第17話
「結構早かったな」
弔問から戻ると、香村はそれだけ言い、すぐに仕事を続けた。
雅季は、香村が始関の席でパソコンの画面を睨んでいる光景に、一日経っても慣れないでいた。
二月の連続殺人事件を担当した時も、自分の向かい――
その時も最初は違和感があったが、それとはまた別だ。
何より香村は本庁の捜査一課長で、「雲の上の人」とは言わないまでも、雅季にとってはエベレスト山頂の存在と言っても過言でもない。
その彼と同じ部屋で仕事をするのは、違和感を遥に越えて居心地が悪い、というのが正直なところだった。
しかし、彼が自分を相棒に選んだのだから、底辺の人間は受け入れるしかない。
香村からは「キャリア」のオーラが嫌という程滲み出ている。
同じキャリアでも始関から感じるそれとは重圧が明らかに違った。
やはりそこには、はっきりと境界がある。
「ご迷惑かけてすみませんでした。今朝のことで、少し始関係長と話をしていまして」
「ああ、災難だったな。だが珍しいというわけでもない」
自分の追う事件とは無関係、という判断か。香村の口調はそっけなかった。
もともと香村は
「そういえば、昼はすんだのか?」
唐突な問いに、雅季は戸惑った。
カラオケボックスで時間を取られ、昼食は抜きだった。腕時計を見ると、三時前だ。
そう問われると、途端に空腹を感じた。
「いえ、まだです」
「ちょうどいい。私もだ。何か取ってくれないか? この辺りはよく知らないし、探している時間が無駄だ。青鞍に聞いたら、あいつは蕎麦屋を勧めてきた。腹に溜まるもので、丼物を頼もうと思えば、蕎麦専門だと。だが正直、その気分じゃなくてな」
雅季は思わず緩んだ頰を引き締めたが、顔を上げた香村はそれを見逃さず、眉をひそめた。
「何がおかしい」
「すみません、青鞍さんはベジタリアンで、あと体型に特に気をつけているので。ヘルシー志向でしたら間違いじゃないんですけど」
「ベジタリアン。いい体してるから、がっつり肉喰っていると思ったよ」
体脂肪率12パーセントを誇る彼は、常にタイトなスーツやシャツを着ていて、体の線が目立つ。香村がそう思うのも無理はないだろう。
青鞍のデスクの引き出しには常時プロテインバーがストックされているが、乳製品は摂っても肉は食べない。
雅季は携帯電話のデリバリーアプリを開いた。
「では、何か頼みましょう。何がいいですか? お肉系ですね? 焼肉、唐揚げ弁当……中華はどうですか?」
「君は何がいい? ついでだから一緒に頼めばいい」
「え? 私ですか? 私はいいです。一食抜きなんて、忙しい時は普通ですし、今日は私ごとで時間もかなりロスしてますし」
「私ごと、って事件じゃないか。だいたい、空腹で頭が回るか。じゃ、ピザはどうだ。それなら食べながらでも仕事ができるだろう。決まりだ。私のは適当に肉系で」
雅季は香村の押しの強さに一瞬唖然としたが、ピザを二枚注文すると、再び読みかけの報告書に戻った。
だが、大した報告はない。
「ガイ者宅の報告、当たった捜査員から何かありませんでしたか?」
香村は渋面を見せた。
「あの家族、話にならんな」
「え、まさか課長が直接行かれたんですか?」
驚きに思わず声が高くなる。
「いや、電話した。兄かな、出たのは。それで君への伝言。『話すことなんてねーけど、聞きたきゃそっちからくるのが普通だろ』だと。それで、切られた」
「そんな風に言ったんですか?」
「言葉のままだ」
「妹が殺害されたのに、その態度って……」
香村は肩をすくめた。
「ああ、それと新楽さんに、これ以上でしゃばるなと釘を刺しておいた」
「ええ? 新楽部長に、ですか? それはいつですか?」
今日は朝から驚かされることばかりだ。
「君たちが出ている時」
相手に責めている様子はないが、やはり一課長に自分の穴を埋めさせたのは事実で、罪悪感が募る。
しかし、香村が検察を牽制したというのは、正直ありがたい。
そのまま、新楽の雅季への異常な敵意が、香村へ向けばいいのだが。
