第19話


 捜査会議が終わると、久賀は始関に検察の捜査に雅季の同伴が必要な旨を、自ら伝えた。

 始関が、隣で聞いていた香村に窺うような視線を向ける。香村は渋い顔をしながらも、承諾した。

 ただでさえ捜査は足踏み状態なのだ。この状況で、検察に関与されても仕方ないと諦めているのだろう。

 久賀と雅季が支援センターに着いたのは午前十時。

 日曜日なので、ほとんどの子供たちは外出しているかもしれないという懸念があったが、建物に隣接する運動場では、少年三人がバスケットボールをしていた。

 近づく久賀と雅季を見て、パスの手が止まる。

「この間は、君たちに嫌な思いをさせて、ごめんなさい」

 緊張を感じたのだろう、雅季がすぐに謝った。

 運がいい。どうやら雅季は彼らと顔見知りで、先日と同じ面子のようだ。

 だが、彼らの硬い表情は軟化しない。雅季は少年らを警戒させないよう、距離を置いて足を止めた。

「しつこい、って思っているかもしれないけれど、どうしてももう一度話を聞きたいの。情報が少なすぎて、捜査が進まなくて」

 素直に手の内を明かすやり方は、雅季らしいといえば雅季らしい。

 子供相手に刑事のプライドを捨て、なりふり構わずぶつかっていく彼女の姿勢は、事件解決への強い執着を久賀に十分伝えていた。

「ほんと、最近のケーサツってダメじゃん。だらしねー」

 一番背の高い少年が薄く笑った。

「この前のあいつも、ケーサツってよりヤクザって感じだったし。今日来てないのって、やっぱり担当外されたとか? だって、善良な一般市民に、あれはなかったもんなあ」

 くすくすと隣の少年と笑い合う。

「そうじゃないんだけど、今日は別の捜査をしていて。あの刑事さんは私よりもずっと優秀なの。だから、この間はつい熱が入りすぎてしまって。本当に君たちには失礼なことをしてごめんなさい」

 なぜ、雅季は香村を庇うのだろう。釈然としない久賀の横で、雅季はそれぞれに目をやり、続けた。

「だから、お願い。須田さんについて何か知ってること、どんなことでもいいから話してくれませんか。実は……」

 急に声のトーンが沈んだのに、久賀は気がついた。

「実は、私もね、子供の時に事件の被害者になったことがあるの」

 久賀は息を呑んだ。彼女の横顔は厳しく、唇が微かに震えていた。

 少年達も、雅季の突然の告白に困惑し、お互いに顔を見合わせている。

「だから、私は須田さんの気持ちがよくわかるの。すごく怖かったんだろうなって。両親やお兄さん、みんなに助けを求めたんだろうなって。私もそうだったから。でも、だからこそ、その声を私が聞いてあげられなかったことがすごく悔しいの。だから、私は絶対に犯人を許さない。絶対に捕まえて、償いをさせる。須田さんのためにも、そして、これ以上被害が増えないためにも。だから、お願い」

 束の間の沈黙の後、ほうっと少年が息を吐いた。

「いいよ」

 緊張が嘘のように解け、少年たちは雅季を囲むようにして堰を切ったように須田仁美のことについて話し始めた。

 好きなマンガ、動画、音楽、ゲーム、お菓子……。 

 だが、捜査の進展につながるような情報は残念ながら一つもなかった。それでも須田仁美がここで過ごした時間は、確かにあったのだと久賀は思った。

 車に戻り、しばらく二人は無言で座っていた。やがて、生暖かかったクーラーの風が涼しくなる。

 久賀は、さっきの雅季の告白に触れるべきか触れざるべきか、迷っていた。だが、それを避けて話しかけるのも不自然な気がする。そうして話の突破口を探していると、雅季が口火を切った。

