第20話


 香村は、鳴海東署の最寄り駅前のビジネスホテルに滞在していた。

 雅季は香村とともに駅まで来ると、別れ際にもう一度礼を言った。

「鑑定の件、ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」

 一礼し、改札へ向かおうとした雅季を、香村は呼び止めた。

「腹、減ってないか?」

 署を出た時には九時を過ぎていた。そう訊かれれば空腹である。雅季が答えに迷っていると、香村は重ねた。

「この辺は詳しくないから、どこか食事するところを教えてくれないか。ついでだし、食べるなら一人よりは二人がいい」

 そこまで言われると、断る理由はない。

「本当に、普通のご飯屋さんですけど」

 念を押して、雅季は駅の裏口から徒歩五分ほどの居酒屋に連れて行った。常連と談笑していた料理人と女性が、カウンターから揃って二人に挨拶をした。

「奥へどうぞー」

 店のエプロンをした学生に、テーブル席へ案内される。

「ここ、ご夫婦でやっているんですよ。駅の表口の方も食べる場所はあるんですけど、そっちはうちの署の人がいたりするので。裏口は気持ち遠いので、あまり皆来ないんです」

「俺に気を遣ってくれたのか」

「あ、いえ、……はい、ええと……」

「まあ、署の奴らも俺がいたら飯も不味くなるだろうしな」

「いえ、そんな」 

 香村は鳥南蛮定食、雅季は鯵のフライ定食(ひじき、味噌汁おしんこ付き)で、ウーロンハイを二つ頼んだ。

 最初、雅季は香村と事件以外に何を話せばいいか内心困惑していた。

 だが、香村には、雅季が本庁勤めの時の上司や同僚の何人かを知っていたし、彼らの近況や、街の変化などに話が及ぶと、全く話のタネに困ることはなかった。

「え、篠塚君もあのラーメン屋知ってるのか? あそこのチャーシューは別格でいつも追加する。翌日の筋トレのメニューも追加になるけど」

「ジムに行かれるんですか。私はもっぱら宅トレです」

「この仕事は、体力があるに越したことはないからな」

 相手の相槌も自然で、雅季が気まずくなることはない。

 もしかしたら、キャリアという肩書きを外してみれば、始関と並ぶ理想の上司といえるのではないか。——いや、肩書を外したら上司にはならないか。

 もちろん、事件のことには一切触れず、箸を動かしながら署の日常など話していると、食事を終える頃には、雅季の緊張はすっかり解けていた。

 特にDNA鑑定の件で香村が自分の味方についたことで、雅季の中で彼に対する好感と尊敬の念が高まっていたこともある。

(それにしても、久賀さんはあそこまで私を否定して……)

 久賀の言葉を思い出し、胸に暗雲が広がる。

 外部の検事より、警察の強い絆を改めて感じさせられた瞬間だった。

 店を出てホテルに向かい始めた矢先、香村はおもむろに言った。

「実は、君に見せたい資料があるんだ。過去の一連の事件についてまとめた一部だが。ちょうどいい、一緒に部屋に来てくれないか?」

 雅季は一瞬身を強張らせた。悪い癖だ。相手は上司なのに。

「それは明日、署に持って来ていただけないんですか」

 香村は困ったように眉を下げた。

「これは例の、極秘の件だ。漏洩のリスクは極力避けたい」

 確かに。万万が一、誰かに見られないとも限らない。

 (でも、上司とはいえ男性と部屋で二人きりになるのは、……正直怖い)

 気持ちは強く抵抗しているが、雅季は過去の資料が、事件解決の大きなヒントにもなるかもしれないと己に言い聞かせた。

 それに、香村は自分と同じ事件を追う警察官だ。

「時間は取らせないよ」

 ホテルの玄関前で、香村は再度雅季を促した。

「はい。では、ご一緒します」


 香村の部屋はツインで、ビジネスホテルにしては広めだった。

 壁のフラットテレビの脇にデスクもある。部屋に入った香村は持っていたブリーフケースをデスクに置くと、ジャケットを脱いで椅子にかけた。

「何か飲むか?」

 冷蔵庫を開け、雅季に訊く。雅季はまだドアの近くに立ったまま、首を横に振った。

 (やっぱり無理……)

