第23話


 廃棄処理場の捜査から戻り、雅季は数時間の仮眠をとった。だが、頭の芯がじんと痺れているのは疲労か、怒りか。

 濃い緑茶を入れ、自席に戻って、気持ちを鎮めようと何度か深呼吸した。 

 それでも、胸騒ぎは治まる気配がない。

 久賀の意見はもっともだ。——証拠不十分。

 検察はそれを最も嫌う。それは警察も同様で、重々承知だ。

 それにしても、宮尾沙織にはまだ不審な要素があるのに、それをシロにしろ、クロにしろ証明する証拠が出ないのが歯痒い。

 これまでも雅季は、今回ほどの大きな事件ではないが、自分の直感を信じて捜査を進めたことは何度もある。そして、その全てが空振りというわけでもなかった。

 直感は紛れ当たりではない。これまでの経験、知識の集合だ。その直感を否定されては雅季に他に使える駒はない。

 確かに宮尾は須藤仁美殺害、暴行に直接手を下してはいないと思う。

 だが、仁美と接触していた事実はある。彼女は犯人を知っていて、なんらかの事情でそれを隠蔽しているのではないか。

 それが雅季の思うところだった。

 ただ、あのDNA鑑定が出ればはっきりする。

 ここまで彼女に執着するのは、自分でも行き過ぎかと思う。裏腹に、久賀の鼻を明かしたいという気持ちもないことはなかった。

 今回の事件で、久賀は何かと自分に対して対立の態度が目立つ。

 それは個人的なものなのか、検察側の立場としてのものなのか、新楽の手前もあるのだろう。だが、以前共同捜査をした時のような同胞、味方、という雰囲気はなく、完全に一線を画していた。

 本音を言えば、久賀と距離を置かれることは心細いし、辛かった。

 やはり自分は警察こっちの人間なのだ。その事実が翻ることはない。

 雅季は気を取り直し、香村の携帯を呼び出した。

 そろそろDNA鑑定の結果が出ても良い頃だ。香村が東京にいるのなら、電話口でもその結果を知らせてもらえればいい。

 だが、繋がらない。会議中なのか、取り込み中なのか。

 雅季は、鑑識に直接自分で問い合わせようと思ったが、担当者の名前も知らない。そういえば、香村は独自の筋があるようなことを仄めかしていた。

 時間になったので、捜査会議に出る。犯行現場の発見で、ほとんどの捜査員はそちらに動員されることになった。

 雅季はもちろん、留守番だ。

 会議の後、雅季は鑑定の件は平井に相談しようと鑑識課へ赴いた。

 事情を話すと、平井は「同期がいるから」と、目の前で電話をかけてくれた。

 相手が出ると、短い挨拶を交わし、すぐ内容に入る。

「うん、そう。悪いな。頼むよ」

 会話はそれだけで終わってしまった。受話器が置かれるや否や、雅季は訊いた。

「何て言ってました?」

「後で折り返すってさ。わかったら速攻連絡するよ。あっちだって仕事抱えてるんだ」

 雅季が肩を落とすのを見て、平井は苦笑した。

 確かにそうだ。ここと比べ物にならない数の事件を抱えている本庁は、もっと忙しいだろう。雅季は香村に頼らず、こっちで簡易鑑定を頼めばよかったと少し後悔した。

 刑事部屋に戻る途中で、給湯室でお茶を入れた。

 香村はいつ戻ってくるのだろう。もしかしたら、いち早く宮尾の鑑定結果を知り、あっちの捜査方針を変えたのかもしれない。やはり手柄を横取りする気なのか。結局自分たちは利用されただけなのか。

 いや、まだ事件は終わっていない。

 雅季が気を取り直して、処理場の捜査経過報告に目を通して行った。しばらくすると机上の電話が鳴った。平井だった。

「どうでした?」

 雅季の鼓動が速まる。

「うーん、ないって」

 雅季は耳を疑った。

「ないって、どういう意味ですか」思わず受話器を強く耳に押し当てた。

「うちからの鑑定依頼は何も回ってきてないってさ。確かなのか? 渡したの」

「確かですよ。香村一課長に渡して……」

 あ……。雅季の開いた口からは声が出なかった。それは、その先は、確認していない。でも、どうして渡さない理由がある?