「どうした?」
雅季が黙って香村を見ているので、相手は首をかしげた。
口調から、自分を気にかけているのが伝わる。今朝の車のこともあり、雅季の心中は穏やかではなかったが、「大丈夫です」と無理に笑顔を作った。
香村は小さく顎を引いた。
「ああ、マル被の爪から検出された土。ウチであの分析を急がせているから」
「
「いや、ウチの方が早い。そもそも、分析の指示は検事が急かしたんだ。ああ、そうだ。そもそも、その流れで新楽さんに連絡したんだ」
「もしかして、久賀検事ですか?」
きっと、雅季たちと別れた直後だ。
「ああ、そうだ。あの若い検事もあの部長の下で苦労してそうだな。だが、こっちの捜査を引っ掻き回されるのは、ご免だ。焦るのもわかるが、焦っても進まん時は進まんよ」
焦っている? あの冷静な久賀が? やはり、自分が時間を取らせてしまったのは迷惑だったのだろう。
雅季の罪悪感がさらに濃くなる。
「課長、そちらの分析よりも、タバコの吸い殻の方を優先できないでしょうか。そちらの方が重要な気がするんです」
「あれは、証拠にはならんよ」
「それはまだ断言できません」
この件では一度衝突している。再び同じ議論を引っ張り出した雅季に、香村は露骨に眉を寄せた。
しかし、雅季は未だ、あの吸い殻が手がかりの一つだという直感を捨てられない。
「だいたい、あの銘柄を吸う喫煙者がどれだけいると思うんだ? それに、須田仁美の監禁場所でさえ特定されていない。死体をどこかに隠していたのかもしれない。あの吸殻はどこで付着したかわからないんだ」
「弁護側の意見に聞こえますが」
「実際、裁判になれば弁護側はそう言うはずだ。証拠にあげたとしても弱すぎる」
香村は人差し指を雅季に向けた。
「我々の仕事は、絶対に崩せない証拠を多く集めることだ」
「それはもちろんんですが……」
「君を非難しているつもりじゃない」
香村の意外な言葉に、雅季は口をつぐんだ。雅季の沈黙を香村は承諾ととったのだろう。話題を変えた。
「マスコミはずいぶんおとなしいな。須田に関する情報もないが、あの誤認逮捕も大して騒がなかった。須田仁美についてもっと突っ込まれるかと思ったが、このタイミングで、あの大物歌手の薬物所持のニュースが出てくれて助かった」
もっと検察が叩かれることを内心期待していたのか、『助かった』と言う香村の声音に不満が含んでいる。
「情報募っても、通報はあまりないですし、信ぴょう性もかなり低いですよね」
雅季はあえて検察の件には触れず、ため息をついた。最近は特に、人の目というものはあってないに等しい。
皆、周りを見るよりも視線は始終携帯電話のディスプレイに釘付けだ。
それもネットニュースを見るよりも、きっと動画や漫画の方がずっと楽しいに決まっている。
たとえ、事件に関する何かを目撃したり、耳にしていても、その時は事件だとも気づかず、その記憶は留まることなく、忙しない日常の出来事や、最新のコンテンツで塗り重ねられてしまうものだ。
「それより、やはりもう一度支援センターに話を聞きに行こうと思います」
「なぜだ? あそこは検察がケリをつけたじゃないか」
「リュックを渡してくれた少年から、まだ話を聞けると思うんです。きっと、何か話していないことがあるはずです。それから、もう少し遅い時間のスタンドの様子も確認しておいたほうがいいと思います」
香村は腕を組み、しばし思案していた。
「父親はどうだ。犯人じゃないとしても、それこそ何か隠しているんじゃないか」
「その可能性もあります。でも、須田仁美は最近ずっと家に寄り付かなかったですし、やはり交友関係を洗ったほうが……」
香村はまだ逡巡しているようだ。
しかし、今は作戦を立てられるようなヒントが何もない。動くしかないのだ。
「では、私一人で行きます」
香村は諦めたように頭を振った。
「いや、私も行こう。君の上司が単独行動禁止令を発布したのを忘れたのか?」
