第13話


(まさか一課長と組まされるなんて)

 雅季は、始関の部屋である係長室に運び込まれた事務机で自分のラップトップを開いた。

 本来なら始関が座っているはずのそこに、香村の姿があるのを複雑な気持ちでそっと盗み見る。彼は今、事件に関する資料を一心に読んでいた。

 始関は、香村が刑事部屋で仕事をするとなると課員が気を使うだろうと考慮し、自分の部屋を香村と雅季に明け渡したのだ。

 当の始関は、捜査本部の管理席に常駐だ。

 もちろん、その配慮は間違っていないし、副管理官として始関は当然の場所に待機しているだけだ。

 しかし、個室に捜査一課長と二人きりとなると神経が持たない。雅季は自分の呼吸が浅くなっているのに気づき、静かに深く息を吸った。

 講堂からここに来る途中、香村は雅季に「相棒と思って気を使わないように」と留意したが、それは到底無理な話だ。

 香村秀明かむら ひであき、警視庁捜査一課課長、キャリア。四十六歳、独身。

 苦手な食べ物はゆで卵、デスクの引き出しにはビターチョコレートを常備している。

『この肩書きとあのルックスで独身なんて、信じられないですよね! 逆にハードル高すぎで近寄れないって感じですかね! ちょっと興味あるなあ。また何か聞きましたら、すぐ流しますね!』

 捜査会議前に目を輝かせながら、総務課の絹田きぬたロナは雅季にそんな情報をリークしたのだが、雅季は情報そのものより、ロナのその仕事の早さに舌を巻いた。

 第一、彼女にそんな情報交換ができる本庁の人間とのネットワークがあること自体、驚きだ。

 しかし、こうして改めて香村を見ると、上品かつ精悍な面立ちでロナがロックオンされたのも納得がいく。

 多忙極まりないポジションにいながら、肌は健康的に浅黒くまだ四十代前半でも十分通りそうだ。

 艶のある、やや白髪の目立つ髪をオールバックにし、まっすぐな鼻梁には、まるでアクセサリーのようにシルバーフレームの眼鏡が載っている。

 顎が少し張っているが、そこに男らしさを感じ、魅了される女性は多いだろう。しかし独身。やはり好みがうるさいのだろうか。

「どうかしましたか? 質問ならどうぞ」

 香村が書類から顔を上げ、急に声をかけられた雅季は、慌ててマウスをカチャカチャと動かした。その様子に香村が微笑する。

「ずっと見ていたでしょう。何か言いたいことがありそうですね。遠慮せずにどうぞ」

 雅季は顔が熱くなるのを感じたが、バレていたならしょうがない。多少居心地が悪かったが開き直り、背を伸ばした。

「では、よろしいですか。一課長の捜査に対する率直なお考えを聞かせてください。特別捜査官としていらした矢先に、もし……」

 雅季は続きを躊躇した。

「次の殺人が起こったらどうするか、ですか」

 言葉を継いだ香村はさらに笑みを広げた。雅季はその微笑の意味がわからず、曖昧に頷いた。

「あなたは過去に、上と衝突した経験があるのかな」

 そんな経験がない刑事なんているだろうか。

 過去に二年間本庁に在籍したが、その時は縦社会の圧がすごかった。

 それに比べれば鳴海東署ここは仕事量からしても、天国といっても過言ではない。

 雅季は相手の出方を伺い、黙っていた。今、彼に自分の持ち札全てを見せることはない。

 普段上から指示を与えるだけの者が、自分のような所轄刑事と同じように動けるかどうか、同じように情報を共有し合えるかどうか、心を開けるかどうかは彼の態度にかかっている。