「あんなことを言って、驚いたでしょう。子供の同情を誘って話を引き出したと思われても仕方ないですけど」

「同情を買うためだけにするようは話じゃありません。そうじゃないことは、彼らは十分わかっているでしょう。陳腐な誤魔化しが一番通用しないのがあれくらいの子供ですよ。雅季さんの真摯な気持ちが伝わったんでしょう」

 雅季は困ったように微笑した。泣き笑いのようにも見えた。

 そんなふうに見えるのは、自分が、さっき彼女が触れた彼女自身の事件の目撃者だからだろうか。

 久賀が小学生の時、マンションの窓から偶然見下ろしたあの異様な光景。

 隣接したビルとの狭い路地の奥で、男が少女の前にひざまづいていた。

 三階からでも、口にガムテープを貼られ、顔を恐怖に歪ませたその子が、同じマンションに住む子だとわかった。

 男の手が彼女の体を服の上から弄っている間、久賀もまるで少女の恐怖が移ったかのように、身動きもできなければ、声も出せないでいた。

 男は少女も、久賀も同時に犯していた。

 のどかな昼下がりだというのに、男の放つ闇が二人の子供をすっかり飲み込んでいた。男が少女のスカートを捲り上げた時、バイクの音が近づき、ちょうど路地の角で止まった。蕎麦屋の出前が帰ってきたのだろう。

 人の気配を感じたのか、男の動きが止まり、急に立ち上がったと思うと少女をそのままに、走り去っていった。

 久賀の記憶はここで消えている。

「久賀さんがいたから、あの子たちに話せたんだと思います。結局、事件につながるようなものは出てきませんでしたが」

 久賀が我に返ると、微笑する雅季がいた。

 久賀は胸が詰まる思いだった。

「私はまた、見ているだけでしたね。あの時のように」

「そんなことはないです。隣にいてくれたから……。あの、久賀さんには無駄なものを背負わせてしまって、申し訳ないと思っています」

 謝らないでくれ――。声をあげそうになるのを堪える。

「私はあなたがずっと苦しんでいる時、のうのうと生活していたんです。普通に学校に通い、友人と遊び、学び、大学を出て検事になった」

 確かに、久賀はあの事件後、篠塚一家がマンションを引っ越してからも、そのことを思い悩んでいた。

 少女を助けられなかったこと、口にすれば自分も加害者になりそうで、両親にも打ち明けられなかったこと。

 それがストレスで一時期は夜尿症になったこともある。目の前から突然消えた少女の記憶は、月日とともに薄れることもなく、ずっと彼女は久賀の心の中にいた。『普通の生活』は嘘だった。

 でも、彼女とともに苦しむことが、自分にできる罪滅ぼしだと思っていた。

 そんな久賀が私立高校の弓道部に所属していたとき、雅季の妹が入部してきたことは運命だと思った。

 後輩となった彼女から、何気なく家族の話を聞くうちに、雅季が警察官を志望していると知った。それで、自分は検事の道を選んだのだ。

 そして今、こうして彼女が隣にいることは、久賀にとって奇跡であるといっても過言ではなかった。しかも、赴任先の地検で。

 雅季は弱弱しくかぶりを振った。

「久賀さんも傷ついたはずです。ほんの子供だったんですから。だから、私はこれ以上久賀さんの重荷にはなりたくないんです」

「重荷だなんて……。むしろ」

「もう、私は大丈夫です。ああして、人に話せるくらいに」

 雅季は久賀を遮って言うと、まっすぐ彼を見据えた。

「だから、もう心配しないでください」

「篠塚さん……」

 雅季は、久賀の想いを知っている。

 前回、検事と刑事という異例のタッグで共同捜査に臨んだとき、彼は彼女に少年時の自分が彼女の事件の目撃者であったこと、そして、一人の女性としての雅季に寄せる特別な感情を告白していた。