雅季は、それがすでに筒抜けなことに驚いた。まさか始関が香村にまで念押ししているとは。
「始関係長ですか? 私を監視するようにと?」
「多かれ少なかれ。その点では彼は君を信用していないみたいだな」
確かに、始関は部下を割と自由にさせているが、それは所詮彼のコントロール下において、ということなのだ。
「係長は心配しすぎなんです」
香村は「うんうん」、と首を縦に振った。
「そこは同感だ。始関の、上司が部下を案じる気持ちにしても過剰だな。仮にも君は経験を積んだ巡査部長だ。車のことも、もし、犯人が本気で君に危害を加えるつもりだったのなら、昨夜そのチャンスはあっただろう?」
雅季は頷いた。
「おっしゃる通りです」
「まあ、そうは言っても私も君一人で行かせないけどね」
雅季は眉をひそめた。
「では、お好きにしてください。あとで『無駄足だった』と責められても困りますよ。捜査なんて無駄足の連続なんですから」
「知ってるよ。君は私に研修でもするつもりか?」
香村はニヤリと笑って、椅子の背に体を預けた。
「だが、逆に考えると、私が同行している限りはどこに行くにも、何をしようと自由ということだ」
同行していなければもっといいのだが。雅季はそんな言葉を頭から払い、微笑した。
「そういうことですね。では利用させていただきます」
「それから、ホシは現金支給、日雇なんかのバイトをしている可能性もあるな。その線も当たろう。本人名義の銀行口座からは最初の事件の後、都内でかなりまとまった金が引き出されているが、それ以降、全く動きがない」
現金支給のバイト。一体この街にいくつあるのか。そしてその関係者の一人一人から話を聞くのにどれだけ時間がかかるだろう。
一年以上ホシを追っている本部の一課長の提案にしては、正直、場当たり的な気もしなくはない。
だが、とにかく彼は捜査課長なのだ。
自分に選択肢はない。それに、何が無駄かそうでないかなど、誰にもわからないのだ。
その時、係長室のドアがノックされた。香村が応えると、絹田ロナがマッシュルームカットの似合う、溌剌とした顔をのぞかせた。
「ピザ、お届けでーす。こちらでいいんですよね?」
蕩けたチーズの香りが漂い、雅季の食欲を刺激する。雅季はロナの明るい声にホッとしながら、香村に向いた。
「そのバイトの件は、食事の後でもいいですか?」
結局、遅い昼食を済ませてから、夜までずっと該当する企業のリストアップ、問い合わせに忙殺された。
もちろん週末返上で、見当をつけた企業へ出かけ、ここ半年で入社した二十代半ばの男性全てに話を聞いた。
建設業者を始め、運送、デリバリーサービス、警備スタッフ、短期イベントスタッフに資材搬入、清掃業者。スキマ時間の超短時間バイトも含めると管轄内だけでも想像以上の数だった。
暗中模索にもほどがある。むしろ五里霧中か。
地どり中、雅季はこの作業が功を成すかどうか香村と意見をぶつけ、何度か二人の間に緊迫した空気が流れた。顔写真の提供もないのに、曖昧な特徴だけで、特定の人物を探せという方が無理だった。
上の都合だろうが、そこまで情報を出し惜しむ香村に、その立場を雅季は恨んだ。
だが、一方で、政治がらみの極秘任務とくればその肩にはかなりのプレッシャーがかかっているはずだ。もしかしたら、本庁にも圧がかかっているかもしれない。
捜査の進捗は芳しくない。
単独派遣させられ、ホテル暮らしといえど慣れない環境で、焦りやストレスもあるだろう。
キャリアには、キャリアの悩みが。そう考えると、同情しないでもない。
雅季は始関の席でリストのチェックをしている香村を見やり、自分の不満を収めた。
夕方になり、支援センターへ向かう道すがら、雅季は香村を滞在しているホテルで降ろすかどうか尋ねた。だが、相手は雅季の心を見透かしたように薄く笑い、それを辞退した。
くだんの少年への聞き込みが期待薄ということは、お互いに暗黙の了解だ。
ここを雅季に任せれば、香村は少しは休息できる。集められた情報を