 心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなっているのがわかる。

 たとえ上司であれ、刑事であれ、異性はまだ久賀以外受け付けられないのだ。

 早くここから逃げたい。そればかりが頭に渦巻いている。

「いえ、それより早く資料の方を……」

 声が震えないように、なんとか言った。

「ああ、それだけど。まあ、座りなさい。資料の他にも、二人だけで話したいこともあったんだ」

 香村は二つあるベッドの端に腰掛け、雅季に椅子を勧めた。

 仕方なく、雅季は向かい合うように座った。

「お話とは……」

 さらに高まる動悸を鎮めるように、膝の上で重ねた手に力を込めた。

「篠塚くん、私の下で働かないか」

「え?」

「本部に来ないか、と言っている。つまり昇進だよ。君の働きぶりを見て思うところがあった」

「そんな……」

 寝耳に水とはまさにこのこと。雅季は困惑した。

(なぜ、いきなり?)

「『そんな』、か。嬉しくないのか? 普通なら一も二もなく飛びつくぞ?」

「あの、急なお話に驚いて……。それは、この事件が解決するまで、時間をいただけますか?」

「それは残念だな。即決かと思っていたが」

 相手がゆるりと頭を振り、すっと立ち上がると雅季の正面に立つ。

 ——近い。

 おもむろに、相手の右手が雅季の肩に置かれた。それだけで雅季の体は、金縛りにあったように強張った。 

「お声をかけてくださって嬉しいですが、今は事件のことしか考えられません。ごめんなさい。それで、資料の方は……」 

(怖い。久賀さん……)

 上司に答えながらも、頭では必死に久賀へ助けを求めていた。

 香村はやや上体をかがめ、雅季に視線を合わせてくる。

「もしかして、俺は君に信頼されていないのかな?」

 恐怖が胃の方からせり上がってくる。何か返そうと思うが、喉が詰まって声が出ない。 

 香村の顔がゆっくりと近づいてくる。雅季はその瞳にはっきりと男の欲望を捉えた。いつのまにか、香村の左手も肩に置かれていた。

(逃げられない)

「君は有能だ。機転も利く。常に疑問を持ち、自分が納得するまで調査する。仮説のセンスもいい……でも、君の本当にスキルはそれだけじゃないはずだ」

 香村は両手で雅季の肩を円を描くようにゆっくり撫でた。布の上から伝わるその感触に、鳥肌が立つと同時に、悪寒が走る。

「俺は君をもっと知りたい。……知るべきだと思う」

 信じられないが、彼は自分の体を求めている。部下ではなく、女として見ている。雅季は絶望した。

 資料は罠だったのだと、瞬時に悟った。

 やはり自分は、ここに来るべきではなかったのだ。あの時の直感に、警告に従うべきだった。

 肩を撫で回していた手が止まり、ぐっと手に力がこもる。

 ——久賀さん、久賀さん……!

