第9話


 鑑識課から刑事部屋へ戻る間、雅季の頭の中では新楽とのやりとりがループ再生されていた。

 ——悔しい。 

 初対面で、いち捜査員にあれだけ正面衝突する新楽の神経も疑うが、それに対して何もまともなことが言い返せなかった自分に腹が立っていた。

 しかも、過去の自分の事件を持ち出されて動揺するなんて、見事に相手の思う壺だった。

 自分は弱い。新楽と火花を散らしている間、心のどこかで久賀が自分を庇ってくれると期待していなかったといえば嘘だ。

 現に、久賀はそうした。それも結局火に油をそそぐ結果になってしまったのだけど。

 新楽は暗に雅季が刑事に向いていないと仄めかした。過去を清算していない自分は、捜査の足手纏いになると。

 それは重々自覚しているつもりだった。自分自身が、刑事に向いていないと一番わかっているはずだった。

 だからこそ、人一倍仕事に打ち込んできたつもりだ。しかし、彼女の言葉を真っ向から否定できなかった自分は、すでに気持ちから負けているのだ。

 自分の信念で、捜査を進めるのは間違いなのか。今まで出してきた結果は、運が良かっただけなのか。

 新楽の、つまり検察の指示通り、支援センターの調査から手がけるべきなのか。

 もちろん、彼女の意見は間違ってはいない。少しでも疑いがあるなら徹底的に洗う。捜査の基本中の基本だ。

 だからこそ、胸の中で渦巻く怒りを向けるべき場所がわからない。

 青鞍に相談しようか。いや、彼こそ地取りでこの猛暑の中走り回っていて、それどころではない。では、始関はどうか。

 雅季の過去を知っている始関は、いつも自分を甘やかす。優しい上司ではあるが、今はそこに甘んじてしまいそうだ。こんな時、根古里なら叩き上げの刑事らしく、檄を飛ばして迷いや悔恨を一発で吹き飛ばしてくれるのだが。やはり、彼の不在は痛い。

 

 刑事部屋に戻ると、相変わらずそこはがらんとしていて、二課と四課の刑事が一人ずつパソコンに向かっているだけだった。

 雅季は窓辺に立ち、ブラインド越しに外を眺めた。八月の強い光が目に染みる。

 雅季の心中とは反対に、雲ひとつない晴天。

 駐車場のコンクリートの熱が肌に感じられるようだ。

 事件のあった月曜日に、警察署の入り口に群がっていた記者は今は一人もいない。

 新楽はあの後、署長なり始関なりと面会をしたのだろうか。いや、おそらくしていない。

 それならば、捜査の新たな指示は管理官である始関から下りるはずだ。新楽は最初から自分が目的だったのだ。

 なぜかはわからないけれど。検察という組織のプライドだろうか?

 久賀が捜査とはいえ、鳴海東署に頻繁に出入りしているのが気に入らないのかもしれない。刑事が検事を顎でこき使っていると感じたのか。

 雅季は重い溜息をついた。

 新楽はまた仕掛けてくるだろうか。もし、今後そんなことがあれば、もっと冷静に対応するしかない。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。集中すべきは事件だ。

 暴行の残酷さ。これが、最も犯人像に結びつきそうな気がする。

 犯人が、わいせつ行為自体が目的だと断定するには、引っかかるものがあった。

 女性を性の対象としてそれを目的としていたなら、あれだけ顔の形が変わるほどの暴行ができるのだろうか。たとえ抵抗されたにしても、だ。

 逃亡しかけたから? それにしても、あそこまでやるには憎悪や、異常性を感じざるを得ない。

 もし、前科者を洗うなら、性犯罪者よりも傷害致死の方がヒットしそうな気もした。

 そして、犯人が獲物を失った今、その異常なまでの狂気のはけ口を探しているとすれば。

――次の犠牲者が出る。

 誰にも言えないが、雅季は第二の殺人をほぼ確信していた。

 もし、性犯罪者が犯行を繰り返すのは、快楽はもちろん、自分よりも弱いものを我がものにできる優越感を覚えてしまったからだ。それは、今回の犯人にも当てはまるだろう。無抵抗なものを暴行する後ろめたさと同時に得られる快感は、他のことではなかなか味わえないものだ。

