第22話


 捜査本部である講堂に雅季が入ると、緊張していたその場の空気が、不穏なものに一変したのを肌で感じた。

『なんでいるんだよ』

『外れたんじゃなかったのか』

 雅季には、そんな声が聞こえる気がした。

 きっと、久賀も似たような言葉を聞いているだろう。彼もここでは厄介者なのだから。

 すでに指揮官席にいた始関は、久賀の姿を認めて一瞬あっけにとられ、同時に雅季に咎めるような目を向けた。だが、雅季はそれを無視して、後方に着席した。

 始関の隣で、香村は口を開きかけたが、結局何も言わずに胸の前で腕を組んだ。

 深夜一時。すでに帰宅した捜査員もいたが、講堂で休んでいた刑事たちは皆出席していた。

 始関が全体を見回す。そして、行方不明者の概要を説明し始めた。

「これが我々の事件と関係しているかはまだ断言できないが、今はどんな情報も共有しておくべきだと判断し、集まってもらった。まず、捜索願いの要請は一時間ほど前、零時を回った頃だ。届けを出したのは同棲中の会社員。松宮区在住。行方不明者は石渡克樹いしわたり かつき24歳、パチンコ店勤務。ここも休館日をのぞいて二日間、無断欠勤している。同棲相手には日曜夜、最後のショートメールにて、友達と飲むから遅くなる、と連絡している。それ以降、電話は不通。これを捜査本部で並行捜査で行くか、生活安全課に任せるか、意見を聞きたい」

 案の定、行方不明の石渡は自分の意思で失踪したのでは、と言う意見が多かった。男女関係が冷め、相手が姿をくらまして自然消滅ということは、珍しい話ではない。

「この同棲相手とは、まだ付き合いは半年にも満たず、男は彼女を利用していただけではないか。もともと住所不定であり、知り合った女の部屋を渡り歩くタイプのヒモ男だったのではないか」

 香村が続けると、多数が同意するように頷いた。

 さらに、それが殺人事件の同一犯ならば、マスコミも嗅ぎ回っているこの時点で、見つけてくれと言わんばかりに派手に動き回るだろうか。そんな声もあった。

 だが、石渡のショートメールは日曜日の午後十九時四十分に発信されている。そのことから、相手を心配させまいとする気遣い、そして石渡は帰宅する気はあったのではないか。その青鞍の発言には、別の刑事が意見した。

「その後、飲みの席で、いい子と知り合って……なんて可能性もあるだろう」

 香村は取り合わず、結局、その件は捜査本部では扱わない決定を下し、解散した。捜査本部で取り上げるには、当然少なすぎる情報と接点。

 雅季は、香村の決定に、久賀や青鞍が納得していないのが手に取るように分かったが、上の決定は絶対だ。まして自分は、会議室から追い出されなかっただけでもラッキーだと思った。

 

 今夜は神経が高ぶって眠れそうもない。刑事部屋で、雅季は過去の事件を再び洗い直すことにした。

 香村が秘匿しているなら自分で調べるまでだ。すでにネットや過去の新聞から情報を集めていたが、何か見落としていることがあるかもしれない。もしかしたら、行方不明の石渡と共通する何かが見つかるかもしれない。そんなわずかな期待もあった。

 香村の姿はない。ホテルに引き上げたのだろう。今夜の召喚は、別に彼が出てくる必要はなかったのだ。

 あの個人的な勧誘の後、二人の関係は明らかにこじれていた。

 自分のデスクで資料の束を繰っていると、いつのまにか始関が隣に立っていた。手を止め、「お疲れ様です」と、見上げる。気づけば、刑事部屋の明かりはほとんど消されて薄暗い。宿直の刑事が一度書類から顔を上げたが、すぐに自分の仕事に戻った。