 刑事は、現場の雰囲気で必ず何かしら嗅ぎ取り、対象者の態度や声音を読んで勘を働かせ、寝不足で、疲弊した頭をフル回転させて情報を精査し、点と点をつないでいく。

 それこそ全身全霊を使い、捜査に挑む。

 時としてミスを犯したり、方針を誤ることももちろんある。

 そんな時、彼は所轄を捨て駒にせず、責任を取る心構えはあるのだろうか。

 同じ警察組織の人間といえど、この男をどこまで信用できるのか、本庁の刑事を知る雅季には、まだわからなかった。

「篠塚巡査部長」

 相手の表情が急に険しくなる。雅季は息を詰めた。

「私は、あなたが同志だと認めてくれていると思ったのですが」

 同志。捜査一課長の口から聞くとは心底意外だった。

「私は君を信頼していますけどね。そしてあなたを失望させるつもりもありません」

「ありがとうございます。ただ、一課長が私のやり方に妥協できるのか、そちらの方が少し心配です」

 香村はゆっくりと頭を振った。

「それは予告か何かですか。君は、なかなか一筋縄ではいかなそうだ」

「お言葉ですが、遠慮はいらないとおっしゃったのは一課長です。共に捜査を始めてから、『こんなはずではなかった』と後悔しないでください」

「忠告、ですか」

 香村はククッと笑った。空気が和んだのを感じ、雅季の肩から力が抜けた。もしかしたら、意外と話が通じるのかもしれない。そう思った矢先、相手の顔から笑みが消え、真顔になった。

「私は別にあなたたちの捜査に横槍を入れに来たわけではない。合同捜査を装い、最後の最後に手柄を横取りするような邪心もない」

「それなのに、こちらに情報の全てを開示していただけない」

 雅季の切り返しに香村は頷いた。

「まだ、だ」

 再び空気がはりつめる。

「確かにこちらには、君たちの何倍もの情報がある。だが、情報は使い方を誤ってはゴミ同然だ。必要な時に必要な情報を与える。もとよりそれが私の仕事だ。だからと言って、それが今後、我々の関係の妨げになるとは思わない」

 雅季は自分の勘——不審——が当たったことよりも、香村の開き直った態度に驚いた。だが、逆を言えば彼は一部ではあるが、手の内を見せたとも言える。

「百パーセント信用されていないのに、同志というのもおかしな気もしますが、わかりました。私は自分のすべきことをするまでです」

 結局自分は使われる駒の一つなのだ。

 この短いやり取りで、自分の立場を再確認したところで、雅季はパソコン脇のマグカップに手を伸ばした。だが、それはすでに空だった。

 コーヒーを入れなおすため、マグカップを片手に席を立つ。

 香村にも声をかけようかと思ったが、彼が対等の立場でいいと言うならば、そんな気遣いは不要なはずだ。

 ドアノブに手をかけたところで、ふと自分が卑屈になっていることに気づき、軽い自己嫌悪を覚えた。

 やはり情報を独り占めされていることを根に持っているらしい。だが、上のやり方とは昔からそういうものだ。

 上には上の事情がある。香村は言ったではないか『必要な時に情報は与える』と。

 雅季は振り返った。するとデスクに肩肘をついている香村と目が合う。雅季が口を開くより先に相手が言った。

「私も頼んでいいかな」

「一課長のお口に合うかわかりませんが。砂糖とミルクはいりますか」

「いや、いい。ありがとう」

 

 雅季が二つのカップを手に戻り、一つを香村のデスク——もとい始関の、に置くと、香村はもう一度「ありがとう」とそれに手を伸ばした。

 一口飲んで「悪くない」と呟く。

 席についた雅季はホッとして、自分もミルク入りの熱いコーヒーを飲んだ。

「もう一度伺います。そちらの情報をもう少し出していただけませんか? 会議でおっしゃった過去の事件についても、マスコミが自力で得られる情報の範囲です」

 雅季はダメ元で再び正面からぶつかった。すると意外にも香村の口角が上がった。

「確かに。では、君たちの集めた情報とすり合わせしましょう」

 香村がデスクにあった自分のタブレットを取り上げるのを見て、雅季は慌ててパソコンに向き直る。

 その後の数時間、香村のタブレットに収められた記録を見ながら二人は共に四件の事件の情報を精査した。だが、結局香村が譲歩して出した情報は期待していたほどではなかった。