『ずっとあなたを待っていたし、これからも待っています』と。

 雅季はそれを受け入れてくれたと、ずっと思っていた。

 だが、もう心配するなという。

 先日、カラオケボックスで始関を加えた場でも、おそらく自分を指す人物を「友人」だと、やたら強調していた。

 雅季の心が読めない。

 もしかして、他に気になる相手でもできたのだろうか。

 困惑している久賀に、雅季は念を押すようにしっかりと頷いた。

 その、吹っ切れたような相手の表情に、久賀の胸中は不安に揺れる。

「あの、それはどういう……」久賀が口を開きかけた時、建物の陰から少年がこちらに走ってくるのが見えた。

 雅季が窓を下ろすと、香村を批難した少年だった。彼は汗の浮かんだ額を手の甲で拭った。

「よかった。やっぱ、刑事さんには言わなきゃと思って」

 雅季が車に乗るよう勧めたが、少年は首を横に振った。

「ショートメール読んだでしょ? 調べろって」

「あれ。あなただったの?」

 雅季が思わず身を乗り出す。

「そう。俺、あの時見てたんだよ、自分の部屋から。涼介がリュック渡すの。あいつが部屋に戻ってきた時に話を全部聞いたんだ。で、刑事さんによく調べて欲しくて、名刺を奪って」

「結局、誤認逮捕になっちゃたけれど」

「俺、そういう意味じゃなかったんだ」

「なんですって!?」

「なんだって!?」 

 久賀と雅季の声が重なった。

「俺、実はあいつ……仁美のこと好きだったんだ。だから、普段からあいつに『もっとまともになれ』って忠告してたんだけど、あいつ『パパ活する』とか言いだして。そんなんじゃなくて他のバイトがあるだろって言っても聞かねーし、腹立ってそん時は喧嘩になったんだけど……で、じゃあ勝手にしろよ、で終わって」

 少年は戸惑うように一瞬目を伏せる。だがすぐに続けた。

「だけど、あいつがここに来なくなる割と前、『事務所でいいバイト紹介してもらった』って話してて。その後あんなことになっただろ。それとカンケーあるんじゃないかって気にしてたんだ」

 雅季が久賀に向き、彼は目で応えた。雅季は再び少年に向いた。

「バイトのこと、誰と話したって言ってた? それ所長?」

「いや。他の誰かだと思う」 

「私、あなたの話、信じるわよ。名前、教えてもらっていい?」

内野浩太うちの こうた

「内野君、話してくれて、ありがとう」

 少年が照れたように笑う。

「こんなキレーな刑事さんも色々苦労してきたっていうの、わかりみ深かったし、俺たち、普段から問題児扱いされてるからさ、まあ何言ってもまともに相手にされないだろうな、って警戒も強くなってて。でも、俺も犯人許せねーから。あいつが殺されるなんて、あいつじゃなくても、弱者を痛めつけるやつは、最低だ」