 雅季は目を閉じ、犯人像を描くことに集中した。

 今までの少ない情報をもう一度見直し、整理する必要があった。

 どこで、いつ犯行は行われたのか。この街に、まだ犯人はいるのか。

 思考は束の間、闇の中で淡く光る情報の粒のはざまをさまよっていたが、やはり閃くものはなかった。

 席に着き、メールをチェックする。

 デスクの上にプリントアウトしたリストが置かれていた。性犯罪者のリストだった。

 正直、今からそれらの性犯罪歴を読む気は全くなかったが、そうも言っていられない。そして次に、青少年支援センター。

 新楽の指示があったものの、こちらはできるだけ後回しにしたかった。雅季の刑事の勘は、殺人に繋がる情報が出てくる確率はかなり低いと言っていた。

 あとは、少女が口にした廃業したガソリンスタンドの捜査。須田仁美がここで犯人と接触し、連れさらわれた可能性はかなり高い。

 地取り班の学校での聞き込みでは、仁美は普段通り登校し、特に普段と変わった様子もなく、放課後も一人で下校。もっとも、仁美はクラスでも目立たない生徒だったらしく、彼女の普段の行動も、犯行推定日の足取りについても収穫はほとんどなかった。

 生徒たちから彼女の売春の話については出てこなかったので、あえて詳しく聞かなかったようだが、仁美は学校の友人よりも支援センターの子供たちに、より心を開いていたということか。

 そうして考えを巡らせていた時、携帯電話がメールを受信した。確認すると、非通知だった。——スパム?

 妙な胸騒ぎを覚え、無視するべきか一瞬迷った。

 しかし、それがもし事件につながるものだとしたら。思い切ってメールを開いた雅季は、そこに浮かんだ一文を見て息を呑んだ。


 *


 久賀は炎天下の中、四階建ての鳴海東署が視界に入っても、まだ当惑していた。

 携帯の時計は14時25分。

 こうして鳴海東署に向かっていると、先日の鑑識課でのひと騒動がまだ鮮明に脳裏に蘇る。

 あれほど神経を逆撫でされたのはいつぶりだろうか。新楽の態度は、検察が警察に指示を与える行為からは明らかに逸脱し、雅季への個人攻撃としか言えないものだった。

 雅季の責任ではないのに、捜査方針にダメ出しし、おまけに、彼女の過去を持ち出して侮辱までするという周到さに、何か個人的な恨みがあるのではと一瞬疑ったほどだった。

 今でも、なぜ新楽があそこまで雅季を敵視したのか全く腑に落ちない。

 久賀の、新楽への第一印象で受けた不穏なものは、出会って間も無くすっかり不信へと変わっていた。

 彼女の駆け引き、人を見下すような態度のどちらも許せなかった。

 もしかしたら、過去から、今のポジションにつくまで相当な努力をしてきたのかもしれないし、辛いことや理不尽な目にあったのかもしれない。

 だが、もしそうだとしても、そんな私情を仕事に持ち込むのは、まさに公私混合ではないか。

 自分には注意しておきながら——。

 新楽は確かに久賀の上司である。だが自分は彼女の操り人形ではない。

 さらに、再び雅季に対してあのような態度をとるなら、今後無視はできないと彼は心に留めた。

 その後、雅季のことは気にはなっていたが、電話やメールでは、はぐらかされてしまうだろうと踏んで、連絡できずにいた。

 久賀は、数日経ってもまだ釈然としない気持ちを抱えながら、今朝も登庁し、別件の調書に取り掛かっていたのだが、ついさっき受信した雅季のメールの内容にずっと意識を奪われていた。

 なかなか頭に入らない調書を読み続けながら、久賀は事務官の柏木に疑われないような外出の言い訳をずっと考えていた。

 雅季のメールにはこうあった。

「会議の後になりますが、昼食を一緒にいかがでしょう。大丈夫でしたら、二時半に署にて」

 久賀は何も考えずに了承の返事をしていた。

 結局、柏木には正直に鳴海東署へ行くと伝え、車を出すという申し出を断って地検を後にした。

 