 心の中で、雅季は叫んでいた。

 相手の顔が間近に迫り、口角がふっと楽しげに歪んだ。それを認めた雅季が固く目を閉じたその時、スーツのポケットで携帯電話が鳴った。

 金縛りが一気に解けた。相手から顔を背け、ポケットに素早く手を入れる。

「出るな」

 香村が命じるとともに、電話を持った手首を強く掴まれた。

 ——痛い。

 手首から、相手の憤りが伝わる。だが雅季は上司の言葉を無視した。

 液晶板には久賀の名が光っている。雅季が無理やり携帯を耳に当てると、すぐに手は離れた。香村が身を起こす。

「雅季さん? 今、大丈夫ですか?」

「久賀さん……ええ、大丈夫です……」

 不思議と声が自然に出た。頭上で香村の舌打ちが聞こえる。

『大丈夫ですか』

 久賀の、電話のマナーとして当たり前の言葉が、まるで自分を守ってくれたかのように響いた。今にも全身の力が抜けそうだった。

 香村が雅季から離れ、再びベッドにどさりと腰掛けた。横目でそれを確認すると、彼の恨めしげな眼差しが自分を見ていた。 

 この電話がなければ、大丈夫じゃなかった。でも、今はもう大丈夫。

「あの、大丈夫ですが、ちょっと取り込み中なので掛け直します。数分で終わります」

 これで、すぐに出て行く意思表示は香村にも伝わったはずだ。

「大丈夫って、取り込み中なら大丈夫じゃないじゃないですか。矛盾してますよ。あ、もしかして、怒っています? さっきの……、吸い殻の件。怒りますよね、当然」

「怒っていませんよ。ただ、今はちょっと……」

 電話の向こうで、久賀は推し量るように一瞬沈黙した。

「もう一度、宮尾沙織について話したいんです。香村さん抜きで」

 ドキッと鼓動が跳ね、一瞬香村を見た。彼の表情は依然固く、鋭い視線を雅季に向けている。

「はい、後で折り返し電話しますから……」

「電話ではなく、会って話したいんです。これは、その確認だけですから。明日にでも?」

「わかりました」

「今、まだ仕事中ですか。あまり根を詰めないでくださいね」

「ありがとうございます。でも、もうすぐ終わります」

 最後の言葉は語気を強めた。久賀は「では明日」と電話を切った。

 雅季はほっと小さく息をつき、携帯電話をポケットにしまった。ほんの短時間の会話だったが、自分が戻ってきた気がした。

 もう息苦しさはないが、まだ恐怖は残っている。

 香村と視線を合わせられない。なんとか気力を集めて立ち上がり、相手の方へ一礼をしてからドアに向かった。

 床に置いたバッグを拾ってドアを開きかけた時、「諦めないぞ。俺と本部に来い」香村の低い声を背で聞いた。

 

  玄関のドアを閉めた雅季は、その場でずるずるっと膝からくずおれた。

 ドアに体を預けて、呼吸を整える。帰宅途中の記憶がないほど、混乱していた。

 一体何が起こったのだろう。

 さっきの出来事は現実だったのだろうか。現実だとは、思いたくない。

 ホテルの部屋、照明、間近に迫った香村の息遣い、肩に置かれた手の熱さ、掴まれた手首の痛み。それらの感覚がまだ生々しく記憶にある。

『俺と本部に来い』

 その言葉は本当だったのだろうか。それは誘うだけの口実で、目的は違うものだったのではないのか。 

 いくつもの思考、恐怖、混乱、疑問が絡まり、うまく頭が働かない。

 何がどうなったのか、一体なんだったのか。

 香村に? 香村は? 香村が? 私を?

 私を、本部に? いつからそれを? 本当に信じていいのか?

 雅季は両手を胸の前でクロスさせ、両肩を抱いた。あのぐっと肩を掴まれた感触が蘇り、額に汗がにじむ。香村のあの気迫には、もっと別のただならぬものを感じた。

 それにしても、あのタイミングで久賀の電話がなかったら……。

 その先の想像を遮るように、雅季は声を絞り出した。

「シャワー、浴びなきゃ……」

 雅季はのろのろと体を起こすと、玄関の明かりをつけてそのまま浴室に直行した。

 温かい湯が、体の緊張を少しずつほぐしていく。

 掴まれた腕や、肩に乗せられた手の感触を全て消すように、雅季は念入りに体を洗った。普段よりだいぶ時間をかけてシャワーを浴びた後、新しいパジャマに着替え、脱いだスーツとバッグを抱えてリビングのドアを開けた。

 その時、微かな風を頬に感じ、雅季はその場で足を止めた。

 リビングの向こうに見える、自室のドアが少し開いている。

(窓を閉め忘れた?)