だが、香村はそうはせずに、所轄刑事とともに前線に乗り込んでくる。
その議員とやらは、捜査一課長にそこまでさせるほどの大物なのか。
それとも香村のキャリア、出世や組織内の事情があるのか。
本人に尋ねても答えてはくれないだろう。考えたところで、官僚レベルになると全てが理解不能だった。
「車内で待っててくださっても、構いませんよ」
雅季は駐車場に車を停めて言った。香村はそれを鼻で笑った。
「君一人では行かせない。普段の捜査ではそれが許されるのかもしれんが、私は勝手にさせんぞ」
「しかし、危険はありません。少年少女に何ができるっていうんです」
「未成年の犯罪は、年々凶悪化しているのを熟知していると思ったが」
雅季は返す言葉がなく、口をつぐんだ。
「君は私の指示に従っていればいい。こちらにはこちらの事情がある」
なぜか、その呟きが妙に耳に残った。
雅季が香村に向くと、相手は一瞬交わった視線を逸らし「行くぞ」と助手席のドアを開けた。
前回と同じバスケットコートで、涼介を見つけた。他に同じくらいの年頃の少年が二人、先日話を聞いた少女がいた。
彼らは、近づいてくる二人に気づくと、不安げに顔を見合わせた。
前回よりも強い警戒が伝わってくる。やはり神岡の誤認逮捕が響いているのか。
今回は検察による逮捕だったが、子供は「逮捕」と聞けば警察と直結させるのが普通だろう。
それを心に留め、今は繊細な子供たちの信頼を勝ち取ることが最優先だ。
「こんにちは。涼介くん、覚えているかな」
声をかけると、子供たちの視線が少年に一斉に集中した。彼は仕方ない、という顔で頷いた。
「もう一度、話を聞きたいなと思って。そんなに時間はとらせないので」
香村は、雅季の隣でじっと様子を見守っている。
「今度は、俺たちを逮捕するつもり?」
一番背の高い少年が吐き捨てた。最年長だろうか。かなり体格も良い。
「なんだって?」
香村が一歩詰め寄る。途端に子供たちの顔が恐怖に引きつった。
(いけない)
雅季はとっさに香村と子供達の間に割り入り、答えた。
「それはないわ。須田さんの話を聞きたいだけ。よく行っていた場所とか、よく話題にしていたこととか、食べ物の好みとか、とにかくなんでもいいの。覚えていないかな」
喧嘩腰だった年長と思える少年は、訝しげに雅季を見ていたが、一瞬空を見上げて、口を開いた。
「あいつ、ちょっと頭おかしかったよな」
隣の少年に振ると、相手も慌てて頷いた。
「俺は相手にしなかったけど。ああいう面倒臭いやつ。うざかったし」
な、と再び友人に同意を求めると、同じやり取りが繰り返される。
その時、香村が雅季を押しのけて、彼らの目の前に立ちはだかった。
「そんな言い方はないんじゃないか。彼女がかわいそうだろう」
雅季が間に入るよりも早く、少年は香村を見上げて言葉を継いだ。
「なんだよ、本当のことだし。話聞きたいって言ったの、そっちじゃん。ていうか、ちょっと態度悪くないですか? 警察手帳みせてくださいよ。それとも、上司にチクられるのが怖いですか?」
きっと、この少年には警察がらみの嫌な経験があるに違いない。
そうでなければこの場面で「警察手帳」や「上司にチクる」なんて言葉は出てこないはずだ。
雅季は嫌な予感がし、とっさに香村の腕に触れた。だが、すぐに振り払われる。
「なんだその態度は」
「ほら、今度は脅しですか。余計に協力したくなくなりますね。職質ってやつでしょ? 任意ですよね。俺ら拒否してもいいわけだし。行くぞ」
どうやら彼がボスらしい。おどおどと様子を伺っていた子供たちに顎で退場を促し、香村の横を通り過ぎようとした。
その肩を香村の大きな手が掴む。
「待て、話は終わっていない。拒否するのは自由だが、そのぶん、疑いがかけられるのはわかるな?」
「課長、やめてください」
今度こそ、雅季は二人に無理やり割って入った。雅季の肩越しに、少年が香村を睨む。
「ごめんなさい。あなたとは初めてよね。えっと、私は鳴海東署の篠塚です」