 久賀は落ち着かない気持ちで、鳴海東署の駐車場を進んでいった。

 そう言えば、雅季とは仕事にしろプライベートにしろ、昼食を共にするのは初めてだ。彼女の誘いに、胸が踊る。

 あの二月の事件で、一度はお互いの特別な感情を確かめたはずだと思ったが、雅季の方はそれ以来自分と距離を置いているようだった。

 子供時代の久賀には、雅季の過去の辛い思い出との接点があった。

 それから、雅季を忘れられずにいた久賀が検事となり、偶然彼女に再会できたのは奇跡のようなものだった。

 だからこそ、雅季が自分に歩み寄ってくれるのを待つつもりで、久賀は大人しく今の状況を受け入れていたのだが、それはもしかしたら、意味のないことかもしれない。

 自分は、あの時からずっと、彼女を守りたいと歯がゆい思いをしていたが、それが今日、新楽の出現でさらに強いものとなった。

 あの場で新楽から口撃されている彼女を十分に守れなかった。その罪悪感が、まだ尾を引いている。

 その時、警察署の玄関から雅季が出てきた。明るいグレーのパンツスーツに、踵の低い黒のパンプス姿だ。

 一度、眩しそうに手でひさしを作った。すぐに、久賀に気がついて近づいてくる。

「すみません、お忙しいところお呼び立てして」

 久賀を見上げて微笑むが、久賀はそれを意外に思った。

 ——新楽のことは、もう吹っ切ったのだろうか。 

 どこか納得いかないものの、久賀は彼女を庇いきれなかった罪悪感を一旦脇に置いておくことにした。

「こんなお誘いを受ける心当たりは、全くないのですが」

 雅季は、覆面パトカーのインプレッサへ向かいながら、微笑んだ。また、違和感が久賀の頭をかすめる。

「すぐお昼にしますか? それとも参考人へ話を聞きに行きますか」運転席のドアを開け「暑いので車を出しますね」と笑顔のまま、久賀を助手席に促す。

 ——そういうことか。

 久賀の体から力が抜けた。車に乗り込むと、クーラーを作動させた雅季が携帯電話を操作していた。

「参考人って、何か新しいことがわかったんですか」

 シートベルトを締めた久賀が雅季へ向くと、携帯電話が差し出された。その液晶板に浮かんだ1行のメッセージが目に飛び込む。 

――職員をよく調べろ

 携帯を手にした久賀は、それを二度読んだ。

「なんですか。どうしたんです、これ」

「おそらく、この匿名メールはリュックサックを預かっていた男の子からだと思います。名刺を渡しておきましたから。須田家の誰かではないと思います。……どう思いますか?」

 雅季は真顔で尋ねた。

「職員? 神岡と須田仁美の間で何かあったということでしょうか。特に皆、怪しいものは出なかったはずですが」

 嫌な予感が脳裏をよぎる。たぶん、雅季の声音から察するに、彼女も同じことを考えているはずだ。

「このメールだけで決断するのはまだ早いと思いますが、確かに神岡は何か警戒しているような、どこか不自然な印象があった気がします。その時は殺人事件なだけに、動揺しているのかと思いましたが」

 久賀が返した電話を見ながら、雅季は思案するように言った。

「メールが、もし、その少年ならどうしてその場で話さなかったのでしょう」

 雅季の視線がフロントガラスの向こうを泳いだ。

「一つは、実はこのメールはその少年からではない。二つめは、その時は迷っていた、から。須田仁美のことを考えて」

 須田仁美のことを考えてこそ、協力しようと思うのが普通じゃないか、と意見しようとした直前で、久賀は雅季の真の意図を汲み口をつぐんだ。

 もし、須田仁美が神岡を相手に売春行為をしていたなら、神岡が拒絶しなかったのはアウトにしろ、須田仁美は確実に不良少女のレッテルを貼られるだろう。おそらく、雅季はそれが嫌で、きっと少年も同じなのだと思いたいのだ。

