第26話


 雅季が病院に搬送されてから、三日経っていた。

 首と足首には包帯が巻かれ、手にも所々に絆創膏が貼られている。

 一日目はほとんど記憶がない。

 二日目は眠ったり、目を覚ましたりを何度も繰り返していた。

 始終頭がぼうっとして、全てが夢の中の出来事にも思えた。

 三日目の午後、始関が見舞いに来た。

 青鞍も同伴したかったが、面会制限があるので、遠慮したとのことだった。

 香村は素直に全てを証言したと、始関は報告した。

 学生時代のこと、宮尾沙織との繋がり、警察の地位を利用しての犯罪幇助。警察組織を欺いた全ての隠蔽、証拠隠滅、情報改ざん……。

 沙織にたくみに誘拐され、智洋の餌食となった石渡は、搬送先の病院で息を引き取った。沙織と智洋もあれからすぐに捕獲され、取り調べや精神鑑定を受けている。

「なんかね、支援センターの子供相手に激昂したの、悪かったって言ってた。そうなの?」

「はい……」

 雅季が抑えた香村の腕の強い力が、手に蘇った。

「少年の一人が須田仁美のことを『バカ女』って言ったのが、トリガーだって。香村の父親が昔、宮尾沙織をそう罵倒して、その言葉だけは、今でも過剰反応するんだって」

 最初は大人しく話を聞いていた香村が、突然暴れたのには、そんな理由があったのか。

 宮尾沙織の人生が決して楽ではなかったこと、香村も多感な時期に父親によって無残に壊された沙織との関係を、自分なりに修復したかったことにも、雅季は多少は同情した。

 だが、決して踏み外してはいけない道があった。


 今日も、病室の閉められた窓の外から、かすかだが蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 盆は過ぎたのに、暑さはまだまだだ続きそうだ。

