第24話


 久賀は取り調べを終え、遅い昼食を取った後、執務室で柏木の入れた茶を飲んでいた。

 午後二時過ぎ。今日はもう取り調べはないが、目を通すべき書類が待っている。

 電話が鳴り、対応した柏木が始関だと伝えた。

「久賀です、どうし……」

「至急、署に来てください」

 畳み掛けた始関の逼迫した声に、久賀は身構えた。

「何が……」

「来ていただければわかります。いや、まだ何もわからないですが、とにかく篠塚が消えました」

 『消えた』

その言葉が表すあらゆる負の予感に、久賀は総毛立った。

「すぐに向かいます」

 もし、雅季の名を出せば、自分が意のままに操られると始関に見抜かれていたとしても、構わなかった。

 久賀の次の行動を読んだ柏木は、すでに車のキーを手にしていた。

 鳴海東署に着き、エレベーターを待つ時間も惜しく、階段を一気に駆け上がった。刑事部屋で待っていた始関と共に係長室へ入る。

 香村は不在のようだった。もちろん、雅季の姿もない。

 始関はドアを閉め、久賀と向き合った。蝋人形のように整った白い顔は、殺気立っていた。

「篠塚さんは、どこに行ったんです?」

 久賀が切り出した。

「おそらく、香村一課長と一緒だ」

「それなら、香村さんに連絡を取ればいいのでは」

 やはり、始関にいっぱい食わされたのかと、久賀は渋面を作った。

 だが、それなら究極に趣味の悪い冗談だ。

「連絡はつかない。いや……どこから話せばいいかな。我々はずっと香村に騙されていたんだ。篠塚君が、それに気づいた。香村は、犯人を蔵匿している可能性がある」

「え……」

 久賀の視界が暗転した。今時、警察の事件隠蔽は珍しい話ではない。

 だが、連続殺人犯を蔵匿……そんなことが実際にあるのか。

 始関自身、まだ混乱しているのだろう。拳を顎に当て、話の切り口を探しているようだ。

 だが、本当に香村が一枚噛んでいるのなら、一刻の猶予も許されない。今この時も、香村の裏切りを見抜いた雅季は、危険にさらされているのだ。

「香村と、篠塚さんが消えたのは、いつです。篠塚さんは行き先を言わなかったんですか。そもそも、外出禁止にしておいて、なんで目を離すんですか。すでに捜索は出てますか。香村はなぜこんなことを!? あんたたち警察は一体何をしているんだ!」

 抑えろ、と自分に言い聞かせても無理だった。

 始関に当たっても無駄だとわかっている。だが、怒りと焦りで相手に噛みついていた。

「すまん。全部俺の責任だ」

 始関は久賀を正面から見据え、詫びた。始関の顔は、普段よりも一層青白い。

 久賀の頭から怒りの熱が引いていく。ほっと一息つき、久賀は言った。

「とりあえず、把握していることを全て教えてください。防犯カメラの解析も始めていますね?」

 始関は小さく頷いた。

「まず、今朝、十時半頃だ。篠塚くんに香村を洗って欲しいと頼まれた」

 久賀は腕時計に目をやった。

 午後三時前。なぜもっと早く気づかなかった。

 出かかったその言葉を久賀は飲み込み、訊ねた。

「篠塚さんは、すでに香村を疑っていたんですね」

 何が彼女にそう思わせたのだろう。一介の刑事が、警視庁の一課長を疑うほどの言動があったのだろうか。

 確かに、共同で捜査をしていただけ、他の捜査員よりは香村に近い位置にいた。特に、久賀にとっては、刑事部一課長と巡査部長という関係にしては近すぎるような印象まで受けるほど、雅季は香村に信頼を寄せているように感じた。

 一体、それがどこで疑念に変わったのか。

 香村はどんなヘマをしたのか。

「彼女が香村を疑い始めたのは、依頼したDNA鑑定を握りつぶされたのが原因だろう。鑑識の平井くんがそのやりとりを報告してくれた。あれは彼女が一番頼りにしていた資料だからね。それは香村も知っていたはずで……」

「そして、香村にとって一番都合が悪い資料だった。だから、自分が鑑定依頼を買って出た。私もその場にいましたよ。私は反対したんですけど、あれは彼女の肩を持つように見せる演技で、結局、自分の都合よく動いたわけですね。篠塚さんは、あの時、間違いなく香村に心掴まれましたよ」

