第25話


 雅季がズキズキと芯から痛む頭を上げると、新たな痛みが波となって押し寄せた。視界は曇り、胃がひっくり返るような吐き気もあった。

 地面に座った状態で、体は縄で木に拘束されている。背中に回された手首には、手錠がかけられていた。

 自分がどこにいるのか把握するのにしばらくかかった。

 森か、林か。どちらでもいい。

 そう遠くないところに、ぼんやりと沙織と智洋の姿が見えた。二人は地べたに寄り添って座り、沙織は始終息子に話しかけているようだ。智洋はただ空を見上げている。

 その間に位置する場所に、石渡がうずくまるようにして横たわっていた。ここからでは生存は確認できない。視線を自分の周りに戻すと、近くに穴がぽっかり空いていた。その中に、シャベルを手にした香村がいた。

 相手は汗と土に汚れた顔を上げ、雅季をじっと見ていた。普段はオールバックの前髪は乱れ、雅季は一瞬別人かと思った。

 香村は無言だ。

 しかし、まだはっきりしない思考でも、雅季は相手が何をしようとしているのかを、すでに悟っていた。

 墓だ。香村は墓を掘っている。死体を埋める墓を。そこに誰を埋めるのか。

 乱れる鼓動が、ダイレクトに肋骨に響く。どくん、どくんと強い動悸が肋骨を叩く。早い血流が耳の中で騒ぎはじめ、再び頭痛が襲う。

 口はカラカラに乾き、まだ喉を締められているかのように息苦しい。

 雅季は再び親子に目を向けた。雅季は思考に集中しようと努めた。何が起こったのか。何が起きるのか。助かる手段はあるのか。

 そう、香村はこの終着点にたどり着くために、自分たちを欺いた。

 それに気づいた自分は、当然消される。なぜ香村が沙織とつながっていたのかはわからない。

 それでも、香村が悪に手を染めてまで守るべき存在であったことは、確かだ。

 そして、主犯は智洋。智洋は普通の青年ではないことは一見してわかった。

 彼は、ずっと母親に守られていた。だから、何人も殺せた。

 もし彼が初犯で捕まっていれば、または自首していれば、否、『させられて』いれば、これだけの犠牲者は出なかったのだ。

 ただ、彼が検挙されることがあっても、きっと弁護人は精神鑑定を要求、有責性が問われるだろうはずだ。——悔しい。

 沙織も共謀していた。香村は警察側の情報を全て掌握し、全てにおいて先回りできた立場にしろ、行動に制限はあった。どれだけ沙織が、香村が動いたかは防犯、監視カメラでかなり解析できるだろう。

 それとも、警察として香村はそれも計算に入れて動いていたのか?

 香村は背を向け、再び穴を掘り始めた。シャベルが石に当たる硬質な音が、雅季の思考を邪魔する。

 最初から騙されていた。始関を始め、捜査に当たった刑事たち全員が、香村の手の上で踊らされていたわけだ。

 全てが嘘で、雅季を油断させ、誘導し、誘惑した。

 香村がそれらをいとも容易くやってのけたことも驚きで、今でも信じられなかった。

 車に落書きをして、雅季への牽制を図り、捜査妨害をした。部屋への侵入は雅季の戦意を喪失させるため……。

 いや、それはあり得ない。

 雅季の思考が一瞬、加速した。

 あの夜はホテルに誘われていた。

 香村には立派なアリバイがある。証人は自分。では、あれは沙織の仕業?

 だが、集中しようとすると割れるような頭痛がぶり返し、再び頭に靄がかかる。

 一体、いつから香村はこんなことに巻き込まれているのだろう。

 この三人の関係は?

 なぜ、穴を掘るのを止めないの? 

 そこまで大きい必要があるの?