 上司は、スーツのポケットから何かを出して、広げている資料の上に置く。キャラメルの小箱だった。

「じんちゃんのことは、残念だったな」

「まだ、生きていますよ」

 うん。と始関は頷いた。

「でも、オレは許さない。それと、君の悔しい気持ちはわかる。だが、君に何かあったら、オレは後悔しても仕切れない」

 感情を抑えた低い声音。

「だから、君が動くのは今じゃない。今、君はここで情報を集め、考え、犯人を確実に追い詰める」

「はい。久賀検事にもそう言われました」

「だろうね」

 始関は微笑した。

「だから、今は休みなさい。これは命令だ」

「はい」

「必ず君はホシを挙げる。それはオレにはわかる」

 雅季の胸中が熱くなった。これ以上の信頼はない。「じゃ」と言って始関が席を離れた。途中で足を止め振り向く。

「じんちゃんが元気になったら、合わせてくれよ」

「はい」

 雅季は大きく頷き、書類をしまい始めた。




 翌朝の捜査会議では、まず鑑識の平井から報告が上がった。

「土壌の分析結果が出ました」

 手にしたレポートを読み上げる。 

「……エチレン、六価クロム、クロロエタン、ジクロロメタン、トリクロロエタン、ベンゼン、四塩化炭素、シアン化合物、銅、ガソリン……」

 化学物質の名が続く。一通りそれらを読み、平井は顔を上げて一息おいた。

「おそらく、これだけの物質が含まれているということは、かなり土壌が汚染された場所だと推測されます」

 新たな手がかりに、室内が湧き立った。捜査員の顔に活気がみなぎる。

 早速、情報処理班が市内の自動車整備工場、ガソリンスタンド、町工場などをリストアップした。

 それらを最終的に香村が確認し、ゴーサインが出るとそれぞれの班で担当を決め、出動する。今度こそ、必ず何か手がかりがあるはずだ。雅季は動けない悔しさを抑えつけ、自席に戻った。

 午後八時、捜査会議。刑事たちは疲労と落胆だけを土産に戻ってきた。もちろん、報告も真新しいものは何も出なかった。

 無駄な会議を長引かせるくらい、捜査員の士気と体力を削るものはない。早々に香村が会議室を見回し「それでは、」と解散を口にしかけたところで、   

 雅季は「あの……」とおずおずと手を挙げた。さっと一斉に視線が集中し、雅季はすぐに手を下ろした。香村の鋭い視線に雅季は一瞬ひるんだが、正面からそれを受け止める。久々に見たその顔には、疲労が刻まれ、血色も悪いように見えた。

「篠塚巡査部長、何か?」始関に指名され、雅季は慌てて立ち上がった。

「あの……リストに、見落としている場所があるのではないかと思いまして」

 はあ? と非難とも聞こえる声がいくつか上がった。

 雅季は、彼らが東奔西走している間にもう一度リストと殺人現場、子供支援センターなどの位置関係を精査していたのだが、その時リストに含まれていない場所があることに気がついた。そして、そここそが雅季の直感に訴える場所だった。

「私が見落としている……と。それは、どこですか」

 腕を組んだ香村の声はどこまでも冷ややかだ。リストの最終確認をしたのは香村なのだ。

「廃棄物処分施設です。市のはずれに一箇所、あります」

 雅季の指摘を聞き、情報班の一人が首をかしげながらも、パソコンのキーを叩いた。

「本当だ。地図上に……ありますね。どうしてリストから外れたんだろう……。結構市外ですね。管轄境だからかな?」

「民間の廃棄処分施設。しかし、四年前に閉鎖されています」

 人気のない山中。立ち入る者のない、……そこ以外にない。

 それらの情報を読み上げられると、改めて雅季は確信した。ぞくりと鳥肌が立ち、胸がどきどきした。ふと気配を感じると、雅季を捉える香村の険しい視線と合った。

「情報班。すぐに管理者を調べて、連絡を取ってくれ」



 件の廃棄場まで同行を許された雅季は、しかし、車内で待つよう釘を刺され、何もできない苛立ちを抱えながら、車中から視界の効く範囲に注意深く視線を巡らせていた。

 とはいうものの、時刻は二十二時を回っていて、照明一つない山中で見えるものといえば鬱蒼と生い茂る木々、そしてその中に不気味に建っている四角い、処分場の影だけだった。

 四年前に経営難が原因で閉鎖されたという廃棄処分場は、市の中心地から北、ほとんど境界境いに位置している。

 パトカーで舗装のされていない林道をずっと奥へ行くと、やがてヘッドライトが道の両脇の鉄柱に渡された、車避けの鎖を浮かび上がらせた。その奥には二メートルほどの鉄門がピタリと閉じられ、チェーンが巻かれた上に南京錠が掛けられているようだ。

 その門を起点とし、ネットフェンスが施設をぐるりと囲んでいるのがわかる。

 先頭のパトカーから懐中電灯を手にした捜査員が、車から降りて管理会社から預かった鍵で解錠する。

 雅季も思わずドアハンドルに手をかけると、「ダメですよ」隣にいた久賀がぴしゃりと言った。久賀はもちろん、この場に立ち会っていた。

「今回は篠塚さんが待っている番です」

 前回、共同捜査をした際、犯人を追い詰めたところで、雅季が彼の安全を思って久賀を車内で待機させたことがある。それをまだ根に持っているのだろうか? だが、今回は捜索だ。雅季は軽く相手を睨んだ。