 不意に、車の落書きが脳裏をよぎった。

 温まった体に、ぞくりと悪寒が走った。壁のスイッチを探る指が震えている。パッと明かりが点いた。煌々と照らされる室内は、朝出た時と変わりない。

「……バカみたい」

 ほっと息を吐き、後ろ手にドアを閉めた。リビングのソファに荷物を置き、キッチンへ向かう。変な緊張で喉がカラカラだった。ふと、キッチンカウンターの横に何かが落ちているのに目が止まった。

 ゆっくりと近づいて、それが何かを認めたとき、雅季は声にならない悲鳴をあげた。


**


 久賀は、自分が今立っているキッチンが、今朝雅季と食事をした場所だという事実に戸惑っていた。あの穏やかな朝が、まるで遠い昔のことのように感じられる。今、自分が立っているこの場所が、同じキッチンだとは思いたくなかった。何かの間違いであって欲しかった。冷蔵庫とシンクの間の白い壁には、乱雑に書かれた『お前も同じ目にあいたいか』という文字が、久賀の目の高さより少し低い位置に見えた。床には、二匹のハツカネズミの死骸が転がっていた。どちらも首があり得ない方向にねじれている。

 鑑識の調査が進む中、現場の2LDKは捜査員でいっぱいだった。久賀は小さな居間に目を向けた。そこには、毛布に包まれた雅季が、部屋の隅で壁にもたれかかるようにして座っていた。彼女の横顔は青白く、唇は一文字に結ばれて異様に赤い。現役の刑事であっても、こんなことが起これば、ショックを受けるのは無理もないだろう。久賀は静かに雅季に近づき、隣に膝をついた。毛布越しに肩に手を置くと、彼女の体の震えが伝わってきた。

「大丈夫ですか」

 大丈夫なわけはない。だが、他に言葉が見つからなかった。雅季は久賀を見ようともしない。ただ、ほんの少し身じろぎをした。

「どう思います」

 ほとんどかすれ声で聞きづらかったが、雅季は久賀にそう尋ねた。

 久賀は束の間、動き回っている鑑識になんとなく目をやった。その間に、正直に自分の考えを伝えるか悩んだが、雅季に向き直り「この間のジョギングの時」と切り出した。

「それが何か?」

「私にまだ何か、隠してますよね」

 雅季の正気の抜けた横顔が固まった。そして、もぞもぞと、まるで自分を守るように毛布を胸の前でかきよせる。

「人にぶつかって、転んだんです。視界が悪かったので、気づかなかった私が悪いんです」 

 まだ、全てじゃない。

「それで?」

「ぶつかって、私が倒れ時、彼は私を見下ろしていました。ほんのわずかな間ですけど」

「相手の顔を見ましたか? 男というのは確かなんですね」

 雅季は最初に首を横に振り、そしてしっかり頷いた。

「その後、男は逃げたんですね」

 雅季は力なくうなだれた。

「なぜそれを、早く話してくれなかったんです」

 久賀は非難に聞こえないよう、やり場のない怒りを抑えながら言った。

「そいつは、車の件と同一人物に間違いないですよ」

「車のことは……大したことではないと思っていました。何かの腹いせの、愉快犯。久賀さんたちが大袈裟にして、私の行動を牽制しているとばかり……」

「『たち?』」

「始関さんと」

 おそらく、普段ならそれは言い訳だと思うところだが、この状況でそうは考えられなかった。

 そんな余裕は、今の雅季から微塵も感じられない。

「そういえば、篠塚は?」

 久賀は、雅季と同居している妹、梓の存在を思い出した。つい呼び捨てにしてしまうのは、梓が高校の後輩だからだった。

「不幸中の幸い、お盆で一足早く実家に帰ったんです。連絡はしておきました。しばらく帰るなって。あの……」

 雅季は初めて、久賀の方へ向いた。恐怖と絶望が滲む眼差しが久賀の胸を抉る。ここが現場でなかったら、人目を憚らずに雅季を抱きしめていただろう。

 だが、その代わりに久賀は毛布の上から彼女の背中をそっと撫でた。

「彼は、ここにいたんです。きっと……私……帰ってすぐに、部屋に入る前にシャワーを浴びたんです。もしかしたら、その間もずっといたかも……」

 雅季はそこで声を詰まらせた。体の震えが増した。

 どんな慰めの言葉も浮かばなかった。

 ——犯人は、ベランダから窓の鍵を壊して侵入していた。部屋から持ち去られたものは、何もない。

 雅季は憔悴仕切っていた。久賀がこんな雅季を見るの初めてだった。

 どうして彼女がこんな目に。

 また、自分は彼女を守れなかったのか?