 ブラインドの隙間から、青空に浮かぶ白い雲が、ゆっくりと流れていく様子が雅季の心を少しだけ軽くした。

 ドアがノックされ「どうぞ」と応えて体を起こす。

 声を出すと、まだ喉に違和感がある気がした。きっと、精神的なものだとは思うが。

 スライドしたドアの隙間から、マスクをした久賀が顔を覗かせた。

「今、大丈夫ですか」

「はい」

 入室した久賀が、ベッド脇のパイプ椅子に腰をおろす。

 ネイビーの五分丈袖のティーシャツに、ライトグレーのパンツ姿だ。そうか、今日は休みなのか。

「あの、マスク外して大丈夫ですよ。空調効いてても暑いでしょう」

 雅季が促すと、久賀は一瞬考えてから、それを外して黒のトートバッグに入れた。

 そのまま小ぶりの紙袋を出し、雅季に差し出す。

「これ、どうぞ」

 雅季の好きな和菓子屋のものだった。思わず顔がほころぶ。

「食べられるかわからないので、なるべく日持ちするものを選んだんですけど」

「嬉しいです。ありがとうございます」

 久賀がほっとしたように微笑した。

「気分は、どうですか?」

「まだ、なんとなくだるいです。検査で特に異常はなかったんですけど。軽い打撲と捻挫、親指の脱臼。あと、まだ痕が……」

 雅季が首の包帯に手を当てると、久賀の顔が悔しそうに歪んだ。

「香村、吐きましたね。石渡さんは……残念でした」

「はい。昨日始関さんから聞きました」

「宮尾智洋の鑑定も進んでいますが、受刑は絶対です。減刑なんてとんでもありません」

「はい」

 二人の間に短い沈黙が落ちた。 

 雅季はベッドサイドの床頭台から水のペットボトルを出し、久賀に進めた。

 雅季も喉を湿らせる。

「そうだ。来週正式に検事次席が就任します。新楽さんは大阪に戻るそうです」

「そうなんですか。色々、大変でしたね……。新楽さんもプレッシャーがあったと思いますし」

「いや、それは雅季さんの方でしょう」

「私は別に……。新楽さんが指摘したことは全て正しかったですし、何を信じるか、視点が違うだけで捜査の方法が真逆になることもありますし……」

「でも、あの神岡の誤認逮捕は、さすがに……」

「もう、終わったことです」

 雅季が久賀の言葉を遮った。

「それに、神岡も完全にシロではありませんでしたしね」 

 それに頷いた久賀が、唐突に「そうだった」と、バッグから携帯電話を出し、操作し始めた。

「じんちゃんが退院したんですよ」

「えっ、嘘……」

 雅季は久賀の方へ身を乗り出す。 

「昨日の夕方、獣医さんから署の方に連絡があって、始関さんが受け取りに行ったそうです」

 そうだ、異変があったらいつでも誰かしらと連絡が取れるように、獣医には署の電話番号を伝えていたのだ。

「証拠動画がこれなんですけどね……」

 久賀は得意げな笑みで、携帯電話をゆるりと左右に揺らす。

「み、見せてください!」 

 雅季は咄嗟に手を伸ばすが、久賀はそれをすっと遠ざける。

 代わりに上体を雅季に寄せ、真顔で見つめた。久賀が急に間近に迫り、雅季の頰が熱くなる。

 ——心電図をとられていなくてよかった。

「見たいなら、一つ約束してください」

「約束?」

「もう、決して単独行動はしないと」

 雅季はぐっと息を詰めた。

「け、検事の久賀さんにそれは関係ないじゃないですか」

「あります。寿命が縮みます。ずっと探して、やっと見つけたのに、もう失うなんて……嫌です」

 雅季の胸がじんと熱くなった。

「だから、約束してください。もう一人でどこにも行かないと」

「そ、その必要があるなら……」

「あります」

 そっと差し出された小指に、おずおずと小指を絡めて指切りをする。

 そういえば、以前の事件の時も指切りげんまんをしたことがあった。

 なんだか、こうして久賀との約束が増えるのが嬉しい。

 指を離すと、雅季は久賀から携帯電話を受け取った。

 画面上の動画再生の三角形を押す。

 係長室の机上に置かれたじんちゃんが映った。

 甲羅を透明なラップフィルムでぐるぐるに巻かれていたが、画面の横から小松菜が映り込むと、それに元気よく食いついた。

『ちょっと、サム。もっと引いてよ。そんな近かったら僕が入ってないでしょ』

 始関の声がすると、カメラが後退して、小松菜を与えている始関が現れた。

『篠塚さーん、早く戻ってこないと、係長にじんちゃんとられちゃいますよーー』 

 青鞍の間延びした声が聞こえ、始関のピースポーズで動画が終わっていた。

「これ、どうしたんですか。私のところには来てないのに」

 雅季がもう一度再生している間に、久賀が説明した。

「この動画、昨夜始関さんから送られてきて。いい迷惑ですよ」

「あ、すみません……」

「いえ、そういう意味じゃないです。私の方もここに来る良い口実になりましたし」

 バッグに携帯電話をしまい、久賀は微笑した。

(口実なんて、いらないのに)

 この動画がハイライトなら、もう久賀は帰らなくてはいけない。もう一度、見舞いのお礼を言って……。

 雅季が口を開きかけると、真顔になった久賀が先回りをした。

「あの、私の取り調べの宮尾沙織の供述ですが、お話ししましょうか。篠塚さんが大丈夫なら……」

 雅季は息を呑んだ。もちろんだ。

「大丈夫です。お願いします」


**


 検事室に入室してから、宮尾沙織はしばらく無言で俯いていたが、ようやく顔を上げ、ぽつりぽつりと話し始めた。


 自分が留守にしている間に智洋が最初の殺人を犯し、香村が処理をして以降、息子には干渉しなくなった。

 それからは息子も荒れるようなこともなくなり、薬を与えていればあまり部屋から出ることもなった。

 薬は、香村が調達していた。効果はてきめんだった。

 何より突然暴れたりすることもほとんどなくなった。たまに物に当たったり、食卓をめちゃくちゃにしたが、時間が経つと謝ってきた。

 薬のおかげで、息子は少し安定したように思えた。

 それに、沙織自身も香村と再び繋がることで、心の支えができた……それもただの支えではない。まさに守護神のような存在を得たことで、かつてない安堵を手に入れた。

 守られているという実感に、沙織は幸せを感じた。

 だが、それも最初の殺人から数ヶ月経つと、息子は人を殺めたことを忘れたかのように沙織の仕事中に少女を家へ連れ込んだ。

 そのことに、沙織は全く気がつかなかった。一緒に暮らしていて、その当時は古い一軒家を借りていたのだが、庭に小さな物置があってそこに閉じ込めていたのだ。

 智洋が悪いんじゃない。息子は普通に友達が欲しかっただけだ。こんな息子にしてしまった自分が悪い。育て方が悪かったから彼はこんなに苦しんでいるんだ。

 やり場のない苦しみに日々苛まれた。

 そして、息子が二人目を殺した時も、香村が死体を処理した。

 そのあとで、香村は智洋に殴る蹴るの暴行を加えた。沙織がすがりついても止めず、息子が泣いて許しを請うまで続けた。その後、智洋は香村の言うことは素直に聞くようになった。