 久賀の心中に嫉妬と悔恨の念が再燃した。

 あの夜、雅季はあっさり久賀から離れた。

「それで、私は香村を洗い出した。本部にも照会し、徹底的に。それで、全てが香村の嘘だったとわかった。始めから、全てだ」

 あまりの驚きに、二の句が継げない。始関も同意するように頷いた。

「そう。私も全く同じ反応。香村は連続殺人事件の特別指揮官なんかじゃない。殺人事件そのものは事実だ。だが過去二つの事件は迷宮入りで、捜査本部は名ばかりのものだ。香村が頻繁にこっちに来れたのは、各地の捜査本部を回るとか、それらしい理由をつけて動いていたからだ。実際、東京に戻った時には普通に仕事していたそうだ」

 始関は一旦口をつぐみ、苦々しげに顔を歪めた。

「篠塚くんに、奴が話していたことももちろん、でっち上げだ。篠塚くんは全て打ち明けてくれたのだが、本庁では犯人を確認していて、その人物が実は某政治家の甥でことを荒立てたくないのだと圧をかけられている、と香村から聞かされていたらしい。だから、本庁と連帯した極秘捜査なのだと」

「それを、信じたんですか」

「誰が、本庁刑事部の人間が嘘をつくと思う? 私だって信じるだろうよ」

「エクスキューズはいりません。人は誰でも嘘をつくんです。とにかく香村は飛んだ食わせ物だった。そんな奴と篠塚さんをずっと一緒にさせていたんですね」

 久賀の、やり場のない怒りが拳を動かし、壁を強く叩いた。

 始関はまるで自分が殴られたかのようにビクッと肩を弾かせ、顔をしかめる。

「それに、香村は、ほぼお蔵入りの二つの事件を都合よく操作していたらしい。自分に都合の悪い情報は潰し、遺留品を処分してオペレートしていた。香村自身、過去の連続殺人事件から関与していた、重要参考人なんだ」

 久賀はやっと、雅季がどれだけ危険な状態に置かれているか把握した。

 香村の、必死の茶番を知った雅季をどうするか……。だめだ、想像してはいけない。冷たい汗が背を伝う。

 気持ちが逸る。始関はスーツの上着から出した手帳を広げた。

「宮尾沙織、ですね」  

 久賀は先回りした。

「十中八九、香村と宮尾は繋がっている」

「では、香村こそが犯人ってことですか。でも、アリバイがある……」

「そう。奴は主犯じゃない。つまり、共謀の可能性があるってことだ」

 久賀は奥歯を噛み締めた。

「それで、篠塚さんは。どうしてここから簡単に出て行かれたんです」

「コンビニまで昼飯を買いに行ったまま、戻って来ない。携帯電話もつながらない。香村とも連絡がつかない。捜査員の報告では、宮尾沙織の家はもぬけの殻だそうだ。そして、部屋には血痕が発見された」

 久賀の頭の中が真っ白になる。

 全ての関係者が雅季とともに姿を消した。

 一体どこから探せというのだ。何か、もっと始関から聞き出さなくては。雅季につながる、ありとあらゆる情報を。

 だが、頭が混乱しすぎて、何を聞けばいいかそれすらもまとまらない。

 その時、始関の上着から、携帯電話の着信音が聞こえた。

 ディスプレイを見て始関は「あ」と緊張の声をあげ、素早く電話を耳に押し当てた。

「篠塚くん、今どこだ!」



 吹き出した汗が、いくつも額を伝い落ちる。

 日は容赦なく照りつけ、汗を含んだワイシャツはすでに背中にべったりと張り付いている。袖をまくった腕が重い。

 穴を掘りを舐めていた。

 すでに三十分以上は経っているが、思ったよりもこの作業は捗らず、香村は相当苛立っていた。

 シャベルの先が木の根に当たるたび、舌打ちと悪態が口をつく。

 一旦手を止め、鈍く痺れる腰を伸ばすと、近くの木に拘束している雅季を見た。まだ意識は戻らないようだ。

 田舎所轄の女刑事がまさかここまでやるとは誤算だった。

 年齢よりもずっとあどけない童顔に似合わず、事件に対しては執拗で、細かい。あらゆる可能性を考え、上司の指示にも従わず、何にでも首をつっこむ。刑事としてその気骨はあっぱれだが、その結果がこれだ。