「とにかく、神岡に話を聞きましょう。三時以降ならいつでも大丈夫だそうです」

 昼食の誘いは、「ついで」だった。久賀は小さくため息をついた。

「別に私を呼び出さなくてもいいじゃないですか。また新楽さんが乗り込んできますよ」

 うっかりその名を出すと、雅季の横顔が険しくなった。だがすぐにそれは消えて、不自然なほどの笑顔が久賀に向いた。

「さて、どうします? お昼に行きますか。それとも捜査ですか」

 久賀は前髪を掻き上げて「では、食事ですね」と返した。

 相手の目が「信じられない」というように丸くなる。久賀はそれに満面の笑みで答えた。

「さあ、早く食事を済ませて捜査に向かいましょう」


 支援センターの駐車場には二台の軽自動車の他に、一台、シルバーのメルセデスベンツが駐車してあり、異様な存在感があった。

 雅季の視線に気がつき、久賀は「こういう施設や団体には天下りが多いですからね。寄付金なども結構あるみたいですし」と一般的な説明を添えた。

「詳しいんですね」

「税務署に友人がいるんです」

「女性ですか」

「え」

「あ、なんでもないです。すみません。行きましょう」

 雅季は慌てるようにキーを抜いて車を降りた。久賀は頰が緩むのを必死で抑えて、入り口へ向かう雅季の後を追う。

 所長室はまるで企業の役員室のような豪華な内装だった。大きな木製のデスクに、革張りの椅子。応接セットもなかなか立派なものだ。二度目である雅季は、部屋に入るとすぐに神岡と挨拶をし、久賀を紹介した。

 応接セットのソファに向かい合って座った。

「検事さんですか」

 感心と驚きの混じった声で神岡は言った。

「殺人事件などの凶悪な事件な場合、初動から警察と一緒に動くことがあるんですよ」

 久賀は相手の気を緩めるつもりで、あえて砕けた口調で言った。

「いやいや、暑い中ご苦労様です。何か冷たいものでもいかがですか」

 それには雅季は丁寧に辞退した。「お忙しいところお時間いただいてすみません」雅季が早速切り出した。神岡の顔に緊張が浮かぶ。

「刑事さんがまたいらっしゃったということは、まだ子供たちの疑いが晴れていないということですかな」

 神岡は、慎重に雅季の様子を窺っている様子だ。雅季はまっすぐ彼を見据えて言った。

「いいえ、今のところ、彼らを疑うようなものはありません」

「それは良かった。やはり子供たちは多少なりとも不安を感じているようですから」

 安堵した神岡の、眉間の皺が消えた。

「今日、お話を伺いたいのは、神岡さん、あなたです」

 雅季の言葉に神岡は口をポカンと開いたが、すぐに身を乗り出した。

「もしかして、私を疑っているのですか? また、どうしてです?」

「須田仁美さんの所持品を調べました」

「それで?」

「それと、子供たちから気になる証言もありまして」

 久賀は神岡に悟られないように、横目でそっと雅季を窺った。雅季がカマをかけている。雅季はその大人しそうな外見からして、時に大胆なことを仕掛けてくるが、そこには必ず、彼女が刑事の勘で感じ取った何かがあり、久賀はその「何か」をこれまでの経験からも信頼していた。

