第21話


 雅季は自室のベッドに腰掛けて、サイドボード上の空の水槽を見ることもなく見ていた。

 この部屋を犯人が、そして何人もの捜査員が出入りしたのだと思うと、落ち着かない。

 雅季は犯人の再来を主張したが、香村の言う通り、その可能性はないかもしれない。今となっては、心のどこかでそれを望んでいた。絹田と青鞍の護衛があったとしても、怖くないと言えば嘘だった。

 リビングには絹田がいる。それでも、アパートの住人のたてる微かな音や、時折走る車の音に、逐一神経をとがらせている自分がいた。

 住人たちは、雅季の部屋に何者かが侵入したショックはあったが、普段と変わらない生活をしている。

 あの夜、犯人はどのくらいの間部屋にいたのだろう。

 シャワーを浴びている時も、息を潜めてすぐ近くにいたのだろうか。それを想像しただけで、動悸が激しくなり、全身に嫌な汗が吹き出してくる。

 膝を抱える両手の関節が白くなるほど、手に力がこもっていた。

 部屋の調査の終了後、始関は掃除スタッフを手配し、隅々まで掃除させた。それでも、ふとした瞬間に、雅季の視界には部屋を歩き回る犯人の幻影が映りこむのだった。

 雅季は両手で顔を覆った。できることなら今すぐ引っ越したかった。梓はもうこの部屋に帰らせない。なんなら自分も、東京の実家に一度引き上げようか。希望を出して——。ふっと香村の顔が頭に浮かび、雅季は慌ててそれを打ち消した。

 東京へ行くとしたら、久賀とはどうなるのだろう。本部で、それも万が一香村の下で働くならば、忙しさは今よりも格段に違うはずだ。

 さらに遠距離。

 でも、もしかしたら久賀にとってはそれがいいのかもしれない。

 久賀の、自分への真剣な気持ちにきちんと応えられているか自信がない。自分が弱いことはわかっている。

 人はある程度強くないと、相手を受け止めることはできない。そうでなければ、自分が相手に寄りかかるだけの存在になってしまう。

 それは健全ではないし、だんだん相手の負担になって行くのは、少し考えれば明白だ。

 犯人は、そんな自分の弱さを嗅ぎ取っていたのだろうか。屈折した人間は、同じように屈折した人間を一瞬にして見分けられるのだろうか。

『誰のための捜査なんですか』

 久賀はそう訊いた。

 もちろん、被害者とその家族、残された者のためだ。彼らが少しでも前へ進めるために、ホシをあげて裁く。

 無念を晴らす、一体誰の無念だろう。自分の……。

 自分が正しいのだと、自分の捜査が、経験が、直感が正しいと——公に認知されるために。

 捜査中、仁美の死体と、過去の自分の姿がぼんやりと重なることがあった。

 自分が見ず知らずの男から性被害を受けたとき、早い段階で男が逃げたのがラッキーなだけだった。

 一歩間違えれば、自分も仁美のように殺されていたかもしれない。

 私は、こうして生きている。

 そして、私は、須田仁美に手をかけた犯人を必ず検挙する。

 雅季はふっと息を吐いた。深く考えすぎて、つい呼吸をするのを忘れていたようだ。

 会議の後、始関は雅季に心療カウンセリングを勧めてきた。

 『犯人と接触しなかったのですから』そう言って雅季は笑ってごまかした。

 しかし、一人でいると不安やネガティブな思考が膨らむばかりで、やはり恐怖はしっかりと心に刻まれていたのだと自覚した。

 それはあの事件の時もそうだったはずだ。長い年月をかけてカウンセリングに通い、やっと恐怖をコントロールできるようになった。

 あの忌まわしい過去は消えない。しかし、毒を吐き出す必要があること、そしてその効果は身をもってわかっているはずだった。

(事件が片付いたら、カウンセリングをまた受けよう……)