 いい教訓になっただろう。今度これを生かして、もっといい刑事になれ。

 今度があれば、な。

 もし、今度があれば、篠塚を本当に部下にしてやろう。

 その己の考えにふと笑いがこみ上げる。

 だめだ。こいつは俺の用意したシナリオを完全に無視し、突っ走った。

 練りに練った情報操作も、下手に出たのも、昇進をチラつかせても、この篠塚雅季には全て無意味だった。

 我儘な女は嫌いじゃないが、部下としては使えない。部下は、上司に完全に忠誠を誓うべきだ。

 香村はホテルで拒絶されたことを今一度思い出し、シャベルの柄を握りしめた。

 だが、こいつは俺の嘘を信じていたはずだ。

 どうして、どこでボタンをかけ間違えた? 篠塚を見くびっていたのかもしれない。

 そして沙織。もしあいつが自分の言う通りにしていれば、こんな後始末をすることはなかった。

——どいつも、こいつも。 

 今まで用意していた薬は、精神を患った智洋ともひろの凶暴性を十分に抑えていたはずだ。

 多少効きが悪くなっていたとしても、この事件を首尾よく進め、完結させるまでは間に合うはずだった。

 もし、沙織が智洋に薬を常用させていたら、次の犠牲者を——智洋にとっても、自分たちにとっても——最適な犠牲者を探す時間は十分あったはずだった。

 沙織の実家があったこの田舎街。香村少年と沙織が出会った、山間の街は、香村の描いた計画の舞台には完璧だった。自転車窃盗や万引きに喧嘩、倉庫荒しの処理に追われる小規模な警察署。

 そして、幼少の性犯罪被害者のトラウマ持ちの女刑事。

 署内で孤立し、単独行動も目立つが、さらにそれを甘やかす係長。キャリアあるまじき常識を外れた言動は、端正なマスクの下に隠しているものがあるのか、素の性格なのかは、ついにわからなかった。

 香村は額の汗をシャツの腕に擦り付けて拭い、再びシャベルを振り下ろした。

「余計な仕事をさせやがって……」

 もっと深く、深く。黙々と作業を続けた。

 ここで終止符を打ってやる。全て終わりにする。

 シナリオの最終話は、こうだ。ヒロインの篠塚は、私と落ち合い、証拠集めに処理場付近の捜査に来た。

 先に篠塚が死体を埋めている智洋を発見。篠塚は逃走を試みる智洋を説得しようとするが、聞く耳を持たれず、撃たれる。銃声を聞き、私は智洋と揉み合って銃殺。

 死人に口なし。事件解決。

 万が一のために独自のルートで手に入れた銃が、本当に使う時が来るとは思わなかった。

 沙織が薬で智洋を抑えて入れさえすれば、雅季が死ぬことはなかったのだが。

 刑事を加えた新しいシナリオは、意外と傑作になるかもしれない。

 篠塚もある意味、自業自得だ。自分の不始末を命を持って片付けたってことだ。

 もちろん、石渡を誘った際、防犯カメラに写っただろう沙織の行動も問われるだろうが、智洋に脅されていたと主張すればいい。

 警察だって殺人事件が一気に解決したことで、沙織に重罪が課せられることはないだろう。

 再び顔を上げ、少し離れた木下に座り込んでいる、沙織と、その息子である智洋を見やった。二人は寄り添い、ぐったりと木に寄りかかっていた。薬が効いている時の智洋はまるで廃人だった。

 ——こいつに生きる価値なんてない。もっと、早く殺しておけばよかった。

 もし、香村が沙織の息子への愛情を完全に無視できていれば、もっと早い時期に迷わず殺していただろう。しかし、それができずにいたから、自分は今、こうしてクソ暑い中、穴を掘っている。

 なぜ、沙織は俺に相談もせず投薬をやめた?

 なぜ、すぐに足のつきそうな職場で獲物を狩った?

 なぜ、須藤仁美が死に、取り返しがつかなくなって初めて連絡して来た?

 俺が収めるまで身を潜めていろと、散々釘を刺したのにもかかわらず。

 鳴海東署は俺の期待を裏切って、随分張り切って捜査に挑んだ。

 自分がなんとか手綱を取り、撹拌、誘導はしたが、そう猶予はなかった。捜査は進展がないように見えて、実は地味に、着実に前に進んでいたのは、香村だけが知っていた。

 智洋は頻繁に暴れた。だから、早く次の犠牲者を探した。

 今度は、この事件の終止符を打つための犠牲者を吟味した。

 だが、東京との往復時間がロスを生んだ。薬を手配する時間もなかった。単独ではやはり限界があった。

 そして、自分の不在時に、沙織がまた勝手に動いた。

 その勝手な行動に、さすがに香村は激昂した。

 須藤仁美で十分じゃなかったのか?