 気持ちが昂揚したのか、少年の目がきらきらと輝いてた。

「だから、ゼッテー捕まえてくれよ」

 少年は手を振り、走って行った。

「まさかそういうことだったとは」

 久賀はため息をついた。雅季は何かを思案するようにハンドルをじっと見つめていた。

「しかし、子供っていうのは。刑事に向かって『キレー』とか臆面もなく言えるもんなんですね」

 少年といえど、あの雅季に対して馴れ馴れしい態度は一瞬、久賀の気持ちを刺激した。

「でも……、あんな私の過去でも、役に立ったんですね」

 雅季がギアをバックに入れる手に、久賀は自分のを重ねた。視線が交錯する。

「どんな過去も、何一つ無駄になることはありませんよ」

 雅季ははにかみ、小さく頷いた。


  *


「それだけですか、収穫は。結構期待してたんですけどね」

 香村が体を椅子に沈ませた。

「これほど捜査がもたつくなんて、予想外でした」

 侮辱を隠そうともしない声音が、検事――部外者の自分への当てつけなのは、気のせいではないだろう。

 久賀は係長室の雅季の席にいた。

 雅季は久賀をそこに座らせ、その隣に持ってきたパイプ椅子に落ち着いている。

 机上のラップトップに目をやり、久賀は視界から香村を消した。

 香村は雅季の報告を、つまり内野少年の証言を全く信じていないようで、雅季が職員全員の聴取を提案すると、露骨に顔をしかめた。

「主要参考人については一通り済んだだろう? 対象職員に関してはあの日のアリバイも確かなんだし、また時間の無駄じゃないか? 誤認逮捕という失態を犯した上に、また捜査にグズグズ時間をかけて犯人を逃したら、警察の面目は丸つぶれだ。久賀検事もそう思いませんか」

 香村は白けた顔を久賀に向けた。久賀は、すでに目を通していたが、机上にあった報告書のファイルを取り、支援センターのページを繰った。

 確か、記憶には不審なところはなかったはずだ。だが、少年の言う通り、もっと何か調べるべきことがあるのではないか。久賀は内野少年が正しいことを、香村に信じさせたかった。 

「主要参考人……。もし、まだ職員全員に当たっていないのでしたら、徹底して取り調べてください」

 久賀がそれだけ言うと、香村の眉間の皺が深くなる。相手はじっと久賀を見据えていたが、薄笑いを浮かべた。

「それが、検事の指示なら我々は従うまでですよ。その件は篠塚を使ってください」



 支援センターに勤務する職員は、バイトを含めた男女六人だった。

 そのうち一人は育児休暇で数ヶ月前から休暇を取っていたので、対象から外した。

 雅季がセンターの職員をあたり、後日、久賀が勾留中の神岡を地検に召喚し、再び取調べた。

 彼から職員について詳しく聞いていくうちに、一人だけ気になる女性社員が浮上した。宮尾沙織みやお さおり、四十四歳。久賀は素早く資料にその名を見つけた。だが聴取の事実がない。彼女だけが抜け落ちている。神岡から宮尾について聞くと、久賀は妙な胸騒ぎを覚えた。

 神岡が退室した後、久賀は椅子に体を預けて、いまの聴取を頭で再生した。

『宮尾さんは真面目な女性ですよ。勤務してまだ三ヶ月ほどですが、遅刻欠勤もなし、スタッフだけでなく、子供たちにもよく声をかけているのをよく見かけました。彼女もすぐに職場に慣れて、『引っ越したばかりで、良い職場に恵まれてありがたいです』と、言ってくれました』

『……ウチに来る前ですか? 確か、愛知県のN市ですね。そう、私が手羽先が好きだと言う話をしました。いいえ、派遣会社でなく、私どものホームページのスタッフ募集欄を見て、応募してきました。配偶者? だいぶ前に離婚されていると。履歴書は……、事務所で聞いていただければあると思います……』

 愛知県。確か、二件目の事件が愛知県ではなかったか。

 これは偶然か……?

「検事?」

 事務官の柏木の声に、久賀は我に返った。 

 差し出された今の記録を柏木から受け取り、雅季に連絡を頼んだ。すぐにつながり、久賀に継がれる。

 久賀は神岡の取調べの内容を手短に話し、宮尾沙織の未聴取を雅季に確認した。

「あ」と、雅季は小さく言う。少し間が開き、慌てた様子が伝わる。手元の資料を繰っているのだろう。

「そうでした。不在だったので、後日聴取ということで落ちてました。連絡ミスです。すみません」

「少し、引っかかるんです。彼女、事件翌日に仕事を休んでいるのが。風邪だと連絡があったらしいですが、それに、この街に越してきて一ヶ月ほどです。出身は東京ですが、ここに来る以前は愛知県に三年。仕事で転勤ではないのは確かで、理由が知りたいところです」