 強い自責の念に、久賀は奥歯を噛みしめた。

 その時、外から「お疲れ様です」と言う声がいくつか重なったのに気づくと同時に、「篠塚くんは? 無事なんだな?」と、始関が靴音を響かせながら部屋に入ってきた。

 また長身の男が一人増えたことで、室内がさらに狭く感じられた。

 始関は壁の落書きに気がつくと、「ファック」と吐き捨てた。

 本場アメリカ仕込みの発音に、作業中の捜査員全員がはっと顔を上げる。だが当の本人は部屋を見回し、すぐに雅季の元へ来た。

 雅季の正面に、久賀と同様膝をついて部下の顔を覗き込む。

「君はすぐにここを離れろ。署に戻って係長室に直行。今夜から君はそこから出てはいけない。マットレスは至急レンタルを手配しておく」

「マットレスって……、係長室で寝起きするってことですか」

 久賀は思わず口を挟んだ。

「一番安全だろう。ホテルなんか、意外と出入りが自由だぞ。それに篠塚くんに護衛をつけられるほど、人員に余裕はない」

 始関が真顔で答えた。

「いや、でも……」

 雅季が久賀の腕に触れ、久賀の言葉が途切れた。

「始関さん、ありがとうございます。でも、マットレスは不要です。仮眠室で十分です。今から移動します。もう、これ以上ここにいるのは……さすがに」

「そりゃそうだ。さあ、行こう。証言は終わったな?」

 雅季は頷いた。

「あ、着替えとか、用意させてください。すぐ済みます」

 始関は一瞬躊躇した。まだ部屋の捜査は終わっていないからだ。だが、雅季がふらりと立ち上がると、彼はそれを止めようとはしなかった。

 久賀も何もいえずに、自室に入っていく雅季の小さな背中をただ見つめていた。


 

 日曜の午後 鳴海東署の第一会議室には久賀の他に始関、新楽、鑑識の安里、青鞍そして香村が集合していた。

 この事件の扱いを決定するためだ。

 新楽も同席しているのは、久賀の担当している事件の進捗を知るためという建前で、本音は部下の監視というところだろう。

 それだけではなさそうだが、その腹内を読めるほど久賀は新楽を知らなかった。

 会議机には雅季の部屋の写真と、落書きされた車の写真が広げられている。

 雅季は硬い表情でそれらをじっと見つめ、その横で始関は皆に事件の概要を伝えていた。

 ——雅季を脅迫する人物に、雅季本人がジョギング中に接触しただろうこと、その男(おそらく)は雅季の部屋に侵入し、室内の壁に脅迫ととられる書き置きを残していった同一人物の可能性が非常に高い——

 だが、マンションの入り口の防犯カメラは、不審な人物を捉えていなかったし、他のカメラは雅季のベランダをカバーしてはいなかった。住人も異変を感じた様子はなく、決定的な証拠がないため、それは仮説にとどまっていた。