「では、後から出て行っても文句は言えませんよね。久賀さん、あの時約束破って出て来ましたし」

「それはそれ、これはこれ、です。だいたい始関さんから念を押されていますからね」

「いつからお二人はそんなに仲良しになったんです? こんな時だけ結託して、おかしいですよ。だいたい、捜査は一人でも多い方が作業が捗るんです。とにかく、私は行きます。私一人が叱られればいいことですから。それに、今は安全です」

「百パーセントではないと思いますよ」

「大丈夫です。久賀さんがいますから」

 なぜか、するりと本心が口をついた。

「えっ……、あっ、ちょっと」 

 久賀の一瞬の隙をついて、雅季は車から降りた。助手席から降りた久賀が「篠塚さん」と呼び止めるが、それを無視して先を行く。林の中は地面が熱を吸収するのか、思ったよりも涼しい。針葉樹の独特の香りが、昂った気分を幾分か落ち着かせるようだった。

 前方に光をあてると、二階建ての事務所らしきものの窓ガラスが鈍く光った。四年間野ざらしだった割には建物自体は埃にまみれていても、そう傷んでいる様子はない。

 舗装されていない道を砂利を踏みながらさらに進むと、事務所の左手には鉄骨と鉄板で三方を囲み、その上に屋根を乗せただけのエリアがあり、二台のコンテナには金属の屑や木片、タイヤで巨大な瓦礫の山ができていた。

 右手は処分場だろう。格納庫のような無機質な建物がひっそりと佇んでいる。

 足早に、他の捜査員たちが雅季の脇を過ぎて行った。

懐中電灯の光が生き物のように四方八方に動く。一度事務所前に集まった十人の捜査官は、三組に別れて外の収集場及び敷地内、事務所、処理場の捜査を開始した。

「篠塚さん、待機……。いいんですか。久賀さん……」

 処理場に近づく雅季と久賀を見とめ、青鞍が顔をしかめた。

「いいもなにも……私は止めましたよ」

「始関さんも、こうなることくらいわかっていたはずです」

 久賀と青鞍が諦念のため息をついたとき、通用口に向かった捜査員の声がした。

「ドア、破られてるぞ」

 格納庫の、ダンプや大型貨車が出入りする入り口とは別の、作業員通用口のドアは曇りガラス一枚貼られたドアだったが、そのガラスが割られ、鍵が開けられていた。

 絶対に、現場はここだ。雅季の確信はさらに強まった。それはこの場の刑事たちも感じたのだろう。敏捷な動きで四方に散った。

 雅季と久賀も後に続く。

 外観から想像していた通り、中は相当広くて照明は奥まで届かないが、オイルや金属臭が微かに鼻をついた。

 がらんとした場内には、コンテナや切断機らしき機械も見えた。リフト機からぶら下がる太い鎖も、破砕機につながっているベルトコンベアも、動いていなくても不気味な雰囲気を醸している。

 犯人はここに須藤仁美を閉じ込め、日夜問わず暴行を繰り返したに違いない。こんな林の中で。助けの声も届かず、苦しみながら、絶望の中で刻一刻迫る死の気配を感じていたのだ。

 もうすぐだ。確実にホシに近づいている。

 絶対に逃がさない。

 雅季が作業台の連なる床を調べ始めた時、「ちょっと来てくれ」と、壁に並んだコンテナボックスの前で捜査員の一人が声をあげた。

 皆駆け寄り、懐中電灯の輪が囲むコンクリートの床を凝視する。

「血痕だな。間違いない」

 三十センチほどの赤黒い染みが広がっていた。周りにも飛び散った血痕が点々と見とめられた。

「こっちは、まだ新しいな」

 床の指先ほどのくぼみに溜まった血液を調べていた捜査員が、そのライトをゆっくりと入り口の方へ向けた。床をなぞるように移動していく光に、うっすらと舞う埃の中でいくつもの足跡が浮かび上がった。

「本部に……鑑識に連絡」「ハイ」と青鞍の声がして足音が遠のいていく。

「この失血だと、どうでしょう」

 久賀が近くの捜査員に訊ねた。

「なんとも言えんが……」

 薄闇の中で、捜査員は渋面になる。

 おびただしい、というほどではないが小さくても血だまりができるほどである。これが新しい犠牲者のものなら、傷は深いのかもしれない。つまり、一刻を争う事態というわけだ。

「ここが犯行現場の可能性が高いですね」

 久賀が言うと、一同頷いた。

「おい、ここから重点的に調べるぞ」

 膝をついていた刑事が立ち上がると、他の刑事たちもそれに倣って、再び動き始めた。

 雅季も折っていた上体を起こす。

 ちょうど、青鞍が戻って来たところだった。

「鑑識、来ます。あと応援も。なにせこの広さですから」

「香村さんも?」ふと、雅季が聞くと、青鞍は不思議そうに目を瞬いた。

「あれ? 聞いてないんですか? 東京に戻ったって……。会議直後」

「そうですか……。大変ですね」

 捜索、続けましょう。と声をかけ、雅季もライトを再び足元に向けた。

 どうして香村はこのタイミングで東京に?