 雅季は、現場で発見したタバコの吸殻は有力な犯人の遺留品だと思っていたが、香村はそれに大して興味を持たなかった。

 死体遺棄現場のゴミの一つと、一蹴した。

 それまで犯人が喫煙者という物証はないし、たとえそうだとしても検出されたDNAだけを元に犯人を断定するのは危険ではないか、という見方だった。対して、爪の間の土については、彼は強い反応を示した。

 これまでの事件で、犯行現場を特定できるようなものは出ていなかったからだ。体液のDNA鑑定もどれだけあてになるか疑問だ。そして犯人が移動している点についてもまだ詳しいことはわかっていない。

「季節労働者にしては地域も時期も合わないですよね。何らかの事情で引っ越し、その土地で犯罪に及んだのか。この地域でなくてはならない理由があったのか……」

「住居はマンスリーマンションか流行りの民泊サービスその類でしょうか。賃貸で一年未満の契約はあまりないですよね。田舎は特に……」

「あるいは、出張などでよく利用する土地だった、とか。ああ、でもそれなら監禁しても常に監視は無理ですね」

「だからこそ、逃げ出せなくなるような暴行を加えたとも考えられるぞ。それで相手から徹底的に『逃げる』という選択肢を奪う」

「ひどい……」

 眉をひそめた雅季の口から、思わず本音が溢れてしまう。

 十代の少女に動けないほどの暴行を加え、放置し、その間犯人は平然と生活していたというのか。

「住民票などもその都度移していたのでしょうか。そちらでは調べはついて……」

 香村は首を横に振った。

「収穫なし」 

 ぐずぐずしていたら次の殺人は必ず起こる。雅季にはその予感はあった。

 だが、犯人の行動も、目的すらも本庁の捜査本部はこの一年以上読めないでいる。

「追われるものが、ご丁寧に転居届を出すほど馬鹿だとは思えんしな」

 香村は肩をすくめた。

「そうおっしゃるなら、体液が残っていた点はどうですか」

「そうだな。……君が正しい」

 香村が目を瞬かせたのを見て、雅季は思わず頰を緩めた。そのまま資料をめくって質問を続ける。

「マル害の家族は容疑者から外しますか」

 須田仁美の学校、交友関係は全て洗ったが、今の所容疑者と言えるような人物はいなかった。

「以前彼女が通っていた塾講師が家で父親と対面していますが、聞き込みでは特に怪しいところはありませんでした。塾講師はバイトの大学生で、この夏休みに海外留学に行っています」

「塾講師がシロとしても、もう一度両親には突っ込んでみた方がいいだろう」

 雅季はその場で須田宅に電話し、明朝の約束を取り付けた。

「支援センターの子供たちは外しますよ」

 雅季が香村を見据えると、彼は「いいだろう」と頷いた。

「センター長は殺人の疑いは晴れたが、淫行の事実は認めたからな。検察に引き続き拘留だ」

 検察の失態。

 久賀は大丈夫だろうか。判断を下したのは彼ではないが、マスコミにも煩わされるのは瞭然で、しばらく自由が効かないだろう。結局、捜査会議では一言も言葉を交わせなかった。

 物言いたげに見つめていた久賀の視線を思い出し、胸が切なくなる。

「あの検事って、よく来るの? 久米検事だっけ」

「久賀検事です、久賀丞已くが じょうい検事……です」

 とっさに答え、我に返った雅季の頰が熱くなるのを感じながる。まるで心を読んだようなタイミングに、内心驚いていた。

「よく、は来ませんが、たまに担当事件の進捗を確認しに来ることはあります」

「へえ……」

 香村の探るような眼差しを避け、画面に向き直る。

「篠塚さんの事件を担当したことはあるの? 久賀検事は」

 もう、この話題を終えて欲しい。なぜ香村は久賀にこだわるのだろう。困惑を覚えながら、雅季は頷いた。

「ええ、何度か」

「かなり切れ者って感じだったな。どうも睨まれた気がしたんだけど、警察嫌いか。それとも……、別の理由があるのかな」

 相手の声のトーンが一層低くなった気がし、顔を上げると、真顔の香村と目が合った。

 自問のようにも、雅季への問いにも聞こえる、その言葉に答えあぐねていると、急に相手が「失礼」と上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。

