第10話
久賀と雅季は神岡の身柄を捜査員の一人に預け、捜査本部で副署長、始関にその旨を報告した後、一度給湯室へ向かった。
「まだなんとも言えませんが、話が情報と部分的に一致していますし……。神岡は嘘はついていないと思います」
「つまり、殺人犯ではない」
隣を歩く雅季は頷いた。
「もし、犯人であれば須田仁美との関係を隠し通すと思います。目撃者もいませんし。自供したことで須田仁美殺害の動機がある、自ら状況を不利にしているわけで、それにアリバイも用意していないって殺人犯としてはあまりにもお粗末すぎます。それで、都合よく空き家に死体を捨てに行けるでしょうか。そのあたり、かなり齟齬がありますよね」
「そうですね。大体、監禁していたら日頃の出勤態度にも影響ありそうですし。その点では不審な点はないと事務員たちも証言してますしね。まあ、それはDNA鑑定ではっきりするでしょう」
久賀も神岡については雅季と同じ見解だった。
給湯室に行くと、雅季は湯呑みを二つ軽くゆすいで拭いた後、茶筒の蓋を開けた。
「あ、空だ……えっと、ストックが確か」
そう呟きながら爪先立ちになり、頭上の棚を開ける。背後にいた久賀はその先回りをし、茶葉の袋を取った。
「ありがとうございます」
振り向き、雅季は久賀が手にしている袋を取ろうとしたが、相手はそれを避けて渡さない。訝しげに眉を寄せる雅季に、久賀は片手を棚にかけたまま少し身を寄せ、言った。
「先日はすみませんでした。何もできずに……」
雅季は驚いたように、かすかに目を見開いた。だがすぐに取り繕ったように笑顔を見せ、久賀の手から茶葉を取った。そのまま腕の囲いから逃れるように、急須に茶葉を入れ、中断していたお茶の準備を続けた。
「久賀さんが謝ることじゃないです」
「いえ、あんなことになったのは、私のせいです。見ているだけではなく、もっと何か言うべきでした」
雅季の横顔が曇った。
「いえ、あの場合その必要はなかったですよ。私は刑事として適切な対応をしたつもりです。久賀さんはそうは思われなかったかもしれませんが」
「でも、始関さんの耳に入れておいたほうがいいと思います」
久賀の口からその名が出たことがよほど意外だったのか、雅季は首をかしげた。
「どうしてですか?」
「新楽は……どう言うつもりなのかわかりませんが、いくらなんでもやりすぎでしょう。いくら部下の私が好き勝手やっているからと言って、ここまで乗り込んで来るなんて度を越しています。どこかできちんと線を引かないと。鑑識の……平井さんも証人ですし」
雅季は、二つの湯呑みの湯を急須に注いで蓋をした。
「すみません。久賀さんを巻き込んでいるんですよね。私があまりにも頼りないから」
「いや、私が好きで捜査に加わっているだけです。私はただ……」
「完全に、私の甘えです。新楽さんは正しいです。さすがに検事部長ですね。初対面なのに人を見る目は確かです」
雅季の頑なな態度を前に、久賀はため息をついた。もっと言うべきことはあるはずなのだが、それを封じられるように、湯呑みを渡された。
「それでも、篠塚さんの過去を持ち出す必要はなかったわけで、やはり完全に間違っています」
「それなら、なおさら久賀さんのせいじゃないですし、すでに起きたことですから。それに新楽さんは久賀さんを取り戻すのに必死で、私を挑発しただけだと思います」
雅季がぎこちない笑みを返し、誤魔化すようにすぐに湯呑みを口へ持って行った。
「私は大丈夫ですから。別にやましい過去ではないし、所詮別組織の人間です。むしろ久賀さんの方が直属の上司で大変じゃないですか?」
逆に心配をされてしまう。
「私のことは別にいいです、それより――」
「新楽さんは中継ぎなんですよね? では、私が顔を合わせることは、もうないですよ」
「つまり、今が辛抱というところですね……」
久賀が思わず本音を漏らすと、雅季の表情が和らいだ。
二人は黙って立ったまま茶を飲んだ。まだ何か言わなくてはいけないと思いながら、久賀はこの沈黙をまだ壊したくはなかった。この、何気無いひとときを。
「お茶、美味しかったです」
「お粗末さまです」
雅季が差し出した手に、久賀は空の湯呑みを渡す。
その時、刑事部屋の方から「久賀検事はどこですか」と尋ねる新楽の声が聞こえてきた。
「噂をすれば影……」
雅季と顔を見合わせて言い、先立って久賀は、廊下を隔てた刑事部屋に入った。二人に気づいた新楽が「やはり」というように目を細めた。
「検事はここでまた何をしているんですか?」
久賀の正面で顎を上げ、問いただす姿は、長身の久賀が小さく感じられるほど迫力があった。
「重要参考人として神岡所長の取調べ中です」
雅季が説明すると、新楽は二人を交互に見た。
「そうですか。指示通りの捜査は進んでいるようですね。しかし、それならそれでこちらに上げてもらわないと」
「取り調べの結果によっては令状を取り、家宅捜索もあり得ますし、それからでもと思いまして」
久賀が答えると、新楽は一応納得したように小さく頷いた。
「で、何で引っ張って来たの?」
久賀は、数人ではあるが刑事部屋にいる刑事の好奇の視線を感じながらも、その経緯を上司に簡単に報告した。
話が進むにつれ、新楽の目が輝き始め、話が終わると満足げに大きく頷いた。
「被害者への淫行が確かなら、殺害の動機はゼロではありません。なぜさっさと令状を請求しないんですか。神岡にアリバイはないんですよ」
「まだ証拠不十分です。アリバイがないということもまだ証明されていませんし。殺人についてはまだ何も出ていません。もちろん、青少年健全育成条例は犯していますから、その件では……」
「篠塚刑事には聞いていません」
新楽は雅季の言葉をスパッと遮り、新たに久賀に向いた。
「いいえ、刑事の言う通りです。まだ令状を取れるほどのものは固まっていません」
「それなら、固めてください。容疑者の容疑を固める――それが警察の仕事でしょう。すぐに令状の手配を。とりあえず青健条(青少年健全育成条例)でいいじゃないですか」
「そんな無茶な……」
雅季が愕然と新楽を見つめ、呟く。その隣で久賀は拳を握り締め、歯の間から声を絞り出した。
「部長、もう少し私に時間をください」
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