「どうして……、そこまで?」

 かすれ声しか出ない。

 香村は手を止め、雅季に向いた。

「なんだ? 喉が潰れたか」

「どうして……穴を……」

 首を傾げた香村の目が「愚問だ」と言っていた。

「邪魔者を始末するからさ。穴は、そのシナリオの一部だ」

「邪魔……者?」

 自分の声が頭に響き、雅季は痛みに顔をしかめた。

「智洋だ」

「殺す……つもり?」

「それしか、残されていないのよ……」

 暗く、低い声で沙織が答えた。

「そういうことだ」

 香村は微笑に唇を歪めて、作業に戻る。

「このままだと、きりがないの。閉じ込めておくのも限界だし、薬がなければまともに生きていけないなんて、可哀想だもの……。私も、辛いの……」

 沙織は、人形のように自分に寄りかかる智洋の頭を撫でた。

 香村はやっと穴から這い上がってきた。

「だから、カタをつけるんだ。こいつは予定外だったしな」

 顎を石渡の方へしゃくる。

「逃げられ……ませんよ。証拠が、あるんです」

「証拠?」

 香村はふっと鼻で笑った。

「フェンスに絡まっていた毛髪か? 新楽が言ってたぞ。証拠としては不十分だと。久賀、と言ったか。上司を十分納得させられなかったようだな。上司に嫌われたら検事も警察も終わりだよ」

 笑みが口角に刻まれる。

「それはともかく。しかし残念だな、君のように聡明で美人でガッツのある刑事がいなくなってしまうなんてね。仕事熱心というのも時に問題だね。余計なことに首を突っ込むことになる」

 雅季は大きく肩を揺らした。

「これを、解いてください……まだ、間に合います……」

 雅季は喘いだ。

 しかし、香村は雅季を無視してシャベルを傍らに放り、石渡の元へ行った。片足首を持ち、ずるずると穴まで引きずって来ると、そのまま中へ蹴り落とした。どさっという音が、やけに大きく聞こえた。

 香村はそのまま踵を返して沙織たちに近寄ると、智洋の前で膝をつき、話しかけた。

「ちょっと、喉が乾かないか。この先に車停めただろう。その中に水とお茶があるから飲んで来いよ。お母さんにも、持って来てあげれば。あ、ゆっくり行けよ。木の根につまずいて転ぶぞ」

 ぼんやりと香村の顔を見ている智洋の腕を掴み、彼は「ほら、行け」と無理やり立ち上がらせた。

 何か言いかけたその顔に、香村は平手を見舞った。乾いた音に、雅季の肩が小さく跳ねた。

 智洋は両手で顔を庇いながらよろよろと後退し、反転すると、そのままおぼつかない足取りで去っていく。

 その背中を見つめる沙織の目から、涙が流れた。

 香村は、今度は雅季の縄を解いた。智洋と同じように無理やり立たされる。

 抗おうとしても、脳と筋肉をつなぐ神経が遮断されたように、体は全く機能せず、立っているのがやっとだった。

 穴までのほんの数メートルを、香村にただ引きづられていく。足を踏ん張って阻止しようにも、力が入らない。

 穴の淵へ来ると、香村は急に手を離し、雅季は膝から崩れた。

 そのまま香村は、近くの倒木にかけていたスーツの上着から銃を取り出した。

 その銃は一体……。一瞬疑問が過ぎったが、香村のポジションを考えれば、そう簡単ではないが、どうにでもなると察した。

「最期に、シナリオを教えてやろう。君は私と落ち合い、調べに来た。何かを埋める智洋を見つけて迫る。君に襲いかかる犯人。犯人は拳銃を所持。隙を見て君はそれを奪おうとするが、銃殺され失血死。私は智洋と揉み合い、その際に誤って銃殺。沙織も責任を問われるだろうが、脅されていたといえば情状酌量だ。よく刑事ドラマであるだろ」

 満面の笑みを浮かべ、香村は体を翻し、雅季と反対の方へ向いた。銃口は、まだ近くをうろついていた智洋の背中に照準を合わせた。

——いけない。

 雅季は足に力を込めたが、まるで動かない。

(久賀さん……)