 しかし、その人物が須田仁美を殺害した犯人だと、ここにいる誰もが疑っているのは確かだった。

 そして、犯人は雅季が殺人事件の担当者ということを知っている。犯人は、雅季が自分を追い詰めつつあるのを知り、焦っているのだ。

 脅迫は単なる見せかけの脅しか、本当に雅季の命を狙っているかはまだわからない。だが、殺人犯であるのなら、可能性としては十分にある。

 重い沈黙を最初に破ったのは、雅季だった。

「もし犯人が私を殺すつもりだったなら、昨夜可能だったはずです。隙もチャンスも十分にありました」

 写真から顔を上げると、皆一瞬雅季から視線を外らせた。

「犯人は、警察をバカにしています。室内にまで侵入する大胆不敵な行動は、リスクなど恐れていません。だからこそ、それを我々が逆手に取らない手はないと思います」

「逆手?」

 新楽は眉をひそめた。

「どういう意味ですか」

 声音に普段の棘がないだけに、今日の新楽は心なしか雅季に理解があるように見えた。この状況にさすがに同情しているのだろうか。

「おそらく、相手は今後も私に接触を図ろうとするはずです。その機会を敢えて与えます」

 久賀は一瞬耳を疑った。

「それは得策とは思えません」

 新楽が、久賀より早くそれを却下した。

「むしろ、篠塚刑事はこの件から外れるべきです。そんな捜査は、事態を混乱させるだけです」

 雅季の、新楽に向いた顔が険しい。

「いえ、誘い出せば必ず食いつきます。それも、私の仕事です」

「仕事? ですから、あなたの仕事はこの事件から降りることだと言っているんです」

 新楽が語気を強めると、驚くことに雅季が微笑した。

 久賀は、昨夜の事件から初めて見る笑顔に、あっけにとられた。

「つまり、それが犯人の狙いです。私が手を引いたと相手が知れば、彼は安心して再び潜りますよ。それも今度はかなり深く」

「すると、篠塚刑事はしばらくこのまま自分を餌に、犯人をおびき寄せたいということか」

 香村は二人の意見の狭間で逡巡しているようだった。

「いや、それはだめでしょう」

 久賀と始関、二人は同時に声をあげた。

 目を丸くした雅季の顔がまず久賀に、そして隣の始関に向けられた。

「なぜですか」

 机上に置かれた雅季の拳が、強く握られる。

「大事な部下を、狂った殺人犯に進んで『はい、どうぞ』と差し出すわけがあるか」

 始関は歯の間から、言葉を絞り出すように言った。

 おそらく、彼はできることならこんな会議はすっ飛ばして、この事件にさっさと着手したいのだろう。犯人が浮上した今、一秒も無駄にしたくないはずだ。

「でも、ホシをあげるのにこれ以上の手はありません。たとえ、二つの別の事件だとしても」

 雅季の声は怖いほど冷静だった。落ち着いている。

「お願いです。私にホシをあげさせてください。そのためなら、どんな危険にも身を置きます」

「だめだ。リスクが高すぎる。万が一のことがあったら……」

「係長、そうならないために綿密な準備をします。この件は私に任せてください」

 雅季は始関に必死で訴えた。

「そんな見え透いた手に乗るほど、相手はバカだとは思わんが」

 香村は小さく吐き捨てた。

「いえ、ホシは自分が常に優位だと誇示するタイプの人間です。落書きの言葉からもそう読み取れます。私がそれを認めるまで、つまり私がこの事件を降りたのがわかるまで、絶対に絡んできます」

「君が今、あの脅迫の後で無防備な行動をとったら、どんなバカなやつでも罠だと疑うのが普通だろう。時間と労力の無駄だ。失敗も確実だ」

 香村の、雅季への辛辣な態度に久賀は違和感を覚えた。

 先日までは雅季の側だったのに、なぜ態度が豹変したのだろう。

「『どんなバカなやつ』なら、そうかもしれません。でも、ホシは私が臆さないことで、彼の挑戦を受けたと思うでしょう。おそらく、近いうちにまた部屋に来そうな気がします。自分に屈しない相手なら、殺すことも厭わない。あのネズミと壁の落書きはただの脅迫ではないでしょう。殺しは一度でも二度でも同じ、くらいに考えてるかもしれません」 