 さっと画面を確認し、何かを打ち込んで再び何事もなかったかのように上着に収めた。ショートメールだろう。

 香村は再び雅季に向き、「で、篠塚くんはどうして犯人がこの街に来たと思う?」と話題を変えた。その急な変化に戸惑いつつ、しかし雅季は内心安堵した。

「そうですね……。都心の方が人が多いだけ家出少女や援助交際を求める少女と出会う機会も、隠れ場所もありますよね。隣近所の住人の顔を知らないということもよく聞きますし。逆に田舎ではよそ者は割と人目に留まりますし、犯罪者の心理としては矛盾してる気がしますね……」

 それは雅季もずっと疑問に思っていたことだ。

「ただ、身を隠せる確かな場所を知っている、となれば納得いきます。もしかしたら追い詰められていると感じて、出生した場所に戻って来た可能性もありますね」

「それなのにまた殺人を犯すのか。矛盾だらけだな」

 香村は席を立ち、窓の方へ行くとブラインド越しに外を眺めた。

「これで私は出せる情報は出した。お互いの意見もとりあえずわかった。で、君はどこから手をつければいいと思う?」

 雅季は一瞬考えをめぐらせ、上等なスーツに包まれた背中に言った。

「そうですね……。マスコミを利用させていただけますか。今の段階で須田仁美の足取りが全く掴めていないのは致命的です。市民の情報が必要だと思います。きっと誰かしら彼女を目撃しているはずです。もし、本当に援交をしていたとしたら、彼女と実際会った人物が匿名でも、何かしら伝えてくるかもしれません」

 仮にそうだとして、その数は少なければいいがと雅季は思った。

 香村は無言だ。

「それから、デイパックを須田仁美から預かった少年にも詳しく話を聞こうと思います。きっと神岡に関してのタレコミは彼で、それくらいマル害と仲が良かったんだと思います」

「そんな少年が何か殺人に関する手がかりを握っていると、本気で思っているのか?」

 香村は振り向き、雅季を鋭く見据えた。

 雅季はこれは殺人事件の捜査だけではないと思っていた。

 もし、自分一人がこの捜査に臨んでいたのなら、須田仁美の気持ちをもっと良く知るために動いていただろう。しかし、それは「香村の捜査」には不要なものだ。

 彼女がどうして性を売るようになったのか、家を出たのか、虐待は本当にあったのか、彼女は神岡に本当に金だけを求めたのか。

 あの涼介という少年と過ごした時間は、彼女にとって特別だったのか。

 ふと、再び久賀の顔が脳裏に浮かんだ。

 同じ組織の人間として、香村と組んでの捜査は、もちろん正解なのだが、久賀が以前のように、再び自分と組んでいたとしたら、きっと、この気持ちは理解してくれるはずだ。

 本当に、久賀は大丈夫だろうか。

 いや、心配無用だろう。 

 彼なら普段通りに、配点されている事件を手際よく処理しているに違いない。雅季は久賀の面影を頭から払い、再度香村に向いた。

「はい。何気ない日常会話の中にも、須田仁美の家族に対する本音や、犯人につながるものがあったかもしれません」

「わかった。マスコミの方も慎重に使ってみよう。私は、マル害が客と会っていたというガソリンスタンドが気になるな」

「そうですね。そこで犯人とも接触したのかもしれません」

「参考になるものは見つかったのか?」

「今のところは特に……」 

「では決まりだ。まずそこから始めよう」

 香村は満足げに頷いた。

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