 その瞬間、雅季の視界が暗転した。

 頭の中で、何かが小さく弾けた。

「じゃあ、まだ一課長のところにあるんじゃないかな。忙しいから、うっかりってこともあるでしょ。確認してみなよ」

 平井の声に我に返った。

「あ、はい。すみません。お手数おかけして。ありがとうございました」

 電話を切ると、受話器を握っていた手はじっとりと汗をかいていた。

「まさか……、そんなことって」

 おそらく、あの採取キットは捨てられた。

 騙されていた?

『まさか』と『まさに』という相反する思いが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 動悸が激しくなり、呼吸が浅くなった。

 ふつふつと身体中の血が湧き上がる。自分の想像に全身の鳥肌がたった。

 恐怖と紙一重の、言葉にできない興奮がぞくぞくと背筋を這い上がる。

 見事に引っ掛けられた。

 香村は、自分とともに前線に立っているフリをしていた。

 ホテルで、本庁に誘ったのも出まかせで、デタラメだった。雅季の味方でいるフリをし、すっかり丸め込んだ。

 香村を拒絶したその後、百八十度態度を翻したのにも納得がいく。

 雅季は、気を鎮めるために大きく息を吐いた。

 自分なら意のままに操れると思っていたのか。

 全てが嘘だった。

 どこから? きっと初めから。

 おそらく、犯人が政治家の親類というのも真っ赤な嘘。

 もし、唯一真実があるとすれば——香村は犯人を知っている。

 雅季はぎゅっと目を瞑った。ショックで目眩がしそうだった。

 一課長が一枚噛んでいるのなら、ぐずぐずしてはいられない。

 雅季は受話器を上げかけて、すぐにそれを下ろして部屋を出た。捜査本部にいる始関を捕まえ「ちょっと、よろしいですか」と、人気のない階段の踊り場へ連れて行った。

「どうしたの」

 首をかしげる始関に、雅季はもう一度、周りに人がいないことを確かめて身を寄せた。

 上司は姿勢を低くした。

「香村一課長を洗ってください」

 そう、耳元で囁いた雅季に、驚きの顔が向けられる。

 雅季はしっかり頷いた。



 それからすぐに、雅季は行動に移した。

 捜査員はほとんど出払っていたし、自分と同伴して始関から好んでとばっちりを受ける猛者に心当たりはなかったので、雅季は一人で出かけた。

 電話に出た事務員によると、今日宮尾沙織は休みとのことだった。

 署の最寄りのバス停からバスに乗り、一回乗り換えで三十分後には目的地に着いた。

 アパートの集合ポストを確認すると、中国人らしき名前が二部屋あったが、宮尾の名字はない。そこにも雅季の不信が上塗りされる。

 これらの小さな疑惑が、核心につながっていくようだった。

 アパートの外階段はしんと静まり返っている。

 以前の訪問から何も変わった様子はない。一瞬、単独行動はまずかったかもしれないと、頭をよぎったが、様子を見に来ただけだ。

 自分の勘が外れていれば、すぐ戻ればいい。

 二階にある、宮尾の部屋のドアホンを押す。

 中でかすかに人の気配がし、やがて足音が近づいて、ドアが小さく開いた。チェーンはかかったままだ。

 ドアの隙間から宮尾沙織の顔が覗いた。無表情で、「何か」と問う。

「お仕事が、今日お休みと聞いたので。突然で申し訳ありませんが、伺いたいことが二、三あるので少しよろしいですか」

 宮尾は逡巡している。迷惑がっていることが、手に取るように伝わった。