 声は届かない。無駄だとわかっている。だが、雅季は心中で久賀の名を叫ばずにいられなかった。

「悪いな、智洋……」

 香村はつぶやいた。だが、その時沙織が動いた。速かった。

 瞬時にして、彼女の手にしていた太い枝が、香村の後頭部に振り下ろされた。

 ゴツ、という鈍い音がし、銃声があたりの空気を震わせた。

 香村の体がゆらりとゆれ、そのまま前のめりに倒れた。静寂が辺りを包み込む。その中で、沙織の荒い息遣いだけが聞こえる。

 手から離れた枝が、ドスッと音を立てて地面に落ちた。

 沙織は立ち尽くして辺りを見回している息子に目をやり、ほっと息をついた。

 そのまま香村の背をまたぎ、雑草の上に転がっていた銃を取ると、静かに照準を雅季に合わせた。涙に濡れた目には、何の感情も読めなかった。

 雅季は沙織を見上げて必死で首を振る。助けを求めようにも、喉が干からびていて声が出ない。

 パン、と乾いた音がし、雅季の目の前の枯葉が土と共にパッと飛び散った。思わず目を瞑っていた。全身から汗が噴き出たまま、身を凍らせた。

 しかし、いつまでたっても二発目の銃声は聞こえない。

 恐々と目を開けると、顔を蒼白にした沙織の手から銃が落ちた。景色はモノクロで、雅季にはなぜかそれがスローモーションのように見えた。

 銃身が地面に落ちた瞬間、視界が傾いた。雅季もまた、全身が弛緩し地面に倒れていたのだった。

 沙織は一歩、二歩と後ずさり、パッと身を翻して息子の方へ駆けて行った。そのまま智洋を捕まえると、体を抱えるようにして走り去って行った。

 一部始終を、雅季は地面に転がったまま、呆然と見ていた。

 どれくらい経っただろう。やがて雅季は頭だけ動かして空を仰いだ。幸い、雲が出て強い陽光を遮り、暑さを和らげていた。雲が薄くピンク色に染まっている。夕暮れなのだと、ぼんやりと思った。

(生きている……)

 数分前の出来事ががゆっくりと脳裏に再生され、今一度恐怖が喉までせり上がってくる。こうしていることに現実感がない。

 殺されかけた。それも、二人別々の人間から。

 香村が襲撃されなければ、自分は今頃息をしていなかっただろう。——香村。

 その名前が浮かんだ途端、雅季は現実に引き戻された。

 彼は死んだのか、それとも気絶しただけか。

 心臓が早鐘を打つ。再び、頭痛に襲われて、喘いだ。

 だが、いつまでもここにこうして倒れているわけにはいかない。間も無く日が暮れる。ひんやりとした風が雅季の火照った頰を撫でていった。

 頭を香村方へ傾けた。数メートル離れた場所に香村はまだ倒れたままだった。顔は向こうに向いており、生死は判断しかねた。 

 雅季はまず、後ろ手にかけられた手錠を外すことにした。雅季は警察学校時代、柔道の練習中に何度か突き指をして痛めたことがあり、それで関節を外す方法も知っていた。もちろん、かなりの痛みは伴うが、今は命がかかっているのだ。

 まさか、こんなことが役に立つとは思わなかった。

 右手で左手の親指を握ってぐっと引っ張る。顔をしかめると同時に、鈍い音が骨に響いて関節が外れた。

 気持ちのいいものではないが、左手は輪から抜けた。

 やっと体の自由がきき、ほっとした。だが、問題はこれからだ。雅季は立ち上がろうとしたが、それを拒むように頭痛が襲いかかる。それでも何とか立ち上がると、時間をかけて香村のところまでたどり着いた。

 殴られた後頭部は、血で髪がべったりと固まっていた。

 相当な力だったのは瞭然だった。やはり、沙織には息子を見捨てるなんて不可能だった。香村の誤算。

 その香村は、微かだが息をしているようだった。

 それを確認し、次に雅季は倒木にかけられた香村の上着のをポケットを探った。

 手錠の鍵はなかったが、自分の携帯電話はあった。あまりの喜びにアドレナリンが身体中を駆け巡るようだった。

 これで助けを呼べる。手に力が入らず、電源を入れるのに二回も落としかけた。

 やっと液晶板が発行し、モバイルが生き返る。

 よし、アンテナも立っている。雅季は一瞬逡巡したが、すぐに始関の番号に発信した。

 その直後、うめき声が耳に届き、雅季は全身を凍らせた。

 ゆっくりと、首を巡らせる。

 香村が片肘で体を支え、右手を後頭部に当てて、傷の具合を確かめていた。そのままおもむろに顔を上げ、ぎこちなく左右を見回す。そして雅季を見つけた時、顔に笑みが広がった。