「おそらく……、しかし、おそらく、その可能性もない」

 香村は、話にならないというように首を振った。

「では、他に方法がありますか?」

 雅季はさらに食いつく。

「それに、いつまでも仮眠室で寝るわけにもいきませんし」

「いや、そりゃ嫌だよね」

 始関がうんうん、と頷いた。

「なんなら、この件が片付くまでうちにいても……」

「いえ、ですから自分の部屋に戻ります。帰らなきゃいけないんです」

 雅季は、始関の冗談か本気かわからぬ提案を一蹴した。

「なぜ?」

 新楽は無表情のまま尋ねた。

「じんちゃんが……」

「じんちゃん? 妹さん? それならすでに実家……」

「あ、カメだよね。リクガメの」

 始関の明るい声が、新楽の言葉を遮った。

「カメ? カメですって? じょ、冗談ですよね?」

 新楽の赤い唇が、呆れたように歪む。

「冗談じゃありません。いなくなったんです。そう報告がありました。水槽にいたはずのカメが消えたんです」

 雅季が必死で込み上げる怒りと闘っているのは、久賀の目には瞭然だった。

 彼女にとって、じんちゃんは家族同然、大切な存在なのだ。

「水槽の近くの床に二点、小さな血痕も発見されています。まだはっきりしませんが、じんちゃんに何かあったのは事実です。早く探さないと……」

「カメ一匹逃げたところで、どうだというんだ?」

 香村がため息をついた。

「え、何をおっしゃいますか、香村部長」

 目を輝かせた始関が、身を乗り出した。

「ロシアリクガメですよ。外来種ですからね、野放しにしておくと生態系に影響が出ないとも言い切れないですよ。たかがカメ一匹と言いますけどね、この田舎でしょう。この辺りの沼にもまだカメ、いますしね。交配して変な雑種ができたら危険ですよ。すぐに捕獲すべきです」

 母が生物学者で、もともと生物学の道に進むつもりだった始関は、見かけによらずこの田舎街の環境に精通しているようだった。

「カメごときに割く人員はないぞ。隣人のボランティアでも募ればいいだろう。カメなんて鈍いんだから、まだその辺にいるに決まってる。怪我をしたなら尚更」

「一課長。カメ、速いですよ」

 始関は即否定した。

「じゃ、自分、探しましょうか」

 初めて意見した青鞍に、全員の視線が集中した。

「無理です。人見知り激しいので、噛みつきます。本気で噛まれたら大怪我だってしますよ」

「え、それ普通に嫌ですね……」

 青鞍は、挙手していた手を愛想笑いとともに下ろした。

 久賀は、雅季と共有する時間の中で、普段は温和だが、譲らないところは頑として譲らない性格は熟知していたので、この場は静観するにとどまっていた。

 始関もそれは同じようで、腕を組んでしばし何か思案していたが、ふと顔を上げると隣の雅季を見据えた。

「部下の保身は僕の仕事でもある。君を危険に晒すとわかっていて、勝手な行動は許可しない」

 その厳しい声音に、雅季の横顔が曇る。

「ここにずっと監禁なんて……」

「あり得るよ。上の指示に従わないのなら」

 始関はきっぱりと言った。部屋に重い沈黙が落ちる。

 だが、当然だ。警察は完全な縦社会なのだ。筋が通っていてもいなくても、上司の意見は絶対だ。

「そんな……」

「だが、さっき言っていた君の『綿密な準備』次第かな。案があるなら、聞こう」

 新楽と香村が何か言いたそうに口を開きかけたが、始関の鋭い一瞥で、再び口を結んだ。

 始関には、不思議と人をコントロールする力がある。久賀は悔しいが、妙に感心させられた。

「さあ」と始関に促され、雅季は椅子の上で姿勢を正す。

「はい。しばらく青鞍さんと絹田に護衛をお願いしたいです。絹田さんは私の部屋で。青鞍さんは一階の駐車場の植え込みの陰で張り込んでいただいて……」

「ちょっと、そのおとり捜査、今思いついたんじゃないよね?」

 雅季は始関に微笑した。

「仮眠室で横になって、ふと閃いたんです。あの部屋、考えるのにいいかもしれません」

 新楽が顔に幻滅を露わに久賀に目配せをしたが、久賀は手帳を開きながら、それをスルーした。

   

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る