「ここでは、なんですので中に入れていただけると助かります。ご都合が悪ければ、後日出直します」

 雅季はもうひと押しした。諦めたのか、沙織はチェーンを外した。

「どうぞ、散らかっていますが」

 雅季は玄関に入ってすぐ、かすかにその香りに気がついた。どこかで嗅いだことのある香りだった。

 ルームフレグランスだろうか。だが、収納靴箱の上には何もない。

 短い廊下を進み、狭いダイニングキッチンに通された。別室に続くドアを二つ確認した。

 まだ未開封の、引越業者の名が入ったダンボール箱が部屋の隅にいくつか積まれている。

「それで、お話って」

 キッチンテーブルを挟んで向かい合うと、沙織は促した。うつむき加減で、目を合わそうとしない。

「お時間、ありがとうございます」

 雅季は軽く頭を下げ、相手の様子を素早く観察した。前回の時よりも緊張しているようだ。薄く化粧をしている。気になるのは、目が腫れぼったく、充血していることだった。泣いたのだろうか。——それは、なぜ?

 雅季は単刀直入に尋ねた。

「石渡克樹は、どこです?」

 沙織はパッと顔をあげ、眉を寄せた。

「誰ですか?」

「石渡克樹、二十代の青年です。彼を知っていますよね」

 相手の眉間の皺が一層深まる。そして、雅季の視線を避けるように、テーブルの上の手に目を落とした。

「刑事さんがなんのお話をしているのか、わかりません。石渡なんて、知りません」

 嘘だ。これは雅季の直感だった。

「須藤仁美さんの事件の犯人についても、何かご存知ですよね。もしかして、宮尾さんは、犯人に脅かされているのではないですか?」

 沙織の重ねた手にぎゅっと力が入った。思った通り。多分、彼女は何か隠している。

「もし、何かご存知なら協力していただけますか? 宮尾さんに危害が及ぶことは絶対に避けますから。警察を信用してください」

 雅季は努めて優しく頼んだ。

 沙織が目を上げた。生気がなく、何も読み取れない。

「万が一、犯人をかばっているとしても、それは誰のためにもなりません。それに、時間の問題だと思います」

 沙織は弱々しく首を振る。涙が頬を伝った。

「わかりません。刑事さんが何を言っているのか。本当に、わかりません」

「では、なぜ泣かれるんですか。もう、辛いんじゃないですか? 黙っているのが辛いんですよね? お願いです。話してください。石渡さんはどこにいるんです?」

「……帰ってください」

 拳を口に当ててすすり泣いていた沙織は、喘ぐように言った。

「お話することはありません。私は、何も関係ないんです」

「いいえ、あなたは知っています。全てが手遅れにならないように、私はここに来たんです。これは、あなたにとって最後のチャンスなんですよ、宮尾さん」

 沙織はかぶりを振るだけだ。さっきよりも強く。雅季の懇願を払いのけるように。

 しかし、感情が昂っているだけ、彼女の心は揺れていると悟った。もうひと押しだ。

 雅季が口を開きかけると、背後から微かな物音がした。振り返った先の別室のドアはぴたりと閉じているが、妙な存在感がある。

 雅季は耳をそばだてた。そして、再び沙織の方を向いた。

 沙織は顔を上げ、ドアを凝視していた。その顔は強張っている。

 今度ははっきり、押し殺したような低い声が聞こえた。

 ぞくりと背中に悪寒が走る。

 石渡だろうか。ならば、沙織は共謀者ではなく、主犯? もしそうなら、今ここで彼女は自分の口を封じにかかる?