 気の狂った息子を大人しくさせるのに辟易したと?

 俺がお前のためにやって来たことがどれだけのことか、わかってないのか?

 汗と同様に、沙織への非難が次々と噴き出す。

 だが、自分は沙織から離れられないことも知っている。


 香村の父は警察庁、長官官房の総務課長だった。

 香村は現役受験で有名私立大学に合格したが、父は入学を認めず、浪人することを勧めた。

 階級社会で生きてきた父にとって、その社会では東大以外は認められないことを知っていたのだ。もちろん、父は香村も同じ世界で生きることを望んでいた。

 だから、官僚の世界で生きていく最低条件だと、香村はずっと聞かされて育った。

思えば、その父の思念が結局は香村の人生を狂わせることになったのだった。

 香村が沙織と出会ったのは、母の実家のあるこの街だった。香村が小学二年生の時、母が弟を妊娠中、実家に戻った際に香村も一緒に連れてこられたのだ。

 母の実家にいたのは夏休みの間だけだったが、近所だった沙織とすぐに仲良くなった。

 近所の同年代の子供も交え、毎日のように遊んでいた。

 沙織は二つ年上だったが、本当の姉のように優しく、一緒にいるだけで楽しかった。その後は何度か夏休みに帰った折に会っていたが、中学生になってから香村の夏休みは、夏期講習で費やされることになった。

 ある日突然、沙織から東京で一人暮らしをしていると連絡が来た。浪人中だった香村だが、何度か会い、やがて交際が始まった。

 子供の頃から気心が知れていたし、さらに女性としての魅力が増した沙織に、香村は夢中になった。二人が体の関係を持つのもあっという間だった。

 そのうち、沙織が妊娠した。香村の教育には人一倍厳しかった父親は、香村が止めるのも聞かず沙織の住む部屋に押しかけ、烈火の如く怒り、沙織を散々罵倒した後、彼女に金の入った封筒を投げた。

『馬鹿女が息子をたぶらかすのもいい加減にしろ。もう息子に近づくな!』

——『馬鹿女』。未だ、その声が鼓膜にこびりついている。

 香村は父親に引きずられるようにして車に乗せられ、家に連れ戻された。

 その後一度だけ沙織から電話があった。もう二度と会いたくないと一言告げられ、二人の関係は終わった。強制終了だった。

 その後、彼女と会うことはなかった。

 そんな辛い過去を乗り越え、香村はキャリア警察官として順調に出世していった。

 そのキャリアとルックスで、付き合う女には困らなかったし、見合いの話もあったが、香村は結婚する気にならなかった。

 きっと沙織は自分のことなど忘れているだろう。黒歴史の一つになっているかもしれない。

 それでも香村は一日として沙織を忘れたことはなかった。香村の中では終わっていなかったのだ。彼女を守れなかったことを、ずっと後悔していた。

 沙織から連絡が来たのは三年前。

 香村が四十三歳。刑事部の若手一課長として日夜仕事に忙殺される日々だった。電話番号は、共通の友人から聞いたという。

『相談に乗って欲しい』久々に聞いた声は切羽詰まっていた。ただならぬものを感じ、その夜沙織と会った。まさに二十三年ぶりの再会だった。

 教えられた住所を訪ねる。アパートのドアを開けた沙織は、四十五にしてなお、昔のあどけない面影があった。だが、会えた喜びは、すぐに見せられた死体の前に霧散した。

 そしてその横にうずくまって眠る息子は智洋、二十歳。

 一瞬の衝撃の後、なぜか香村の頭は異常なほど冴え切っていた。

 沙織から事情を聴いている間、何を自分がすべきか、答えはすでに出ていた。自分が彼女を守る。守らなくてはいけない。

 あの時、心も体も傷ついた彼女を守れなかったのだから。

 

 香村と関係が終わった後の沙織は、不運に付きまとわれた人生を送っていた。

 香村との子供を中絶し、その後大学を卒業したものの、就職難で正社員の枠は得られず、バイト先で知り合った男と付き合い、同棲生活を送っていた。

 子供ができると、恋人の態度が手のひらを返したように冷たくなった。堕ろせと言われたが、今度こそ産もうと思った。両親も反対し、全く理解してくれない彼らに見切りをつけて、沙織から親子の縁を切るように連絡を拒否し続けた。