「ああ、篠塚くん……」

 雅季は震える手で、自分のスーツのポケットに携帯電話を滑り込ませ、脚に力を込めた。


 **


「もっとスピード出ないんですか!?」

 助手席の久賀は、隣でハンドルを握る青鞍に噛み付いた。

「無茶です! 今曲がった時、危うく対向車と接触しそうになったの、見てたでしょう!」

「見てません」

「嘘つき!」

 青鞍は前を凝視したまま吠えた。

「文句言うなら、ナビしてくださいよ。自分、見る余裕ないんですから」

 無線からは、雅季の居場所を伝える始関の声が繰り返し流れていた。

 久賀は素直にナビを確認した。

「このまましばらく直進です。大丈夫です。青鞍さんは事故りません。だから、もっとスピード上げましょう。万が一青鞍さんに何かあれば、晴美には青鞍さんは大活躍だった、と伝えておきますから」

 晴美は久賀の従姉妹で女子大生である。以前の仕事で晴美が絡んだことで、それがきっかけで、知り合った二人は交際しているようだった。

「自分だけ死亡フラグですか! 検事、意外と鬼ですね! でも自分、命大事にしてますんで。むしろここで死んだら晴美ちゃんに会えないんで!」

 雅季の携帯電話から、県警の通信課が居場所を確認した。くだんの廃棄物処理場からさほど離れていない、北部山中。

 青鞍の運転するパトカーは、あと十分もすればそこへ到着する。

「篠塚さんの危機ですからね。鬼にも仏にもなんでもなりますよ」

「ホトケだなんて、縁起悪いこと言わないでください! もう、本当にどうなっても知りませんよ!」

 青鞍はほとんど叫びながら、それでもさらにアクセルを踏み込んだ。

 久賀の携帯電話に、一度だけ雅季から着信があった。すぐに切れたが、彼女は警察に連絡する前に自分に助けを求めたのだと信じていた。

「もう一度、篠塚さんのケータイ、試したらどうです?」

「さっきから何度もしてますよ。でも、出ません」

 始関の伝える情報から、雅季は少しずつ移動しているようだ。まだ、生きている。

 いや、でももし犯人が雅季の携帯電話を奪っているなら……。久賀はその考えを即座に頭から払った。

 雅季は絶対に無事だ。

 だが、この一分一秒に彼女の命がかかっているのは確かだった。

 雅季の最終通知からゆうに三十分は経過していた。車はすでに山中の狭い道を走っていた。

 香村に悟られぬよう、林道に入ったところでサイレンと赤灯を消した。

 鬱蒼と茂る木々の間から、夕日の金色の筋がいく本も差し込んでいた。

「もう少しです」

 青鞍のおかげで、五分も経たないうちに、山道の脇に車が一台停まっているのが見えた。

 徐行して後ろに着け、様子を伺いながら青鞍は無線で始関に状況を伝えてパトカーから降りた。

 車内に人影はない。二人は注意しながら車に近づいた。

「これ、香村のクラウンですね」

 青鞍が認めた。車はエンジンを切って、ドアがロックされている。車内に荷物はない。

「最初に連絡があったのは、この先です」

 久賀は携帯電話を片手に、鬱蒼と木々が茂る山中を視線で示した。密生している樹木の間に、獣道のような通り道がある。

 この山の中に、雅季は今も香村と一緒だという想像だけで、身が凍る思いだった。

「行きましょう」

 久賀は青鞍に声をかけ、二人はほとんど小走りで山の中へ入っていった。

 折れた枝や、腐葉土の柔らかい地面に足を取られながら進んでいくと、やがて小さく開けた場所に来た。

 視界に飛び込んだ、異様な光景に久賀はその場で立ち尽くした。

 木の根元に絡まった縄。ここに雅季は拘束されたのだろうか。近くにぽっかり口を開けている穴の周りには、土が山になっている。捨てられたシャベル。人の気配がないことを確認して、どちらからともなくやっと足を踏み出した。