「愛知県……」

 雅季が反芻する。彼女にも、その言葉が二件目の事件と符合したのだと久賀は思った。

「わかりました。その点も含めて、すぐに当たります」

 雅季が電話を切る前に、久賀は「私も同行します」と、素早く挟んだ。

 相手が息を詰める気配で、久賀の頭に彼女の困惑の表情がありありと浮かぶ。

「でも……」

 雅季の脳裏に香村のことがよぎったのだろう。それを察するだけで、久賀の胸がざらついた。

「一緒に行きます。問題ないはずです。香村さんには、そう伝えてください」

 雅季を困らせるのは忍びないが、自分が捜査担当であることも間違いではない。すぐに相手が諦念の声音で答えた。

「すぐに折り返し連絡します」

 電話が切れると久賀は、すぐに柏木に出かける旨を伝えた。


 地検で久賀を拾った雅季は、市の中心から北東へ十五分ほど走り、宮尾沙織の住むマンションに着いた。商店街の外れで、就職の買い物に子供を連れた主婦の姿が目立つ。

 住まいは四階建てのマンションで、築年数はそこそこ経っているようだ。四階までエレベーターで上がり、降りて一番手前の403号室。角部屋だ。

 ドアホンの上のネームプレートは空白だった。まだ日が浅いからだろうか。不審に思うのは疑いすぎか。

——捜査がもたついている。

 香村の苦言に、自分は無意識に焦りを感じているのだろうか。余計な先入観はダメだ。久賀は自分に言い聞かせた。

 隣の雅季が一瞬久賀を見て、ドアホンを押した。

 しばらくあって、細い声が応える。雅季が来訪の目的を告げると、すぐにドアの隙間から白い顔がのぞいた。派手ではないが整った顔立ちだ。しかし、化粧気が無いせいか、どことなくやつれた印象を受ける。

 雅季が身分証を提示すると、その顔がさらに曇った。「ここではちょっと……」と、部屋の方を一瞬振り返った。

「あの、署に来ていただいてお話を伺えるなら……」

「あ、それでいいです」

 相手は雅季を遮るように言い、「すぐに用意します」とドアを閉めてしまった。

 久賀と雅季は思わず顔を見合わせた。

「協力的なんだか、そうでないのかちょっと微妙ですね。急な訪問で、しかも他人を部屋に入れたく無いのはわかりますが……」

 雅季が鼻先で閉まった鉄製のドアに視線を戻し、呟いた。

「確かに歓迎はされてないようですが、署でならじっくり話は聞けそうですよ」

「何か出てくるでしょうか」

 そのとき、ドアが開いて、小ぶりのトートバッグを手に沙織が姿を現した。淡い黄色のTシャツに麻素材のような紺のスカート、そして薄手の黒のカーディガンを羽織っている。

 グロスを使ったのか、唇は先ほどよりずっと色艶が良くなっていた。

「簡単な聴取なので、そうお時間はかからないと思います」

 安心させるためか、雅季が隣を歩きながら言うと、沙織は緊張した面持ちで頷いた。

 多分、雅季の言う通りだろう。緊張はしているが、外見や態度からは不審な様子は見られない。久賀が現時点で気になる引っ越しについてクリアになれば、彼女が重要参考人になるとは考えにくかった。

