第18話
久賀がドアホンを押すと、すぐにドアが内側に開いて雅季が顔を覗かせた。
どうも、機嫌が悪そうだ。
いや、悪いはずだ。何しろ早朝七時。
しかも久賀が彼女に「そちらに行く」と電話したのはほんの三十分前のことだ。
「おはようございます」
久賀は努めて元気に挨拶すると、雅季は顔をしかめた。
「おはようございます……一体、どうしたんです? こんな早くから……梓いたら怒られてますよ」
事件がらみなら電話で用は済むはずだから、そうではないのは一応承知しているようだ。
雅季は訝しげに久賀を見上げている。
「あの、とりあえず入ってもいいですか?」
「あ、どうぞ……」
中に入った久賀は、そのままキッチンへ行き、食材で膨らんだエコバッグをゼーブルに置いた。隣の雅季はバッグと久賀を交互に見ている。
「久賀さん、それ……」
「篠塚さん、朝食、済みました?」
「いえ、まだですけど……」
そうだろう。きっと久賀からの電話を切った後、急いで支度をしたに違いない。
「では、さっさと始めましょう。がっつり行きますか? それとも甘い系がいいですか?」
「は?」
雅季の眉間の皺が深くなる。それを見て久賀は思わず吹き出した。
「朝食を一緒に、と思って色々買ってきました」
「どうして……?」
久賀はそれには答えず、袋の中身を次々と出していく。卵、ソーセージ、クリームチーズ、ハム、ブルーベリー、プチトマトのパックとヨーグルト、イチゴジャム。パン屋の袋に入ったクロワッサン。
「時間、あまりないですから簡単ですけど、甘い系ならホットケーキにカットフルーツ、がっつりならオムレツか目玉焼きにソーセージを焼いて、クロワッサンで。あ、どちらにもトマトサラダがつきます。ヨーグルトもよかったら。コーヒーは……」
「久賀さん!」
コーヒーメーカーの方を向いた久賀を、雅季が遮った。
「そうじゃなくて、いきなり、こんな……何なんですか」
「朝活ですけど」
雅季がヨーグルトに手を伸ばすその手首を、久賀はとっさに取った。雅季はそれをすぐに振りほどこうとしたが、久賀はそのまま自分の方へ引き寄せた。
かけていたサングラスをテーブルに置くと、雅季の手のひらを精査する。右手の平には、大きな絆創膏が貼られていた。
「これ……、どうしました?」
雅季の目が泳いだ。明らかにごまかそうとしている。
検事で、しかも雅季にぞっこんの自分がそれを見逃すことはない。答えによっては、自分の次の行動が予測できなかった。
「転んだんです」
諦めたように雅季は言った。歯切れの悪い口調に、それが全てではないと久賀は悟った。
「どこで、いつ。――それは、食べながら聞きましょう。とりあえず、コーヒーをお願いできますか。あ、紅茶がいいなら、それでも構いません」
尋問しても落ちないと見て、アプローチを変える。クロワッサンが食べたいという雅季に、トースターでそれを温めている間、久賀は手早くオムレツとソーセージを用意した。
雅季がテーブルセットし、オレンジと桃をカットした。あっという間に朝食の席が整う。
「朝からこんなにたくさん……。太っちゃます」
久賀にコーヒーの入ったマグを渡して、座った雅季はテーブルに並んだ皿を見てため息をついた。
「何言ってるんですか。刑事は一に体力、二に体力、三、四がなくて五に運、でしょう」
「運……ですか……。ですよね……」
じっと手元のカップに視線を落とした雅季を久賀は「さ、食べて」と促す。残念だが、そうゆっくりもしていられない。
雅季がクロワッサンをちぎって食べる。バターの香りが口に広がった。
「美味しい……」
久賀はホッとして自分のオムレツをフォークで崩した。
「あの……この朝食……。私、久賀さんに何か貸しがありましたっけ」
「別に貸し借りとかないですよ。気にしないでください。まあ、友情と言うことで。あ、これで一緒に食事をするのは四回目になりますね。あくまで、友達としてですね。それ以上はないですよね」
先日、雅季が始関に話したことを根に持っている自分は狭量だと思う。
もちろん、あの時始関の前で、久賀の名を出せなかった雅季の立場も理解しているつもりだ。
だが、やはり不満が燻り、つい口に出てしまう。
雅季が首をかしげて久賀を見つめた。今度は久賀が視線を逸らし、話題を変えた。
「で、昨日何があったか話してください」
雅季の、トマトを口に運びかけた手が止まる。
「ジョギングに行って転びました。それだけです」
「いつ、行ったんです?」
「あの電話の後です」
そんなことだろうと思った。久賀はため息をついた。
「夜中に一人でジョギング? あんなことがあった同じ日に?」
雅季は返答を避けるように、黙々と食事を続けている。刑事は食べるのが早い。久賀も同じペースで食べながら彼女が答えるのを待った。
「プライベートの時間です。ジョギングくらいいいと思います」
「もちろんです。でも……」
「でも、じゃありません」
雅季はきっと久賀を睨んだ。雅季がそんな顔をしたら、もう何を説こうとしても無駄だった。だが、最低でも事実だけは知っておきたい。久賀は静かに訊ねた。
「転んだ時、何があったんです?」
「つまづいたんです。暗いので、舗道の敷石が少し盛り上がっているのに気がつかなくて。たまに、街路樹の根で盛り上がっているところがあるんです。考え事をしていてうっかりしていました」
――説明がやたら長い。話に真実味を持たそうとして、つい、くどくなってしまう嘘つきの典型だ。
嘘を見抜く側の刑事が嘘をつくのが下手というのも微妙だが、雅季がそんな不器用な面を見せるのは自分だけであってほしいと、ふと思う。
いや、今はそんな状況じゃない。
久賀は雅季をじっと見つめた。雅季も視線を逸らさない。
今回は久賀が諦めた。コーヒーを飲みながら、腕時計を見る。八時十分前。出勤の時間だ。
「それで、今日はどうするんです?」
空の食器を雅季の分も重ねながら、久賀は声のトーンを和らげた。
「会議の内容にもよりますが、特に指示がなければもう一度子供たちに話を聞きたいと思います。特に、須田さんと親しかった少年が突破口になる気がして。そうじゃなくても、早いうちにそれを確認したいです」
緊張を解いた雅季が、二つのカップを片付けた。
「じゃあ、香村さんじゃダメじゃないですか? 子供たちを怖がらせてしまった張本人ですし」
雅季はすでに昨日の失敗談を久賀に伝えていた。あの香村が、子供相手にいきなりキレた話は、久賀にとって意外だった。
「そうなんです。だから他の署員と……」
「私が行きます」
手を洗った雅季が久賀を睨む。
「そんな、だって許可が」
「下りますよ。担当検事の捜査に、刑事の付き添いをお願いするだけです。始関さんならうまく上に話を通してくれるでしょう」
「『するだけ』って、そんな……。それに係長を利用するみたいじゃないですか」
「検事に利用されるのが、刑事の役割でしょう?」
携帯電話をバッグに収めながら、雅季が口を尖らす。
「久賀さんが来て……、そうなるかなって……」
「悪い予感、ですか?」
久賀が雅季の顔を覗くと、目を合わせた相手の顔が微かに赤くなった。
「いえ、期待……してました」
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