 心臓が激しく胸を打ち、脂汗がひたいに浮かぶ。

 穴を覗き、そこにあるものを見て久賀は息をのんだ。一瞬、それが雅季の姿に見え総毛立つ。

「石渡ですね」

 青鞍の淡々とした声に我に返った。ほうっと細く息を吐く。

「そうだと思います」

「これ、凶器ですかね。枝に血がついてる。これで殴られて打ちどころ悪かったら、死にますね」

 青鞍はしゃがみ込み、大人の手首ほどの太さがある枝を転がし、検分した。

「あ……、これ……」

 数メートル先に目を留めている位置に、銃が落ちていた。青鞍がハンカチで銃身を掴んで精査する。

「これ、篠塚さんのじゃありません」

 香村は、本当に殺す気だったのだ。恐怖で、みぞおちを鷲掴みにされたような吐き気を覚える。早く、雅季を見つけなければ。久賀は、電話で報告し終わった青鞍に声をかけた。

「青蔵さん、急ぎましょう。これが全て香村の仕業なら……相当危険です。私は北に行きます」

 二人はそれぞれ、二手に分かれて同時に駆け出した。

 もうすぐ、日が沈む。


**

 

 いつまで走ればいいのだろう。

 雅季は、もつれそうになる足を必死に動かし、何度も転びそうになりながらひたすら走っていた。

 それなのに、背後の足音は遠ざかるどころか、だんだんと距離を詰めているように思える。

 時折聞こえる怒声が、さらに雅季の恐怖を煽ってくる。

 頭を揺らしながら、ゆっくりと起き上がる香村を見ていた雅季の耳の奥で「逃げろ」と久賀の声がした。

 その瞬間、雅季は覚醒した。 

 アドレナリンが噴き出し、痛みも、目眩も一気に消したようだった。

 顔を引っ掻く枝を手でかき分け、倒木を飛び越えながら、ただ走り続ける。

 携帯電話を握った手はびっしょりと汗を掻いていた。何度か着信があり、それは手の中で震えたが、出ている暇はなかった。

 応援はいつ来るのだろう。その前に力つきるのではないか。不安は動きを鈍らせる。雅季はひたすら足を動かした。

 あたりはどんどん暗くなっていた。視界が悪くなり、木の根につまづきそうになる回数も増えた。

 突然、雅季の体がふわりと浮いたように感じた。数秒間の無重力状態から、気がつけば斜面を滑り落ちていた。ザザザザッと横座りの姿勢で体は滑走し、着地する。すぐに立ち上がろうとしたが、右足首に激痛が走り、膝をついた。捻ったのか。まだ腫れてはいないが、じんじんと熱が帯び始める。

——ここまでか。

 雅季は肩で息をしながら、左手でずっと握っていた携帯電話を見た。

 着信履歴には『久賀丞已』の名が連なっていた。

 助けを呼べたら、どれだけいいだろう。だが、香村に声を聞かれて見つかったらアウトだ。

 雅季は歯を食いしばってなんとか立ち上がった。もう、走れない。右足を引きずるようにして、それでも歩き始めた。

 時間の感覚はすでになかった。さっき、携帯電話の時間を見たはずだが、覚えていない。

 恐怖と闘いながら、薄暗い雑木林の中を徘徊する。再び落ち葉の下の石につまずき、転んだ。

 麻のスーツとパンツも今や土と埃にまみれてひどい姿だ。靴は黒のレザースニーカーだったのは、不幸中の幸いだった。

 パンツの裾を引き上げ、熱を帯びる足首を恐々と見ると、青く変色し始めていた。もう、限界だった。

 香村はどこにいるのだろう。雅季は耳をすませて様子を伺った。辺りは怖いほどしんと静まりかえり、自分だけが世界と切り離された錯覚に陥る。

 香村の気配はなかったが、すぐ近くまで来ていて、鳴りを潜めているのかもしれない。

 とにかく、時間との闘いだ。香村に捕まるか、応援が間に合うか。

 雅季は後者に自分の運命を託した。身を隠して、とにかく時間を稼ぐのだ。どうせこの足で動き回ってもすぐに追いつかれるに違いない。

 雅季は辺りを注意深く見渡した。

 今、滑り落ちた崖の壁面には、上から蔦がすだれのように垂れ下がっていた。なんとなく近づき、調べるとちょうど雅季が身を縮めれば、すっぽり隠れそうな窪みがあった。雅季は潜るようにして、窪みの中で体を丸めた。