 そう決めた時、ドアをノックする音に、雅季は現実に引き戻された。

 かたわらの携帯電話を見ると21:20だった。

 ドアを開けると、絹田ロナが立っていた。

「あの、お腹減りませんか? よかったら何か作りましょうか。デリバリー頼んでもいいって係長、言ってましたよ」

 食欲はなかったが、あったとしてもこの家で何か作って食べる気は起きなかった。しかし、体のために何か胃に入れておいた方が良さそうだ。

 絹田に任せた注文は、チーズバーガーときのこサラダだった。

 普通のハンバーガーではない。肉は和牛熟成肉で、一つ千二百五十円という代物だった。

 現場のキッチンで食べるほどメンタルは強くなかったので、リビングで遅い夕食を広げた。

 ロナはかなり空腹だったらしい。肉汁の一滴まで残さぬ勢いでパクパクと頬張っている。

 一口食べた雅季も、あまりの美味しさに食欲を引き出されていた。

「青鞍さん、流石に交代してご飯食べてますよね。あ、でも、ちゃんとプロテインバーとか用意してそう」

「なんか、こんなの頼んじゃって、私たちだけで申し訳ないよね」

「あ、それは私が頼んだんですから、篠塚さんが罪悪感持つことないですよぉ」

 脂で光る唇を、ロナは丁寧にペーパーナプキンで拭った。 

「あの、大変でしたね……、って今もですよね」

「ごめんね。護衛頼んじゃって」

「いえ、嬉しかったですよ、ご指名。篠塚さんに頼られてるんだなって思って」

「え、頼もしいよ。絹田さんは、いつでも。私よりずっとしっかりしてる。気が利くし、仕事も細かいし、明るいし。本気でうちの課に来ない?」

「いやいや、ちょっとそちらは私にはハードすぎます。いろんな意味で。始関係長の下で働くのは楽しそうですけどね。こんな夕食頼んでくれるし」

「楽しいよ。いや、楽しいって言ったらダメよね。係長、ああ見えて、しっかりしてるし、フォローしてくれるし、確かに理想の上司かも」

 雅季は食べきれなかったハンバーガーを丁寧に包み直した。ロナのグラスにボトルのウーロン茶を淹れ、自分のも満たした。

「いいなあ。いるだけで目の保養なのに、デキる上司って。総務部長も、『予算が予算が』って言うの控えて、もう少しシュッとしてくれればなあ」

「総務部長は柔道七段だし、予算のことは大事だし、尊敬する上司だと思うけど」

「まあ、そう不満はないんですけどね。この前、みんなにアイスおごってくれましたしね。と言うか、ちょっとさっきから気になってたんですけど……」

 ロナの視線は、ローテーブルの下の籠に落ちた。ハンドクリームやポケットティッシュなど小物が入っている。ロナはそこにあったサングラスを、手に取った。

「これ、かっこいいですね。あ、イタリア製だ。私もこういうティアドロップ欲しいんですよ。丸顔に似合わないって自覚してるんで買いませんけど」

「あ、それは久賀さんの忘れ物で」

 雅季が取り返そうと伸ばした手を、ロナは体ごとスッと避けた。

「えっ、検事、部屋に来たんですか?」

「あっ、でも朝食を一緒に食べただけで……」

「ええっ!? 朝食を一緒!? え、そこまでお付き合い進んでるんですか!?」

「ちがっ、朝食デリバリーをしてくれて……」

 雅季は顔の前で手をブンブン振る。弁解すればするほど、ロナの解釈は、真実とは真逆に突っ走っていく。

「え、検事、副業してるんですか。いいんですか? あ、他言しませんけど。検察、暇なのかあ」

「そうじゃなくて、私があまりにも至らないので、食料の差し入れがてら、様子を見にきてくれただけです。それだけです」

 ロナがサングラスをテーブルに戻し、満面の笑みを浮かべた。

「そういうことですかあ。愛情、ダダ漏れですよねえ」

「えっ、本当!?」

 雅季は頭を両手で覆った。

「いや、検事の方ですよ。私、あんなに頻繁に署を出入りする検事さん見たことありませんよ。うちの課の女子達も久賀検事推してますけど、お二人のことはみんな陰で応援してますからね」