 その可能性に、雅季は自分の身の危険を感じて体を緊張させた。だが、不思議なことに沙織の目に危険を感じさせるものはない。むしろ、生気を失っている。

 雅季は、慎重に相手に語りかけた。

「宮尾さん。あの部屋に、誰かいるんですか」

 沙織はドアを見つめたまま、微動だにしない。

「部屋を、確認させていただいていいですか」

 反応なし。雅季は静かに腰をあげると、沙織に背中を見せないよう、横歩きでじりじりと物音のした部屋の方へ移動していった。スーツの下から腰の特殊警棒を右手で抜き、ドアに顔を寄せる。その間も視線は沙織から外さなかったが、依然、その場に縫い付けられたように動く様子はなかった。

 激しい動悸を鎮めるように、一度息を深く吸い、ドアを大きく押し開けた。

 雅季は、視界に飛び込んだ光景を受け入れるのに、数秒を要した。

「何……何なの、これは……」

 パイプベッドの上にはティーシャツとボクサーパンツ姿の若い男が壁にもたれて座っていた。そのティーシャツは血で汚れ、投げ出された手の甲の関節部分は痣で黒く変色していた。

 二十代半ばくらいだろうか。痩せていて全体的に骨ばった体つきだ。肩にかかるかかからないかの黒髪はひたいの真ん中で分かれていたが、毛先はもつれていた。血色の悪いこけた頬。

 雅季の出現にも気づかないのか、目はぼうっと向かいのテレビに留めたままだ。音はミュートで、動く画面を見つめたその顔には、時折薄笑いが浮かぶ。

 これが、石渡克樹だろうか。

 雅季がそう思ったのは、その手首が手錠でパイプに繋がれていたからだ。しかし、もし監禁されているのならば、雅季に真っ先に助けを求めないのはおかしい。

 それに、彼の服は血で汚れているが、負傷して苦しんでいるようには見えない。

 何か、がおかしい。

 その違和感は、雅季が床に敷かれたベージュのラグマットの血痕と、白い壁にところどころついている赤茶色の染みをみとめた時、明らかになった。

 これは、彼の血ではない。

 嫌な汗が背中を伝う。雅季は、一歩室内へ足を踏み入れた。そして、入り口からは死角だった、部屋の隅、窓際のカーテンの陰にあるものを見て、その場に凍りついた。

 それが人だと認識することを、脳は全力で拒んでいた。急に、血の臭いが濃くなった気がした。恐る恐る、それに近づき、見下ろした。横向きにうずくまるようにして、若い男が横たわっていた。

 ありえない方向へ曲がった手首、殴られてすっかり腫れ上がった顔。口にはガムテープが貼られている。

 肉片の欠けた耳たぶには、赤黒い血の塊がこびりついていた。トランクスから伸びた脚は所々火傷でただれていて、雅季はその凄惨な状態に思わず目を背けた。

 かすかに胸が上下している。苦しそうな呼吸に時折「う……」とうめき声が混じる。

 いけない。早く救急車を。

 雅季はベッドの男に再び視線を戻した。その時、男の視線が自分の方へ移った。だが、その視線は雅季を通り越して、何か別のものを捉えたようだった。

 背後に気配を感じると同時に、声がした。

 「『何』とは失礼じゃないか。『誰』だろう?」

 この声を、知っている。

 雅季は電光石火の速さで身を翻すと、目の前に香村が立っていた。

「かむっ……」

 香村は雅季に最後まで言わせなかった。素早く伸びた両手が雅季の喉を捉えて強く締め上げる。

 雅季の手から警棒が落ちた。首を締め付ける手首を掴み、必死で抵抗する。

 しかし、強い両手は、さらにぎりぎりと首を締め付けてきた。強烈な圧迫に呼吸ができず、やがて頭が膨張するような感覚に襲われて、視界が霞み始めた。

 朦朧とする意識の中で、玄関の香りは香村のフレグランスだったと思い出す。

「く……」

「この男が誰か、教えてやろう。彼は宮尾智洋みやお ともひろだ」

 ずっと遠くの方から香村の声がぼんやりと聞こえた後、雅季は深い闇に飲み込まれていった。

 

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