雅季は、スーツから急いで身分証を出して見せた。
「いや、無理。話す気なくなった」
「なら、その気にさせてもいいんだぞ?」
そう言って、香村がかざした手錠を見て、雅季は息をのんだ。
「署で、じっくり話を聞いた方が良さそうだな」
「課長! それ、しまってください! 今すぐ」
「なんだよ、やっぱり逮捕するのかよ。じゃ、やってみろよ。俺はあのバカ女とは無関係だし!」
「貴様っ!!」
「香村課長っ!」
雅季は、怒りの形相で少年の肩を掴んだ香村の腕を強く引き寄せる。
肩から手が離れると少年は白けたように、二人を一瞥し、「行くぞ」と吐き捨てて立ち去った。
その後を慌てて他の子供たちが追う。
一度だけ、リュックを渡した涼介が雅季の方を振り返った。
後に残された雅季と香村は、彼らが遠ざかる様子を黙って見る他なかった。
(こんなはずじゃなかった。どこで何を間違えたのだろう。どうして香村は自分に任せてくれなかったのだろう)
「いい加減、離してくれないか」
頭上から香村の声がし、雅季は我に返る。そして、彼のスーツの腕を掴んでいた両手を慌てて離した。香村は皺を伸ばすように、スーツを二、三度払った。
「す、すみません」
「それは私の方だ。ついカッとなってしまった」
「香村課長らしくないですね」
思わずそう言うと、香村は目元を緩めた。
「私を知っているような物言いだな。いや、マル被の生前はどうであれ、あの侮辱は許せなかった。一番苦しんだのは彼女なんだ」
意外と感情的、そして感傷的なのか。実際、雅季もあの少年の言葉は聞きずてならなかったこともあり、そこは香村に共感した。
「それでも、やはり抑えていただかないと。相手は多感な年頃ですし、何しろ殺人事件が身近で起こって……」
「そうだな。私のせいで無駄足を踏ませてしまった。この通り、謝る」
「いえ、ここは出直しましょう」
二人は駐車場へ向かった。助手席のドアを開けた香村に、雅季は声をかける。
「課長」
香村は屋根越しに雅季を見た。
「一つだけ確認させてください」
香村は眉をひそめた。
「そちらにどんな事情があるとしても、この事件はまだ
相手はしばし雅季を見つめ、そして「ああ」と強く頷く。雅季はホッと安堵のため息をついた。
香村の滞在しているホテルまで車を走らせる。お互いずっと無言だったが、そこに重圧はなく、それぞれが、個人の思惑に浸っているようだった。
ホテル前の客用スペースに車を停めた。
シートベルトを外した香村が、雅季に向く。
「明日もよろしく頼む」
香村の顔に、疲労がくっきりと刻まれている。
視線はまだ雅季に留められたままで、まだ何かあるのかと雅季は待っていたが、相手が口を開く気配はない。
雅季はふと、さっき気になった疑問をぶつけてみた。
「さっきおっしゃっていた『事情がある』って、どんな事情ですか」
「ああ……」
一呼吸の後、「チャンスを待っていた」と呟いた。
「チャンス?」
雅季は眉をひそめた。
「君が同僚や現場から離れて一人になるのをね」
きゅっと胃が縮む。香村の意図がまるでわからない。ハンドルを握った手に力がこもった。
「そのチャンスでしたら、運転中、ずっとありましたよね」
「でも、君は運転に集中しなきゃいけなかっただろう?」
こんな先の見えない不毛な、むしろ駆け引きを匂わす類の話は、雅季が最も苦手としていた。
「どういう意味ですか? はっきりとおっしゃってください」
無意識に語気が強くなる。
「君の噂は聞いた」
雅季は無言で先を促した。
「君が署で浮いた存在だって」
誰だろう。いや、誰でもそう思っているはずだ。
「少し、興味を持った」
相手の、探るような視線に耐えられず、目を伏せた。
「恋人もいないようだと。別にそこまで聞くつもりはなかったが。だが、個人的に上ネタだと思った」
喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。
まさか、香村が自分を口説いている?