 二人目の処分をした時、香村は「もう庇いきれない」と言った。

 奈落の底に突き落とされたようなショックに襲われた。

 だが、悪夢はまだ続いた。

 智洋が少女を殺した後は、香村が引っ越し先を決めた。まさか、自分の実家がある土地だとは思わなかった。しかし、子供のころ隣県に引っ越しているので、顔見知りは皆無だった。

 一度は弱音を吐いた香村だったが、結局最後まで護ってくれたと思う。

 香村の調達する薬の効果は確かだったが、与え続けていると、昼も夜も寝てばかり、起きていても表情がなくなり、箸を持つ手が震えたり、たまに話をしたと思うとその内容が支離滅裂だったりと、明らかに薬による副作用が顕著に目立ち始めた。

 香村には秘密にしていたが、沙織は、自分よりも息子の身を案じ、薬を減らした。

 だが、その反動か、智洋は今まで以上に不安定になり、荒れた。

 部屋は荒み、物が壊れた。

 ストッパーが必要だと思った。 

 仁美もやはり家出少女だった。たまに支援センターに出入りする彼女と話したが、いつも金に困っていた。

 相手に弱みがあれば、誘うのは容易い。

 彼女がコスメ好きだと知り、コスメライターとしてアフィリエイトブログの仕事を紹介した。

 自分の副業だが、代わりに書けば『一記事ごとに千円』という交渉が成立した。

 仁美は何の疑いもなく、部屋に来た。そして、智洋の毒牙にかかるのは時間の問題だった。

 既に傷だらけになった仁美を見て、香村は激昂した。逃げられたら破滅だ、と珍しく動揺した。

 仁美と智洋の監禁場所に廃業した廃棄処分状を提案したのは、自分だ。

 その頃、香村は東京の方で忙しく、沙織の安全を考え、智洋もアパートから離したほうがいいと考えたのだ。

 だが、それは裏目に出た。ある日、食料を持って沙織が監禁場所を訪れると、仁美はボロボロの死体になっていた。

 動揺し、タバコを吸った。その一本のタバコで後に香村から責められるとは思いもしなかった。

 もう、限界だった。

 いくら香村の力を借りても、息子との生活は永遠に続かないだろうことはなんとなく悟っていた。

 智洋がいつか変わってくれるだろうという微かな希望の光は、とっくに消えていた。

 反面、沙織にとって香村はすでに掛け替えのない存在になっていた。

 香村が昔のように、自分を大事に思っていることは十分伝わっていた。それが罪悪感からだとしても、嬉しかった。過去の傷ついた自分はすっかり癒されていた。

 その香村が、智洋もきっとこんな状態で生きているのが辛いだろうと言った時、自分が生んだ子供は自分が最後まで責任を取るべきだと思った。

 息子を幸せにできなかった。幸せにもできず、自分が老いて死んだ後も、このまま不幸でいさせるのは、辛すぎる。

 仁美の死体が発見された。おそらく、香村に限界が来ていたのだと思う。街を囲む山に隠し場所は困らなかったはずで、死体は隠すつもりはなかったのだろう。

 自分も、もう疲れた。だから、息子のために、そして自分のために決意した。

 そして、最後の計画は全て香村が考えた。

 だが、仁美の捜査が始まると香村の動きはかなり制限された。

 鳴海東署、本庁、そして沙織の世話はかなりの負担らしく、何日も連絡がないことがあった。

 そして、再び智洋が暴れ出した。

 香村が東京へ戻り、不在だった時だ。連絡も取れなかった。

 だから、沙織は生贄を捧げるしかなかった。それが石渡だ。

 石渡を車に誘って連れ帰ったのは、ショッピングセンターのフードコートの隣の席で、石渡が一人電話をしていた時「家に帰りたくねえ」と話しているのを小耳に挟み、声をかけたのだった。