 こちら側から、ほとんど外が見えないということは、もう少し暗くなれば、ここは完全に死角になるだろう。雅季は膝を抱えながら、一縷の望みにすがるしかなかった。

「しーのーづーかぁー」 

 どこからか、香村が自分を呼ぶ声が聞こえた。汗でぐっしょりと濡れたシャツに、さらなる冷や汗が滲む。激しい動悸が相手に聞こえるのではないかと、膝を胸に押し付けた。

 枯葉や枝を踏む音、低木をかき分ける音がだんだん近づいて来る。咄嗟に携帯電話を見た。だが、盤面は真っ黒だった。充電が切れたのだ。

 電話を握る手の震えが止まらない。見つかったら、今度こそ終わりだ。

 その時、蔦の暖簾の向こうで黒い影が横切った気がした。それは視界からすぐに消えてしまったが、恐怖が喉元までせり上がり、呼吸が浅くなる。

 香村は左側へ行ったはずだ。今、ここから飛び出して反対側へ逃げればいい。

 頭ではそう思うが、負傷した足で逃げ切れるかは自信がなかった。なす術もなく、雅季は目を閉じて、応援が一秒でも早く到着することをひたすら祈る。

 その時、間近で枯れ草を踏む音が戻って来るのが聞こえ、目を見開いた。

(来ないで……!)

 壁面に背が食い込みそうなほど、体を押し付けた。その時、手の下で枯れ枝がぱきっと小さな音を立てた。全身の血が凍りつき、鼓動が耳の中で大きく鳴り響く。

 重なる蔦の向こうの影が近づく。そして、おもむろに伸びて来た手が、それをゆっくり掻き分けた。


**


 久賀は、できるだけ静かに、そしてなるべく早く移動することに集中した。

 雅季の名を呼びたかったが、香村に逃げられるリスクを考え、堪えた。

 携帯電話がポケットで震え、久賀は雅季かと一瞬心を躍らせたが、始関からのメッセージだった。

『携帯、不通』

 久賀は胸中で舌打ちした。充電切れか。それが他に何を意味するのか、深く考えたくなかった。

『雅季さんを見つけるのは俺だ』

 そう心中で唱えながら、久賀はどんな小さな痕跡も見逃さないように足を運んで行った。

 万が一のため、久賀は青鞍から特殊警棒を渡されている。青鞍は拳銃を携帯しているので、正直、できれば青鞍に香村を見つけてほしかった。

 日はだんだんと暮れ、薄闇の中で道を遮る茂みを分けながら、一歩進もうとして慌てて踏みとどまった。

 崖だ。高さは三メートルほどだが、踏み外して怪我でもしたら時間のロスになる。迂回しようと体の向きを変えたところで、ふと、目先の草が押しつぶされ、そこだけ土の表面が下方へ削られているのに気づいた。何かが滑り落ちたような痕跡。

 香村か、雅季か。

 自分は一歩手前で落ちずに済んだが、逃げることに気を取られた雅季が落ちたのだとしたら。

 その負の閃きに、血の気が引く。久賀は迷わず崖を飛び降りた。

 立ち上がり、すぐに斜面を確認する。間違いない。壁面は、一部、ちょうど久賀が飛び降りた辺りから地面まで、黒い岩肌が露出していた。

 久賀はぐるりと辺りを見渡した。人の気配は全くない。黒々とした木々が、黙って久賀を見下ろしている。

 あの木の枝についた血が雅季のものなら、彼女は負傷しているし、ましてやそんな状態でどれくらい体力がもつだろう。

 もし自分なら、どこかに隠れて時間を稼ぐ。身を隠せそうなところを探すんだ。

 久賀は岩壁に沿って歩き出した。壁面は苔や木の根、草の蔦でそのほとんどが覆われている。

 少し歩くと、足が地に沈んだ。その先は土の水はけが悪く、びっしり生えた枯葦が行く手を遮っていた。

 久賀は進むことを諦め、飛び降りた場所まで戻る。その時、かすかだが、枝の折れる乾いた音が聞こえた。足を止め、振り向く。

——岩壁の中から、音……?