それとも、まだ何か懐柔させようという魂胆か。
または、生意気な所轄の刑事をからかおうとでも。しかし、それにしてはその口調は慎重だ。
「そうです、その噂通りです」
自虐的に聞こえただろうか。
「しかし、今でも署で浮いていると思われているのは意外ですね。確かに、私が話すのはごく限られた課員ですが、別に、私が彼らを故意に避けているわけではありません」
「久賀検事の名前が出てきたんだけど……」
「私の初めての連続殺人事件の、担当でしたから」
「それだけ?」
雅季は頷いた。
久賀との関係は自分でもまだわからないのに、それを他人に探られたくはない。
「そう。じゃあ今私が君を誘っても迷惑じゃないかな。私も独身だし」
雅季は一瞬目を見張った。
「まさか、一課長に誘われるとは思いませんでした」
笑おうとするが、雅季の頬は強張ったままだ。香村は、そんな雅季をまっすぐに見つめている。
「いや、相手に物怖じせず、はっきり物言う骨のある女性は好きだね。それに、君は決断力もある」
相手はやや身を寄せ、シートの肩に手をかけた。
それだけの動きで、雅季は追い詰められたような息苦しさを感じた。雅季は唯一の抵抗のつもりで目に力を込めた。
「いつでも正しい決断ができるとは限りませんが」
香村の口角が上がる。
「で、どうする?」
「すみません。署に戻ります。もう少し調べがあるので」
香村は雅季の気持ちが変わるのを待つかのように、しばし無言でいたが、身を引いてドアノブに手をやった。
「決断は覆ることもあるな」
「そうかもしれませんね。では、ゆっくり休まれてください」
「君もほどほどにしろよ」
車を降りた香村がホテルの入り口へ向かうのを見送る。途中、彼が背を向けたまま片手を上げる仕草に、雅季は思わず目元を緩めた。
結局、雅季はその夜、終電ギリギリで帰った。
アパートのドアを後ろ手に閉めた途端、バッグの中で携帯電話が鳴った。画面に浮かぶ久賀の名に、雅季の胸が騒ぐ。
こんな夜中に彼らしくない。それに事件ならば、まず署から連絡がくるはずだ。
オンボタンを押そうとすると、その瞬間電話は切れてしまった。
なんだったのだろう。もしかしたらタッチミスで、うっかり押してしまったのかもしれない。
それでも気になり、雅季は部屋着に着替えてから掛け直した。
「すみません、夜分に」
ワンコールで電話に出た久賀は、まず謝った。
「さすがにこの時間は家にいると思ったのですが、もしかして、寝てましたか」
「いえ、今帰ったところです。あの、事件で何か?」
その問いに、久賀の方から新しい話は出なかったが、彼は捜査状況を事細かに訊いてきた。
「そちらから報告が、なかなか上がってこないので」
さんざん質問を浴びせた後、久賀は弁解するように言った。
そもそも、できるような報告がないのだ。今日の少年たちへの聞き込みも失敗に終わった。
警察の恥を晒すような報告はしたくない。いや、強いて言えば一つ進展はあった。
香村とのことだ。
その報告もするべきか? それにはどう反応するだろう……。
そんなことを雅季が考えていると、久賀の声が割り込んできた。
「明日も出ますか」
当たり前、と思いつつ何気なく壁のカレンダーに目をやると、土曜日だった。
世間は週末だったのか。
「出ますよ」
「何時ですか?」
「会議は8時半からです」
「香村さんも一緒ですか」
雅季は一瞬返事に詰まった。
「さあ、どうでしょう。一課長は色々忙しいので」
曖昧に逃れたが、久賀はそれ以上突っ込んでこなかった。
彼は新たに二、三今後の捜査方針を確認し、遅い時間の電話の詫びをもう一度言って通話を終わらせた。
雅季はスマホをキッチンテーブルに置き、ウーロン茶のグラスをとって、ここ数日間の捜査をしばし振り返った。
仁美の両親、兄、支援センターの子供たち、香村――。
目を瞑ると、たちまちそれらの人物が頭に飛び交う。
そして、車の落書き。
あまりの手がかりのなさに、焦りと得体の知れない胸騒ぎ。それらが混じり合い、考えがまとまらない。
それらはまるで編集前の動画のようだ。バラバラの画面だけが集められ、どのシーンが繋がるのか全くわからない。しかも、まだ素材は全然足りないのだ。
須田仁美殺害と車のイタズラの関連性は?
