔は見えない。けれど、理解が及んでいない事は分かった。不思議な話だが、他人が危機に陥っている時、俺の体はそんな場合ではないと動けてしまう。

 急いで彼女の手を掴んで階段を下りる。降りた先には、芽々子が佇んでいた。

「叫ばないでほしかったわ」

「芽々子! あ、えっと! 死体! 上に死体が!」

「……部外者も居る様だし、今日はここまでにしましょう。だけど、もう家には帰らないで」

「え、な、何で?」




「怪異は相互認識を常とする。貴方達はその被害を認識した。あれらもまた、貴方達を認識出来るようになったわ。だからもう外は出歩いちゃ駄目。私じゃ助けられない」




 怪異? 相互認識?

 何を言っているか分からないが、とにかく今日は家に帰れないという事か!? いやしかし、だが、こんな家で一夜を明かしたくない。死体と一緒なんて死んでもごめんだ。

「どうにか家に帰れないか! 明日も用事があるのはそうだけど……家以外の場所に居たら怪しまれそうだし!」

 芽々子は俺から視線を外すと、茫然自失の状態が続く響希に問いかけた。

「どうして外に出たの? 叫び声が聞こえても気にしない。この島に住む貴方ならそう教わってきたでしょう」

「……………………」

「響希さん。答えてくれる? 私達にとっては死活問題なの。早く」

「もうやめろよ! お前と違って響希は人間で、ちゃんと恐怖もあるんだ! そ、そうだ。裏口から多分出てきたんだと思うからこいつを家に戻してやってくれ。俺は自力で帰る。自転車ですぐ帰れば間に合うだろ!」

「自転車……私の案内もなしに帰るつもりなら、おススメしないわ。捕まるわよ」

「じゃあどうしろっていうんだよっ」

 響希の手を、芽々子が掴んでひょいと持ち上げた。手提げカバンでも持つみたいに乱暴に。

「すぐ戻るから待ってて。衝動的に逃げちゃ駄目。何が聞こえてきても。貴方に死なれたら困る…………から」

 それだけ言い残して芽々子は早送りのような動きで彼女の家に突入。走っているようには見えない。本当にコマが高速で切り替わったような動きだった。戻ってくる頃には勿論誰も背負っていないが、左目の下に罅が入っている。

「だ、大丈夫か?」

「私の事は気にしないで。それより早く自転車を」

「お、おう!」

 自転車に跨ると、芽々子は俺の背中にひょいと腰かけて軽く肩を掴んだ。動いたら振り落とされそうだけど―――これでいいのか。

「情報は少ないけど、これだけは守って。不自然な潮の匂いがしたら、その道は通らないで。一本道ならすぐに戻る事。判別できるように海の近くは通らない事」

「分かった!」

 ペダルに足をかけて勢いよく漕ぎ出すと、タイヤは問題なく駆動して俺達を運び出した。芽々子の重さ分コントロールは厳しいが、なんて事はない。さっき自転車で爆走していた事が功を奏する事になるとは思わなかった。ルート判断は完璧だと思う。


 ―――強い潮の匂いを感じるまでは、そう思った。


「こっちは駄目か!」

「ほかの道ね」

「お前は分からないのか!?」

「人形は匂いを感じられないわ」

 

 坂道でも細道でも、野良犬が跋扈するような場所も。構わず押徹。それは確実に俺達をつけ回しており、真正面に先回りしてくるのは一度や二度の事じゃない。何度も道を変え、戻り、大きく迂回させられている。家に帰る筈が、気づけば一時を回っていた。

「足が速すぎるぞ! どうすればいいんだ!」

「道じゃない道を通った方がいいかもね」

「道じゃない道…………? そうか!」

 住宅の密集する場所には必ず子供が見つけるような道と呼ぶかも怪しい隙間がある。言ってしまえば他人の敷地に入っているから住居侵入だが、この際気にしている場合じゃない。家の裏手の一本道に回り込むと、非常に死角になりやすい場所に自転車を停めた。道なりに進めばそこからは強い潮の匂い。俺達は急いで道を横断すると、ブロック塀の上に飛び乗って、家と家の隙間を強引に通過。飛び降りて、アパートの駐輪場に着地した。

「芽々子、お前はどうするんだ!?」

「今日は泊まらせて。夜を明かすまでは、安心出来ないわ」




















 クラスのSNSを見れば呑気にやり取りをしている人間もいる。深夜でも、眠れないからと通話する人間もいる。真紀さんに適当な話題を振ればちゃんと返してくる。流石、夜食の人間にとっては活動帯だ。

 現実だけが、この平和に追いついてこない。芽々子はクローゼットを見つめると、「私はここでいい」と中に入ろうとした。良い訳がない。人形でも、大切なクラスメイトだ。

「そういえば夜食がまだだったわね。料理は出来るけど、食べる?」

「そんな場合じゃない! あ、あれはなんだ? あれが『三つ顔の濡れ男』なのか? なんでみんな知らない? なんで死んでる? 相互認識ってなんだ? 怪異って何だよ!」

「色々聞きたい事があるのは分かったけど、まずは落ち着いてシャワーでも浴びてきたら? その間に私は一時しのぎを講じる。明日の朝に聞きたいことは全て教えるから、とにかく落ち着いて。貴方の事は私に守らせて。全力を尽くすから」

 決してそんな関係ではないだろうに、芽々子は躊躇なく俺を抱きしめて、背中を優しく撫でてくれた。虚構の体温と分かっていても、それでも気持ちは少しずつ波を収めていく。

 人形、人形というけど。触っているだけでは女の子の身体そのもので、強調しないとその事を忘れそうになる。柔らかくて、暖かくて、こんな状況なのに―――こんな状況だからこそ、良くない感情が掘り起こされる。

「な、何で俺をそんなに…………いや、ひねくれてる場合じゃないな。有難う。頑張って落ち着くよ」

 身体を話してまじまじ顔を見遣る。芽々子の表情が変わる筈もない。だが―――いいや、錯覚だろうか。彼女は確かに笑った気がしたのだ。

「私は貴方の四肢を材料に自分を再生した。これは私なりの誠意と贖罪よ。貴方にはもっと私を頼ってほしいし、私を信じてほしい。二人だけの秘密……でしょ」

「――――――ひ、響希には知られたけどな」

「それは、夜にこっそり出歩いている方でしょう。二人の秘密は一生もの……私はそのつもりで、貴方を助けた。勿論、貴方の為に助けた訳じゃない。私には私の理由があった。けど……自分の人生に一生懸命な人を見捨てる気にはならなかっただけ。そこはくれぐれも勘違いしないでほしいわ。私には感情がないから」

「…………そ、そうなの……か?」

「人形に人間性を求めるなんて滑稽よ。話は終わり、早く入ってきて。その間にベッドの整理と簡単な食事を用意しておくから。どれだけゆっくりしても自由だけど、携帯でこの事を誰かに漏らしたりしないように。誰かをお世話するなんて、本当はやりたくないんだから。人形だってバレても困るし」

 芽々子は鼻歌を歌いながらエプロンを着用すると、動かない俺を見て首を傾げた。



「何見てるの?」

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