 恋人はいつのまにか、アパートに帰らなくなっていた。

 出産し、生活保護を受けながらも、自分が子供にできる精一杯のことをした。

 だが、生まれた智洋は成長するにつれてどうしてか、注意力が散漫で落ち着きがなく、周りのこともなかなか馴染めずによくケンカをして沙織を悩ませていた。

 小学四年生の時、同級生を階段から落として怪我をさせ、学校に呼び出された。やっと決まったパートの仕事が始まった矢先だった。その時は、自分がいないことに慣れず、それが不満で、意識を向かせようという一種のわがままかと思った。

 シングルマザーの負い目もあった。

 一人息子を、甘やかし過ぎたのかもしれない。

 沙織は仕事が忙しく、息子の相談ができるような友達も周りにいなかった。

 智洋は中学に進学してもあまり友達と親しくせず、家ではゲームばかりしていた。週末には対戦型ゲームで負けそうになると、自室で大声を出したり、机を叩いたりして驚いたが、そういうものかと思ってそっとしておいた。それでも成績は悪くなかったので、高校に行かせたが、卒業後は働きもせずにやはりいつも家にいた。

 沙織はパートとして努めていた飲食店で正社員となり、責任のあるポジションを任されるようになっていたので昔ほど友也に時間を割くことはなかったし、息子も沙織と距離を置くようになっていた。

 それが親離れなのだろう、自分も子離れする時なのだ、と感慨に浸っていた頃だった。

 沙織がアパートで死体を発見したのは。

 会社の慰安旅行から帰ってきて二日後だった。

 その時、咄嗟に香村のことが思い浮かんだのだった。昔関係を持っていた男が、警察官になったというのは、風の噂で聞いていた。そして沙織は香村に助けを求めた。


 一人目の死体は、香村が車で運んで処理した。

 そして新しい部屋を借り、様子を見て二人を引越しさせ、智洋の気性を落ち着かせる薬を手に入れた。

 香村は、父親が浪人までさせてT大学に入れさせたことを、その時初めて感謝した。

 学友には不動産会社の経営者、優秀な医者になった者もいて、香村はそれらのコネクションを使って自分の計画通りにことを進めることができたのだった。そして、自分の地位を利用して、事件を全く別のシナリオに書き換えた。

 沙織は、人殺しの智洋を哀れんだ。自分がもっと寄り添ってあげていれば、と泣いた。香村はそんな沙織に同情しつつも、どこか冷めた目で見ていた。

 いや、違う。悪いのはこいつだ。こいつ一人だ。

 智洋のことは、いずれ消そうと思っていた。この精神を病んだ息子は、これからもトラブルの種になる。

 ロクでもない男の子供。智洋さえいなければ、彼女も二度と苦しまずに済む。

 そして彼女はまた俺と共に人生を歩める。今度こそ、彼女の愛は俺だけに向けられる。もう、誰にも邪魔されない。

 閉鎖された廃棄物処理場の存在は、沙織が知っていた。小学生の頃、見学で訪れたという。

 これは使えると思った。

 智洋はここで石渡と最期を迎えるのだ。

 智洋は薬の効果が切れ、沙織がいないと手がつけられないほど暴れる。

 だからその狂気の矛先を石渡に向けているところへ、警察が踏み込む。

 沙織もその場にいなければ、誰が息子を殺したのか、一生真実を知ることはない。そういう筋書きだった。

 だが結局、母親の息子への愛は香村の想像をはるかに上回っていた。薬で落ち着かせた智洋と、石渡を処理場に監禁たのだが、沙織は二人を再びアパートに連れ戻していたのだ。彼女は香村よりも、息子の身を案じていた。

 またしても智洋。

 沙織の人生には智洋しかいなかった。

 だが、これからは俺がいる。

 智洋、篠塚、石渡。三人死ねば、今度こそ沙織との新しい人生が始まる。

 この三人は一気にまとめて殺す。

 智洋だって、一人逝くのではない。寂しくないだろう。

 息子を失い、悲しみに打ちのめされる彼女を、自分が胸に抱いて慰める想像に、自然と頰が緩んだ。

 穴を掘るのにこんなに時間がかかるのは誤算だった。一人を埋めるのに、かなり大きな穴が必要なのだと、この時初めて知った。

 小さなうめき声に、香村はシャベルを振るう手を止め、声の主に目をやった。

 雅季が、身動みじろぎし、顔を歪めていた。

 

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