 当然、中年女が声をかければ、不気味がられて断られるのがオチ、という軽い気持ちだったが、意外にも相手は一緒に車に乗った。

 智洋に友達ができるかも、と密かに期待した。

 だが、とんだ勘違いだった。智洋は石渡に全く興味を示さないどころか、部屋に閉じこもったまま出てこなかった。

 石渡の方が智洋を心配していたくらいだ。石渡が家に帰りたくない、と言ったのは本心のようで、彼は沙織の家に入り浸った。意外にも体も求められた。

 そして、沙織の勤務中に、智洋の狂気が石渡へ爆発したのだった。

 香村が戻ってきて、虫の息の石渡を見た時「もうお終いだ」と頭を抱えた。

 お終いに、したいのだと思った。

 智洋に睡眠薬を与えた後、再び廃棄物処理場へ石渡とともに運んで監禁したのだが、香村の目を盗んで沙織は助け出していた。

 それが露呈し、沙織は香村から激しく批難さた。その時の剣幕に、自分も邪魔になると思われ、殺されてしまうのではないか、と香村に対して初めて不審を覚えた。

 石渡とともにアパートに戻った智洋は、香村に再び薬を飲まされて、完全な監視下に置かれた。

 沙織には、もう何が何だかわからなかった。何かを自分で決める気力はもうなかった。誰かに全てを決めて欲しかった。

 香村が女刑事を襲い、林で全てのカタをつけると言った時、とうとう息子はお終いなのだと察した。

 最初はそれでもいいと思っていた。

 しかし、香村が銃口を智洋に向けたあの瞬間、自分は間違っていたと覚醒した。 

 絶対に息子は死なせてはならない。

 気がつけば、香村を殴っていた。

 