 取調室に入ると、雅季は沙織にパイプ椅子に座るよう声をかけ、記録用のパソコンを取りに部署へ戻った。久賀は部屋の前で待つ。すぐに雅季は戻って来た。

「ここは私に、任せてもらえますか」

 久賀が断ると、雅季は何か言いたそうに久賀を見上げたが、「わかりました」と首を縦に振った。

 宮尾沙織の向かいに久賀と雅季が座る。雅季がラップトップを開く間に久賀は自分の資料を用意し、沙織に本人確認を求めた。

「免許証でいいですか?」

 すぐに質問に入ると思っていたのだろう、宮尾は膝の上のバッグから財布を取り出す。その拍子に何かが床の上に落ち、久賀の靴のつま先に当たった。

 久賀は身を屈めて、拾った赤いマルボロの箱を机に置く。その瞬間、彼は雅季の緊張を肌で感じた。

「あ、すみません」

 沙織はすぐにそれをバッグにしまい、身分証を提示した。久賀も名刺を渡す。

 久賀は務めて平静を装ったが、一瞬、持ち主に疑いを持ったのは確かだった。遺体の髪に絡まっていたのは赤マルボロ。胸中の声を無視し、先入観はなしだ、と再び釘を刺した。

「お話は私が伺います。よろしくお願いします」

「検事さん……」

 沙織の不安げな眼差しは、名刺と久賀の間で泳いだ。

 久賀が日時を告げ、取調べを始めた。

「今日お尋ねしたいのは、亡くなった須田仁美さんと、今の職場についてですが」

 沙織の表情が険しくなった。

「須田さん……、殺されたってニュースで見て……信じられなくて。本当に、ひどいです。あんなにひどいことする人がいるなんて。でも、絶対に所長は犯人じゃありません」

 沙織は語気を強めた。

「ええ、その疑いは晴れています」

 久賀は相手の不安を除くよう、微笑した。沙織の目元が緩むも、目には「では、なぜ?」と疑念が残る。

「宮尾さんが受けた、須田さんの印象を聴かせてください」

「ああ……」と、沙織は軽く頷く。

「実は、あまりよく知らないんです。私、あそこに勤務して三ヶ月ほどですし、須田さんも見かけたら挨拶したくらいです。でも、声をかけても反応薄かったし、こちらも必要以上に話しかけることはしませんでした」

 雅季は淡々とキーボードを打っている。

「そうですか。勤務して三ヶ月ほどと言われましたが、以前は愛知県のN市に住んでいたとか」

 沙織の顔色が一瞬固まった。

「一応、確認だけですので」

「ええ、そうです」

 声音がやや硬いのは気のせいか。久賀は、あくまで世間話の延長といったトーンで続けた。

「引っ越されたのは、こちらにご家族がいるとか?」

「いえ、ちょっと個人的な事情で……」

「もし、お困りのことでしたら、警察や私どもがお力になれるかもしれませんよ」 

 引越しの事情など、もちろん人それぞれだ。しかし、もし彼女が定職についていたとして、転勤以外で、そのキャリアを捨てて引っ越すするメリットはあるとは考えにくい。

 引越し費用もかかるし、家族の介護などの理由もなしに転居し、四十半ばの女性が新しい土地で新居を構え、一から仕事探しだ。技術職ならまだしも、事務系の正社員はまず難しいだろう。

 だが、彼女には引越さなければいけない何かがあったに違いない。久賀はそう読んでいた。

「どうして、私に警察の助けが必要と思うんですか?」

 相手は憮然と返した。

「いや、必要でなければ、それに越したことはありませんが、進学、転勤、ご家族以外の理由で引越しをするケースは、しかも県外にまで出るのは、よほどその土地にいたくない何か……トラブルや、人間関係を清算したいとか、そんな理由があるのかと思いまして。すみません、すぐに悪い方に持っていくのは職業癖かもしれません」

 久賀はしばし沙織に視線を留めていたが、手元の調書を繰って、次の質問に移るそぶりを見せた。

「あの、大したことじゃないんです。付き合っていた男性と別れ話でもめて、ちょっと嫌な思いをしたので。人間関係のトラブルといったら、検事さんのおっしゃった通りですが、大丈夫です。ここに来たのも、たまたま占い師に話を聞いてもらって、引っ越すなら方角的にはこっちがいいからって……」

「あ、風水ですか。吉方位とか、その年によって変わるんですよね」

 雅季が急に口を挟んだことにも、風水という言葉が出たのにも久賀は驚いた。もしかして、雅季も占いやゲン担ぎを信じるタイプだったのか。あとで聞いてみよう、と久賀は胸内でメモした。