 音のした場所は、密生した草の蔓で覆われている。

——まさか……。

 あらゆる危険に備えて特殊警棒を伸ばし、息を潜めて近づいた。ひりひりとした緊張が身を包む。

 伸ばした手の指先に、草の蔦が触れた。そっと横に分けると、そこに身を縮こませた相手と目が合った。

「く、が……さん?」

 ほとんど掠れた弱々しい声。だが、雅季は確かに自分の名を呼んだ。手から警棒が落ち、久賀はその場に膝をついていた。両手を伸ばし、自分の方へ傾きかけた体を受け止める。

 強く雅季を抱きしめ、幻覚でないことを確かめた。

「よかった……。もう、大丈夫ですよ」

 雅季の体の温もりと震えが伝わり、久賀の、雅季を抱く腕に力がこもった。

 久賀の肩の上で雅季が小さく呻き、我に返って身を離す。

「すみません、苦しかったですか」

「いいえ、捻った足がちょっと痛んで……。それに、久賀さん、汚れちゃいます」

「そんなこといいんです。もっと汚してください。足は、どうです? 歩けますか? 香村に追われていたんですね?」

 目に怯えを浮かべ、雅季は頷いた。

 できれば再会の余韻にずっと浸りたいところだが、そんな猶予はない。香村と鉢合わせしたとして、負傷した雅季を庇いながら熟練の刑事と警棒一本でやり合う自信は全くなかった。

 久賀は雅季に手を貸し、なんとか立たせる。上体を起こした雅季は、木の幹に手をついて体を支えた。そして久賀の肩越しに「あ」と小さく声をあげる。

「痛みますか。でも頑張ってください。早くここから出ましょう。きっと香村はまだこのあたりにいるはずです」

「いえ……、そこに……、います……」

 久賀は弾かれたように振り向いた。特殊警棒を拾い上げ、雅季の前に立ちはだかって盾になる。

 香村は青白い顔に薄い笑いを浮かべ、ゆらりと体を揺らしながら二人から五、六メートルほどのところで立ち止まった。

右手には拳大の石が握られ、久賀をまっすぐ見据える香村の目は、怪しい光を帯びていた。

「こんなところまで、ご苦労様です。でも……検事さんの出る幕じゃないですよ。身内のことは身内で処理しますから。さ、篠塚くん……こっちに」

 香村が歩み寄りつつ、左手を差し伸べる。

「香村、それ以上近づくな。俺は死んでもあんたを止める」 

 久賀は警棒を掲げて、身構えた。心臓が早鐘を打っている。当然だ。今日までの人生二十九年、一度も人を殴ったことがないのだから。

「ご立派なことだ。……なら、お前が先に死ね」

 一気に距離を詰めながら、香村は石を持った手を振りかぶる。

 久賀も咄嗟に警棒を突き出した、その時——。

 一発の銃声が木霊した。

 時が止まったかのように、香村と久賀が固まる。

「香村っ、動くなっ!」

 鬱蒼と茂った木々の間から、青鞍の姿が現れた。空に向けていた拳銃が、香村の背に照準を合わせる。多少距離はあるが、十分射程内だ。

「撃てるなら、撃ってみろよ……」

 香村は首だけ捻って、青鞍を挑発した。

 その隙を久賀は見逃さなかった。

 素早く身を踊らせ、力のままに相手の横顔めがけて警棒を思い切り叩きつける。ごつっという音と、骨の固い感触が警棒を握る手から伝わり、香村は体ごと地面に倒れた。

 喉の奥から呻き声をあげ、顔を庇いながら体を丸める香村を、久賀は肩で息をしながら見下ろしていた。遠くから、いくつものサイレンの音が聞こえてきた。

 駆けつけた青鞍が香村の体を地面に押し付け、後ろ手にした手首に手錠をかける。

「午後五時十八分。殺人未遂罪の容疑で、現行犯逮捕する」

「誘拐罪も忘れないでください。まだ色々ありそうですけど、それは後ほど」

 青鞍が香村の腕を掴んで立たせた。応援の刑事たちが駆け足で近づいてくる。

「あとこれ。助かりました。どうやって収納するんですか。押しても縮みませんけど」

 久賀は手にしていた特殊警棒を、青鞍に差し出した。

「すごかったですね、久賀検事。ちょっと見直しました」

 青鞍は顔を綻ばせて特殊警棒を受け取り、シャフト側面のピンを押して容易に縮ませた。

「久賀さん……」

 微かな呼び声に振り向くと、雅季が木から手を離して久賀の方へ来ようとしていた。だが、数歩歩いたところで体が傾く。

 久賀は雅季が倒れる前に素早く抱きとめた。焦点の定まらない目が久賀を探す。

「ありがとう……ございます……」 

 瞼が閉じ、久賀の腕に弛緩した体の重みがのし掛かった。久賀は雅季を抱き上げ、木々を赤く染めるパトランプの方へ歩き出した。

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