「いや、だからそんなことは……」

 雅季が頰を熱くしながら言いかけたところに、激しくドアを叩く音が割り込んだ。二人の間に緊張が走った。

「篠塚さん!」外から、青鞍の切羽詰まった声が聞こえる。

 雅季とロナは同時に玄関に駆けていき、勢いよくドアを開けた。まだドアを叩こうと拳を上げた青鞍が、興奮に目を輝かせて立っていた。

「ほ、捕獲! 篠塚さん、じんちゃん。じんちゃん! 自分、捕獲しました!」

 ロナの後ろにいた雅季は、彼女を押しのけて前に出た。

「でも……」

 青鞍の声のトーンが急に落ち、彼は左手に抱えていた黒い塊を、ゆっくりと雅季の前に差し出した。

 カメはすっかり甲羅に閉じこもっていたが、その姿を見た雅季の全身から血の気が引いた。後ろの甲羅が三分の一ほど一部がぱっくり割れて、赤いものが見えている。甲羅は、剥がれかけている状態だ。

「じんちゃん……」

「植え込みの奥でなんか動いたんです。で、見て見たらカメで……自分が近づいたら、引っ込んじゃいましたけど」

「動いたってことは、生きてるんですね!?」

「そういうことだと思います」

 雅季は急いで部屋に戻ると、携帯で夜間救急対応している動物病院をサーチし始めた。



 事務官の柏木を一足先に帰らせ、自分も帰り支度をしている久賀がカバンを手にした時、中でスマホが鳴った。

 画面に表示されていたのは始関の番号だった。久賀は壁時計に目を向けた。二十三時五分。

 捜査に展開があったのだろうか。久賀はそれを耳に当てた。そして、話の内容を聞くと、『すぐに向かいます』と答えていた。 

 久賀が始関に教えられた動物病院に着くと、絹田ロナと雅季がちょうど病院から出てくるところだった。院の玄関の灯りは消え、看板を照らすライトの光に二人の姿がぼんやりと浮かんでいる。

 小さなトートバッグを手にしただけの雅季の顔が、いつもに増して白いのは照明のせいではなかった。ややうつむいた顔には、表情が全くない。

「あの、私一度署に戻りますので、篠塚さんに付き添っていただいていいですか?」

 絹田は眉尻を下げた。

「係長も人使いが荒いですよね。検事さんを顎で使って」

「本当に……」

 そう言いつつも、久賀は今回ばかりは始関の人使いの荒さに感謝していた。

「絹田さんも、ありがとうございました。遅くまでお疲れ様です」

「いえ、当然です。仕事ですし……。でも篠塚さん、相当ショック受けています……。私もですけど。じんちゃんは、応急措置をしていただいて、様子見だそうです。あ、すみません、私のタクシー来たんで」

 それではお願いします、と一礼し、急ぎ足で絹田は通りに止まったタクシーに乗り込んだ。

 力なく歩き出した雅季の体が揺れた。久賀はすぐに肩を抱き、支える。

「篠塚さん、大丈夫ですか」

 雅季は久賀の腕の中で、弱々しくかぶりを振った。足に力が入らないようで、ほとんど久賀に体を預けている。

「今日、何か食べましたか?」

 再び、首を横に振る。「さっき、病院で戻してしまって……ダメですよね。情けない」

「ダメじゃないです。とりあえず、何か腹に入れましょう。しっかりしてください。じんちゃんだって頑張っているんですから」

 雅季は今度はこくりと頷いた。

 久賀が辺りを見渡すと、視線の先に見慣れたファミリーレストランの看板がある。雅季の体を抱くようにして、明るい店内に入った。

 ほとんど客はいなかったが、久賀は奥の窓際の席を選んだ。

「とりあえず、ミルクティーでいいですか?」

「はい……」

 久賀はミルクティーを二つ頼むと、改めて雅季に向き合った。

「じんちゃんは……医者は何と?」

「内臓破裂や骨折は見られなかったので、抗生剤を塗布して、甲羅を接合する処置をするそうです……。ベランダから落ちるとか、車に轢かれて甲羅が割れてしまうことはよくあるみたいですが……」

 雅季はうつむき、声を震わせた。

「私の、せいです……きっと犯人はベランダから落としたんです。私のせいで、じんちゃんまで……」

「いや、もしかしたら部屋の捜査中に、逃げ出したのかもしれませんよ。結構出入りが激しくて、仕事に集中しているとカメ一匹でも意外と見逃すんじゃないでしょうか」

 雅季はパッと顔を上げ、強い瞳で久賀を見た。

「ありえません。水槽の中にいたんです。誰かが故意に出さない限り、出てこれません。犯人は、私を脅迫するためにありとあらゆることを試したんです。ネズミの死骸、そして私の大切なものを、じんちゃんに手を出した。私の部屋の血痕は、男がじんちゃんを水槽から出した時に噛まれたんです」