「そうです。それで、ネットで探して引越しして、すぐに仕事も決まって、職場の雰囲気も良くて、ああ、やっぱりいい運気ってあるんだな、って思っていたんですけど……」

 事件と話が逸れたからか、沙織の声が明るくなった。

「わかります。新しい土地で、いろいろ不安ですよね」

 雅季が相槌を打ち、相手も頷く。

「もう一度お尋ねしますが、こちらには親戚やご友人もいらっしゃらないんですか?」

 雅季の声は事務的だったが、相手はじっと探るように雅季を見つめた。

「あの、それが須田さんの事件とどういう関係があるんです?」

 空気に緊張が走る。雅季がこれ以上追求するかどうか。

 久賀には、彼女の深追いしたい気持ちが手に取るようにわかった。だが、そうするに正当なカードを雅季は一枚も持っていない。

 しかし、雅季は微笑した。

「すみません。今のは個人的な好奇心でした。まだ、働き盛りの女性が、どうしてこんな田舎がいいのかな、と。都市の方が、もっと良い仕事も、遊ぶところもありますよね」 

「でも、刑事さんも住んでるじゃないですか」

 相手は表情を緩めた。

「まあ、私は仕事柄、断れませんからね」仕方がない、と雅季は眉を下げる。

「それは刑事に限りませんけど」

 久賀が口を挟んだ。それで「今日は十分」という久賀のサインが伝わったのだろう。

 雅季は批難の視線を久賀に移したが、彼は当然それをスルーし、椅子の上で姿勢を正して沙織の注意を引いた。

「今日は、お時間をいただきありがとうございました」

 突然打ち切られて驚いたのか、沙織はキョトンとした顔で久賀を見た。

「え、あの、終わりですか? もう帰っても?」

「ええ、どうぞ。ご足労様でした」

「あ、その前に、DNA鑑定にご協力いただけますか?」

 打ち合わせにない言葉に、久賀は唖然と雅季に振り向いた。視界の隅に入った沙織の表情も強張っている。

「な、私が犯人だって疑っているんですか? そんなバカな。私はあの子のこと、ろくに知らないんですよ? なんで私が殺さなきゃいけないんですか?」

 声に憤りが混じるのも無理はない。

 ——どうして急に雅季はそんなことを。

 混乱している久賀を尻目に、雅季は落ち着き払って継いだ。

「むしろ、犯人でないことをはっきりさせるためにお願いしています。他の方も承諾されましたよ」

 そんなわけ……喉まで出かかった言葉を久賀は飲み込んだ。

 じゃあ、と一瞬の逡巡の後、沙織は渋々口を開いた。

「いいですよ」

 雅季は電話で鑑識係を呼んだ。


 *


 香村が係長の椅子に座り、机を挟んで雅季と久賀が立っている。

 机上には香村が鑑識から取り戻したDNA検体採取キットの入った袋が置かれている。

「これは何の真似だ?」

 香村が雅季を睨む。

「捜査に必要と判断した上で、採取しました。もちろん本人の同意を得てです」

 雅季に動じる様子はない。

「ただでさえ、被疑者でもない参考人からのDNA採取はあまり良しとされていない。わかっているだろう。君はもう少し慎重だと思ったが、見込み違いだったか。これについて、久賀検事はどう思いますか」

「宮尾沙織に不審な様子は全くありませんでした。動揺はしているようでしたが、一般市民が警察署で聴取されて不安なのは当然でしょう。珍しくありません」

 香村は頷いた。

——犯人なわけがないだろう。無駄な仕事を増やしてどうする——再度、雅季に向けられた香村の目はそう言っていた。

 それを察した久賀だが、アウェイでの自分の立場をわきまえ、それ以上の口出しは諦めた。

 ブラインドから桃色の陽が射していた。すでに時刻は六時を過ぎていた。

「第一、須田さやかを殺害したのは男だ。体に付着していた体液からすでに割り出されただろう。君もそれに異議はなかったはずだ。それに、女の力であれだけの暴行は不可能に近い。君は一体何を考えている? 余計なことでさらに捜査を遅らせる気か」