 動きがあったことを知らせにいくのだろうか。電話ではなく、わざわざ? それとも、呼び出されたのか? とにかく上の行動は末端の自分にはわからない。しかし、自分に知らされてないことに小さな不満を覚えた。

 共同捜査を持ちかけたのは、香村の方だ。あのホテルでの一件で態度を百八十度に変えたのだろうか。

 私情を捜査に持ち込むなんて、いささか大人気ないのではないか。それとも一課長と言うプライドが傷つけられたのは、自分が思うよりも大変なことなのかもしれない。

 雅季はそこまで考えて、なぜか自分が煮え切らない気持ちを持て余していることに気がつき、邪念を払うかのように軽くかぶりを振った。

 無駄に動いて、証拠となりそうな足跡や痕跡を消さないよう、処理場の刑事たちは皆外の調べに加勢した。

 一人の捜査員が、事務所の方へ移動する雅季たちの方へ近づいて来た。片手に何か持っているようだ。

「こんなものを見つけました。あっちのフェンスに引っかかっていたんです。一部、フェンスの境のところが大きく剥がれていまして、押せばなんとか通れそうになっているんです。そこで……頭髪ですかね」

「ちょっと持っててくれ」と、捜査員が懐中電灯を青鞍に渡し、手にしていたハンカチを広げると、長い髪が一本現れた。

 四十センチくらいはあるだろうか。だいたい、肩に付くくらいの長さだ。

「須藤仁美のものですかね。行方不明者の石渡は、ロン毛じゃないですよね」

 青鞍が光を近付けて言った。

「須藤の髪は、もっと明るかったです」 

「でも、無関係の人間のものという可能性もあり得ますよ。とにかく調べないことには……」

「いえ、これは無関係の人のものでも、被害者のものでもありません」 

 雅季は久賀の言葉を遮り、顔を上げた。

「宮尾沙織だと思います」

 久賀が目を瞠った。

「『だと、思います』って。どうしても、そこから離れられないようですね」

 久賀は捜査員に向いた。

「それは鑑識に渡してください。ありがとうございました」

 そして、雅季の肩に手を添え、そのまま事務所の影の方へ連へ促す。懐中電灯を消し、雅季と向き合う。雅季も倣って、明かりを消した。闇に慣れてきた目は、久賀の眼差しに疑念を認めた。

「宮尾さんはマルボロも吸いますし、引越しの動機も曖昧で、まだ黒に近いグレーな存在です。彼女がシロだとする確証の方が少ないんですよ。それは久賀さんだって……」

「思い込みだけで判断するのは危険です。それだけでこの件と宮尾沙織をつなげるには状況証拠すら弱すぎるって、わかってますよね」

 雅季は唇を噛んだ。

「ええ、でも、何か、どこかで彼女が関係している気がして……。だから、あの鑑定さえ早く出れば……」

「ああ、香村さんに任せたやつですね」

 急に声音が沈む。

「だいたい、あの死体に付着した体液からは、ホシは男と出ているんです」

「そうですけど……」

「宮尾沙織の身元は、そちらで洗ったんじゃないんですか」

「はい。香村部長が……」

「怪しいところは、なかったんですよね」

「そうですね……」

 久賀の、畳み掛けるような物言いに反論の余地は全くない。

 雅季は、久賀がまだ何か言おうと口を開きかけたところを、上げた手で制した。

「久賀さんの仰るとおりです。私が間違っていました。とにかく、捜査を続けましょう」

 雅季は懐中電灯を再び点灯し、踵を返した。

「篠塚さん、間違っているとかではなく……」

 呼びかける声を無視して、収集場に向かう。

 久賀に全てを話せたらどんなにいいか。すでに香村には愛想を尽かされたようだし、このまま久賀とも完全にすれ違いが続けば、雅季は孤立無援となる。やはり、警察と検察の間には見えない壁が立ちはだかるのか。

 しかし、自分が厳しい立場にいる反面、事件は大きく前進し始めた。自分は、自分の信じる捜査をするだけだ。

 

 

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