本当に狙いは自分なのか。本当に警告なのか。
もし、ストーカーの類だとしても、相手は車にイタズラするような卑怯な小心者だ。
こちらが警戒していると分かれば、図に乗るかもしれない。
妹の梓が巻き込まれることは絶対に避けたい。
今日は彼氏の家に泊まっているが、可能なら、しばらくそっちにいてもらった方がいいかもしれない。いや、もうすぐ盆休みで実家に帰るとか言っていたか。その方がありがたい。
(なんだか、考えすぎて頭が重い……)
雅季は携帯電話の時計を見た。23:56。
(ちょっとジョギングに行こうか)
事件の前は、仕事後に良く走っていたが、最近はそんな暇もない。
体を動かせば頭も多少スッキリするだろう。まず、まとまらない思考を強制終了させたい。それからリセットすればきっと、何か新しいものが見えてくるだろう。
雅季はティーシャツとジョガーパンツに着替えると家を出た。
始関と久賀は、こんな時間に走りに行く自分を見たらなんと言うだろう。
しかし、もし犯人が近くに潜んでいたとして、自分が怯えずにこうして外に出た方が相手を挑発できるものだ。「警察を甘く見るな」というサインにもなるだろう。
それに自分は武術はもちろん、護身術も受けている刑事だ。
「大丈夫」
アパートの階段を降りたところで、励ますように小さく口の中で呟き、街灯に浮かぶ道を走り出した。
駐車場の前を通る時、つい車のあった場所を見てしまう。
あそこで犯人は自分の部屋を見上げていたのだろうか。二階の部屋は真っ暗だが、それを想像するとさすがに背に悪寒が走った。
雅季は早いペースで走った。街灯の乏しい光が道しるべのように闇にぽつぽつと滲んでいる。
田舎は夜が早い。
この辺りは住宅街だが、すでにほとんどの家の明かりが落ちている。人の気配は全くない。
却ってそれが雅季の気持ちを鎮めた。
犯行発覚の直後だ。小心者の犯人は捜査が始まっているのも、パトロールが強化されたことも承知しているはずだ。
今夜はきっと家でおとなしくしているだろう。
しばらく雅季はシューズのソールの立てる軽い足音を聞きながら走った。腕時計を見て二十分経ったのを確認して折り返す。
腕と脚を交互にひたすら動かす。額に浮かんだ汗が、耳の横を流れる。
だいぶ頭がスッキリしてきた。
目の先に公園が見えた。ここで軽くストレッチをして帰ることにする。ここまでくれば、家までは目と鼻の先だった。
速度を緩めて公園に入る。広場の見通しの良い場所で、一応ぐるりと全体の様子を伺う。
滑り台や鉄棒、ブランコの遊戯が寂しくそこにあるだけで、何も変わったところはない。聞こえるのは自分の速い呼吸だけだ。
(心配することはない。早く終わらせて帰ろう)
そう思い、屈伸したとき、公園の一部を囲う立ち木のあたりで、何かが動いたような気がした。
途端に、汗が一気に冷える。
すかさずパンツのポケットを探るが、すぐに帰るつもりでいたので、持っているのは鍵だけだ。
雅季は全身を緊張させながら、立ち木を包む暗闇にじっと目を凝らした。しばらく見ていたが、もう何かが動く様子はなかった。
ホッとした途端、身体中の力が抜ける。
(気にしすぎ。逆に警戒しすぎて錯覚したのよ。いい加減に帰ろう)
雅季はストレッチを諦めて、小走りで公園を出た。次の角を曲がればアパートが見える――。自然とスピードが上がっていたようだ。それに、人がいるなんて思いもしなかった。雅季が角を勢いよく曲がった瞬間、目の前に現れた影に息を呑んだ。さらに、相手は雅季に迫ってくるように見えた。雅季はとっさに避けるが、相手の肩にぶつかり、倒れるようにして転んだ。
「いたっ……」
歩道についた手のひらに痛みが走る。人影は、そんな雅季に声もかけず、その脇を猛然と走り去って行った。
すかさず雅季は影を目で追った。黒のパーカー、ジーンズ。上下黒づくめだ。フードを被っている。広い肩幅。痩せ型。
ぶつかった時の、硬い肩の感触がまだ胸のあたりに残っている。
それは確かに、若い男だった。
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