「犯人に手袋の着用はなかった。計画はしていなかった……わけはないですね。ネズミの死骸もサインペンも持参ですからね。忘れたのかな?」

「わかりません。報告ではベランダの窓の指紋は拭き取られていたと」

 ミルクティーが来て、雅季は口を閉じた。店員が行ってしまっても、雅季は手をつけようとしない。

「とにかく、飲んで」

 久賀の言葉に雅季は素直に従った。砂糖を入れて、カップに軽く口をつけて熱さを確かめると、ほとんど一気に飲み干した。カップをソーサーに戻し、ふう、と息をつく。

 久賀もゆっくり半分ほど紅茶を飲み、雅季の様子を伺った。心持ち、頰の血色が良くなった気がする。

「じんちゃんのくちばしに、血が付着していました」

「え?」

「獣医さんが、くちばしは負傷していないから、噛まれた相手の血でしょう、って。ガーゼで拭き取って、それを絹田さんが署に持って行ったんです」

「つまり、そのDNAと被害者の体に残された体液が一致すれば……」

 雅季はしっかり頷いた。

「信じられないな……じんちゃんが、我々に協力してくれたみたいですね」

 久賀が感慨深げに漏らすと、雅季の眼差しが鋭くなった。

「協力なんて、してくれなくていいんです! 私が、関係のないじんちゃんを巻き込んでしまったんです。私、じんちゃんを守れなかったんです。私のせいで……」

「違いますよ、雅季さんのせいじゃない。悪いのは全て犯人です」

 久賀は、テーブルの上で強く握られた雅季の左手をそっと包んだ。雅季は逃げない。久賀は彼女の視線を捉えたまま、続けた。

「勝手に部屋に侵入して、あなたの生活を脅かし、じんちゃんまで傷つけた。犯人が、全ての罪を負うべきです。あなたじゃない」

 雅季の目に涙が溢れる。 

「私、外されますよね」

「そうですね」

 それはさっきから久賀も考えていたことだった。いや、できれば外れて欲しいと思っていた。もし、今夜採取したDNAの結果が殺人犯のものと一致することがあれば、なおさらだ。

「実は、始関係長から、私からもそう伝えるように電話で言われました。まあ、あの人は私情が八割という感じですけど。雅季さんのこととなると特に」

 自分のことは棚に上げ、つい本音が口をついた。だが、雅季は眉間にしわを寄せた。

「私情? つまり始関さんがわざわざ久賀さんをよこしたのは、間接的に通達するためだったんですね。私が従わないと思って」

「いや、そうではないと思いますよ」

 そう答えつつも、久賀は始関の魂胆が雅季に見透かされているのがおかしかった。雅季はカップに目を落とし、指先で持ち手を上下になぞり始めた。

「でも……、これは私の事件です。私は刑事で、今や被害者でもあります。なのに、やっと相手の動きが見えて来たのに、外されて、黙って見ているだなんて」

「他の捜査員をもっと信頼すればいいと思います」

 自分を含めて。と言いたかったが、抑えた。

「もちろん、していますよ。警察は団結が第一ですから。でも……香村一課長が……」

 雅季がやっと顔を上げたと思ったが、すぐに視線を泳がせた。するりと久賀の手の下から彼女の手が退く。

「何を考えているのかよくわからないんです。本部の手柄にするつもりなのか、情報を共有するでもなし、さほど全面的に協力してくれる気がしないんです。一課長は一課長の、幹部との連帯などがあるのかもしれませんが……」

 なんだか歯切れの悪い口調だ。雅季は話すことを慎重に選んでいるように見えた。

「久賀さんはどう思います?」

 ふと、探るような上目づかいに鼓動が乱される。久賀はミルクティーを飲んで気持ちを落ち着かせた。

「正直、そちらの関係はわかりませんよ。私が頻繁に雅季さんと連絡を取っているのを良しとしていないのは確実ですね。ただ、香村さんがどう思っているかわかりません。須藤仁美の件と、雅季さんの件」