 **


 久賀が語り終わると、雅季は重いため息をついた。久賀の心配そうな面持ちを見て、微笑してみせる。

「母親の愛……なのでしょうか。全てとは言い切れませんが」

「宮尾沙織の犯行は、子を思う愛情だった、と?」

 雅季はゆるりと頭を横に振った。やはり、わからなかった。

 彼女の心中の全ては供述で語られていない。まだ不明な点も多々あった。

「車への落書きや、私の部屋への侵入は、宮尾も香村……香村被疑者も否認しているんですよね」

 不法侵入に至っては香村には雅季というアリバイがあるが、宮尾はその時間、智洋と部屋にいたと証言しているので、アリバイは成立していない。

「だとしたら、あのジョギングの時にぶつかった人物が男というのは私の勘違いだったんでしょうか。実は宮尾だった可能性が……」

 確かに、尻もちをついて、暗闇で見上げた状態で断言はできないが、背丈は宮尾沙織くらいの気もする。

 しかし、殺人幇助を告白し、なぜ家宅侵入だけは否認するのか。

 そして、香村のアリバイを久賀はすでに知っているのだろうか。

 あの夜、香村と雅季はホテルの一室にいた。

 警戒していたのにも拘らず、結局は自ら罠に嵌ってしまった。久賀を出し抜いてやろうという気持ちも、頭の隅になかったといえば嘘になる。

 正直、軽蔑されそうだ。でも、打ち明けておいたほうがいい。

「久賀さん、あの……、実は」

「あ、すみません」

 久賀はにわかに雅季を遮った。

「喉。あまり喋ると疲れますよね。ゆっくり休んでください。そろそろ俺、行きます」

「え、あの……」

「連絡しますね」

 久賀はにっこり微笑む。そしてマスクを着用し、静かに退室した。

 急に病室が寂しくなった。

 雅季は、ブラインドの隙間から夕暮れの空を眺めた。

 きっと、久賀は知っている。

 言い訳させなかったのは、きっと私を信じているからだ。

 その、久賀の懐の深さに、胸が熱くなる。

 その時、床頭台の引き出しから、携帯電話が短く振動する音が聞こえた。

 着信した青鞍からのショートメールを開き、雅季は一瞬自分の目を疑った。

『じんちゃんから採取した血液のDNAと香村、宮尾沙織、智洋のDNAはいずれも不一致』

 では、一体誰が。この三人とは別に、自分を狙った者がいる。

 そして、その人物は未だ野放し——。

 雅季は急いで返事を打った。

『明日、出勤します』



 午後十時になるというのに、外の空気は肌にねっとりと張り付くような蒸し暑さだ。

 玄関へ続く廊下とリビングを隔てるドアの後ろに、雅季はじっと待機していた。ほんの少し開いた隙間からクーラーの冷気がいくらか流れ出てくる。

 梓の部屋には絹田と男性の私服警官が控え、消灯したリビングには青鞍が張っていた。

 五日前の午後九時、雅季と絹田ロナと青鞍沙武は、救助訓練用のレスキューマネキンを用意し、雅季のマンションに着いた。

 マネキンを雅季のベッドに置き、ブランケットで上からすっぽり包んで、あたかもそこで雅季が寝ているかのようにセッティングした。

 雅季のマンションの近くでは、二台の車が張り込みしている。 

 連続殺人事件の捜査本部は解散したが、鳴海東署では、雅季の車両事件の捜査が続けられていた。

 雅季の自宅周辺の防犯カメラから、家宅侵入された後、雅季が署に寝泊まりしていた間も何度か全身黒づくめの男が映り込んでいた。

 黒のパーカー姿、キャップを目深にかぶり、マスクをしていて、風貌は全くわからない。背格好はどれも一致している。

 男が現れるのは、大抵午後十時前後だった。

 きっと、男はまた自分に接触してくる。

 雅季にはその確信があった。

 さらにいうと、犯人の目星はついていた。

 逆に、なぜ今までわからなかったのかと自分に呆れた。

 だが、その点は須田仁美殺害の本犯と同一人物だと思い込んでいたので仕方がなかったかもしれない。

 犯人の目星をつけた理由はいくつかある。

 車に書かれた『シネ、サツ』という落書きから、この人物は自分が刑事であることを知っている。

 そして、ハツカネズミの死骸と『お前も同じ目にあいたいか』という言葉からも分かるが、共通しているメッセージはコロシと脅しだ。

 もし、この人物が今回の殺人事件とは全く別件で雅季を恨んでいるとしたら、このタイミングでわざわざ奇襲をかけるのは、捕まるリスクを高めるだけだ。そして、家宅侵入の際に手袋をしないという詰めの甘さ。

 この人物は殺人事件の関係者。おそらく、須藤仁美の身辺を洗われると困るがために、捜査を妨害しようとした。

 さらに、ベランダから侵入できるような身体能力の高い人物。

 自室のベランダの窓は少し開けてある。もちろん罠だが、もし、自分の狙い通りなら、犯人はその不自然さに警戒もせず、入ってくるはずだ。

 しかし、まだ須藤仁美には調べ残していたことがあったのか。

 一体何が……。

 その時、青鞍が無線に短く返答したのが聞こえた。

 この五日間、一度も入らなかった無線連絡だ。

 それが意味するものはただ一つ。

 雅季は全身を緊張させた。やがて、カラカラとベランダの窓が開く微かな音がした。

(来た) 

 何秒経ったのだろう。ものすごく長く感じた静寂の後、青鞍の床を踏む足音、そして男の短い怒号と、何かが床か壁にぶつかる音、青鞍の「警察だ! 確保! マル被確保!」という声が響いた。

 絹田が室内の照明を点け、雅季も部屋に飛び込んだ。

 床の上で、仰向けになった男の上に、馬乗りになる青鞍の背中が見えた。その近くに折りたたみ式のサバイバルナイフが転がっているのを目にし、雅季は身を凍らせた。刃体は短いが、刺されたらそれなりに負傷するだろう。

「ちくしょう、どけよ! いてーだろうがよ!」

 喚くその声に、聞き覚えがあった。

 ロナが青鞍に加担し、まだ暴れているブラックジーンズの脚を抑えた。

 青鞍がベルトから手錠を出して男の手にかける。そのまま相手の上半身を起こして、後ろ手にしたもう一方の手首に手錠をはめた。

 男を床に座らせたまま、青鞍は無線で張り込みの刑事に身柄確保を伝えた。雅季はゆっくりと男に近づいた。

 その気配に相手が顔を上げる。

「須田敏弥ね?」

 雅季は確認した。須田仁美の兄。

「あ、覚えてた? 俺に気があるとか、けーじさん。でも、これはねえだろ。せっかく遊びに来てやったのによ……っ!」

 青鞍の蹴りが、敏弥の右わき腹にヒットした。

「……ってえな! 暴行だろ、これ!」

「お前、自分の立場わかってんのか!」

「青鞍くん」

 須田に怒りを爆発させた後輩を、雅季は宥めた。不思議と心が落ち着いている。張り込みの刑事たちも部屋に入ってきた。

 雅季はもう一度、乱れたベッド、露出したレスキューマネキン、床に転がったナイフ、そして空のままの水槽に目をやった。

 腕のウェンガー社クロノグラフの時計を確認する。

 まっすぐ須田敏弥を見下ろし、言った。

「午後十時三十二分、住居不法侵入罪および強制性交等罪未遂の現行犯で逮捕します」

 

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