「私は、あらゆる疑惑を一つずつ潰していくのが、解決の近道だと思っています。早いうちに宮尾さんが完全にシロとわかれば、被疑者は一人消えます。でも、あの人、何か引っかかるんです」

 香村が目を細めた。

「根拠は」

「直感です」

「直感」

 香村は「ふん」と鼻を鳴らした。

「言葉が少なすぎます。久賀検事が言ったように、確かに宮尾さんは緊張していました。しかし、無実であるなら、普通それを訴える話を並べ立てるものです。アリバイになるような事実など、とにかく自分はシロだと何とか証明しようとします。でも彼女は緊張というよりも、言葉を慎重に選んでいるように見受けられました」

 雅季は上司の顔色を伺い、一旦言葉を区切った。

「家族についても、全く喋ろうとしませんでした。自分が社交的とか、こう、我々に良い印象を与えるアピールがあっても良さそうですが……そう思いませんか?」

「いや、私はそうは思わない。むしろ、変に言葉尻を取られて容疑をかけられると思えば、余計なことは喋らんな。刑事はどんな言葉も捜査に都合のいいように使う、だろう?」

「それは、警察を十分に知る人の言い分ですね。一般人はそうは思わないでしょう」

 久賀が口を挟むと、雅季が軽く睨んだ。だが、視線はすぐに上司に戻る。

「一課長が同意しなくても結構です。しかし、私は宮尾さんを引き続き洗います」

「私の意見は無視、か」

「まだ、犯人は単独かどうかもわかりません。その証拠が出ていないんです。もし、協力者がいたら? それに、宮尾さんの勤務先です。児相に、支援センター。弱い立場の少年少女に自然と接触する絶好の場所じゃないですか」

「こじつけだな」

 香村がため息交じりに言う。

「私もそれにはちょっと。賛成しかねます」

 久賀も意見した。

「その分野の資格を取ったら、その仕事に就くのは至極当然だと思いますが。経験もありますし。神岡も宮尾の前職の責任者と話して、問題なかったと話していましたよね」

「それだ。怪しい点はないじゃないか」

 久賀に向けられた雅季の視線がかなり険しい。久賀は思わず机上の検体セットに目を落とした。

「それに、タバコです。私がDNA鑑定に思い至ったのは、そもそもそれが理由です」

「タバコ?」

 デスクを叩いていた香村の指の動きが止まった。

「取り調べ室で、彼女のバッグから落ちたタバコが、遺体の髪に絡まっていた銘柄と同じものでした」

「偶然だろう」

 香村は切り捨てた。

「これでミスったら、時間も労力も無駄だろうが」

「何かして、失敗するのがミスではなく、この捜査上、何もしないのがミスだと思います」

「そうかもしれませんが、篠塚さん、採取したタバコがどこで付着し、犯行現場のものなのか。そもそも犯人のものと断定していない以上、私もこの鑑定は意味がないと思います」

 久賀も雅季を諭すように言い添えたが、雅季はそれが耳に入らなかったかのように、呟いた。

「でも、あの人……何かおかしいんです」

 重い沈黙が三人を包んだ。

「君がそこまで言うのなら、私に任せてもらおう」

 沈黙を破った香村は立ち上がり、袋を手に取った。久賀も雅季も唖然として香村を見る。だが、香村が雅季にしっかり頷くと、彼女の表情が一瞬にして輝いた。

「本気ですか?」

 思わず漏らした久賀に、香村は自信に満ちた顔を向ける。

「検事もこの件は白黒はっきりさせたほうがいいでしょう。これはウチの本部に送って鑑定させますよ。まあ、それで私の部下の気が済むなら……」

 久賀がふと視線を感じると、雅季は満面の笑みを浮かべて彼を見ていた。

「急がせるが、少し時間をくれ。結果が出たら連絡する」

 すぐに上司に向いた雅季が、ぺこりと頭を下げた。

「香村一課長、ありがとうございます」

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