 久賀は声のトーンを下げた。

「同一犯の気もしますし、別件の可能性も捨てきれない。まだ結論を出すには早いと思います。きっと犯人は、我々の手際の悪さを見て喜んでいるでしょうね」

「私を外したことも」

 それに関しては、雅季は久賀が思ったよりも根に持っているようだ。

「そうする以外仕方がないのは、雅季さんも承知でしょう」

 雅季は大きくため息をついた。

「それで始関さん、私が今夜はどこで寝ればいいか、言ってましたか?」

 久賀が答えないでいると、雅季はすぐに悟った。

「仮眠室に逆戻りですね」

「今度は護衛がつくらしいですよ」

 雅季の目が見開いた。これほど長く久賀と視線を合わせたのは、今夜がこのとき初めてだった。ふっと、雅季の口元が緩んだ。

「監視、ですね。護衛というより。こんなことになってしまって、逆上した私が勝手な行動を取らないための」

「我々はさすがに、雅季さんが事件解決まで大人しく待っているタイプではないことを、承知ですからね」

「それは偏見です」

「私はこの決定に直接関与してませんよ。でも、どんな方法にせよ、雅季さんの保身には賛成です」

「私ばかりが、守られている……」

 雅季は肩を落とした。

「いえ、最終兵器ですよ。皆、どこで雅季さんを使おうか、今から考えるでしょう。だから、後衛にいるときこそ、雅季さんの闘い方で闘ってください」

 雅季はおずおずと視線を上げた。久賀は微笑した。

「とにかく、何か食べてください。この、『夏バテ撃退!必勝カツサンド』、シェアしませんか。私も夕食食べ損ねたので」

 久賀は脇の卓上ポップを指した。雅季が素直に同意すると、久賀はサンドイッチと新たにミルクティーをオーダーした。

「じんちゃん、大丈夫ですよね……」

 カツサンドをふた切れ、添えてあったピクルスも綺麗に食べ、雅季が言った。

「もちろんです」

「なんでそんな確信持てるんですか」

「雅季さんがあの事件の後、引っ越したとき……あの時からずっとまた会えると、自分はあなたに会うと決めたからです。必ず探し出すと」

 雅季の顔から苦笑が消えた。

「結果、こうして俺は雅季さんと一緒にいる。決めたら、そうなるんです。だから、じんちゃんも絶対に大丈夫。俺が今そう決めました」

「久賀さん……、あの……」

 雅季が言いかけた時、トートバッグの中で携帯電話が鳴った。それを耳に当てた雅季の顔に緊張が浮かぶ。

「篠塚です。えっ、はい。すぐに向かいます」

 スマホをバッグにしまいながら、雅季は席をすでに腰を浮かせていた。

「動きがありました。このまま署に行きます」

 そう言ってレジへ向かう雅季の後を、久賀も慌てて追った。久賀が清算し、店を出たところで雅季がアプリを使ってタクシーを呼んだ。

「署に、若い女性が来て捜索願を要請したそうです。同棲中の彼氏と三日間連絡が取れないと。スマホも不通だそうです」

「単に遊び歩いているだけでは? この事件と直結するには早すぎますよ」

「でも、彼女が心配していると思うなら連絡くらいしませんか」

「しますね」

 久賀は即答した。

「ああ、すると他の女性が一緒という可能性が……」

「わかりませんが、とにかく嫌な予感がします。署に行けばもっと分かると思いますけど」

 すぐにタクシーが見え、雅季は手を上げて合図をした。

「私も行きます」

 雅季に続いて久賀も乗り込むと、雅季は何か言いたそうに口を開いたが、素早く久賀は行き先を告げた。

「先に言っておきますが、私、後衛に引っ込むと約束していませんからね」

 正面を睨んだままの雅季の横顔を見ながら、久賀はため息をついた。

「説得失敗ですか。始関さんになんと言われるか……」

「それなら、わざわざ叱られに来なくてもいいじゃないですか」

 久賀は雅季の膝の上の手に自分のを重ね、握った。

「一体誰のせいだと思っているんですか」

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