 こういうものはセンスであり、誰にでもあるというものではない。

「気になるものとは?」

 膝の上で拳を握った神岡の顔に、明らかに不安が広がる。

「心当たりはありませんか。今、我々に話すべきことが特になければ、こちらでさらに調べを進めるだけですが……」

 雅季はソフトな口調だが、後に露呈したら問題だぞ、という圧をしっかり相手に掛けている。

「神岡さんの印象が悪くなってしまうことも、場合によってはありますからね。立場もおありでしょうし……」

 みるみる神岡の顔から表情が消えていった。唇が震え、額には脂汗が浮いている。相手が視線を落とした。

「ま、魔が差したんです。そんなつもりはなかった。こんなことになるなんて……」

 久賀は思わず雅季を見た。二人の視線が合う。神岡は震える声で続けた。

「黙っていると約束したのに……あの子は、やはり……」

「須田仁美さんですね」

 久賀はすかさず確認する。すると、神岡は俯いていた顔を両手で覆った。

「ええ、他に誰だというんです。もうお終いだ……バレてしまったなら……」

 久賀は黙って、相手の薄い頭部を見つめて自白を待った。

「弁解の余地はありません。でも……、だが、そうじゃないんだ! もちろん、私が甘かった。事故のようなものだ。そうだ、私は彼女に嵌められたんだ!」

 神岡は勢いよく顔を上げ、雅季を縋るように見た。

「嵌められたって……仁美さんのせいにするんですか? 此の期に及んで?」

 雅季は鋭く返すと、相手は慌てて目を泳がせた。

「いや、そうじゃない……そんなつもりじゃないんです。私は……私は、もちろん悪いと思っています」

 度を失った相手の口からは、なかなか要点が出てこない。久賀は軽い苛立ちを覚え、口を挟んだ。

「それで、一体何があったんですか。落ち着いて、事実だけを話してください」

 神岡はこの数分ですっかり疲弊したように、ソファに体を沈めると、伏し目がちに話し始めた。

「須田さんが、ここに来たんです。『ちょっとお金を貸して欲しい』と。ええと、だいぶ前です、七月頭の、土曜の夕方でした。その日は午後からある親御さんと面談をしていて、そのまま仕事を片付けていたんです。そしたら須田さんが現れて……」

「あなたがここにいることを、知っていたんですか?」

「いえ、たぶん、私の車を見かけたのではないかと。玄関の鍵は閉めていませんでしたから、そこから普通に入ったのだと思います」

「お金は何に入り用だったとか、言っていましたか? 具体的な金額とか」

「何に使うかまでは、ええと、五千円貸して欲しいと」

「それで、渡しましたか?」

「いいえ。私も事情を聞こうと思って。もし、また家出だったら、幇助することになるわけですし。お金ではなく、別の問題があるなら解決したいと思ったからです。すると、私が渋っていると思ったのか、『タダでとは言わない』と言って、そして……」

 神岡は言い澱み、口をつぐんでしまった。雅季は久賀に目配せをしてきた。久賀はそれに頷いた。

「性交渉を仄めかしたんですか」

 雅季が言うと、神岡は弱々しく頷いた。そして、次の瞬間、再びテーブルに身を乗り出した。

「でも、私はもちろん、拒否しました! 『そんなこと言うものじゃない、冗談でもよしなさい』と、諭しました。しかし、あの子は構わず近づいて来て……私の前でスカートを脱いで……『ここで大きな声を出したら、誰か来るかな』と言って……混乱しました。その間に、そのままあの子は私の前に跪いて、私のズボンの前に触って……頭が真っ白になって、そうしているうちにズボンの前を開けて」

「しかし、それでも抵抗できましたよね。やめさせなかったんですか」

 雅季は遮った。おそらく、その先を聞きたくなかったのだろう。

「そりゃあ、そうしようと……」

 神岡は泣きそうな顔を久賀に向けた。男ならわかるだろう、と目が訴えている。だが、久賀はそれには一ミリも同情できない。

「あなたは、彼女のような子供たちを守るべき立場でしょう。ここはそういう場所ではないのですか」

 雅季の苛立ちを超えた怒りが、久賀にもピリピリと伝わってくるようだった。

「はい……おっしゃる通りです」

「それで、お金は渡したんですか」

 うなだれた神岡に、雅季は畳み掛けた。

「財布にはいていた一万円を渡しました。決して口外しないと約束させて」

「あなたはそれで、彼女が強請ると思った」

 久賀が口を挟むと、神岡は頷いた。

「強請られたんですか?」

「いいえ」

 久賀と雅季は顔を見合わせた。雅季もまだ真偽を測りかねているようだ。

「本当です。嘘じゃありません!」

 雅季はまだ手の内を明かしていない。それを知らない神岡は、ほとんど喘ぐように言った。

「まさか、あの子が私について、手帳か何かに有る事無い事書き残していたなんてことはないですよね……まさか、ネットに書き込みとか……」

「タバコ、吸われますよね」

 唐突に雅季が話題を変え、神岡は一瞬虚をつかれたようにぽかんとしたが、すぐに不安げに頷いた。

「え、ええ。それが……?」

「銘柄は?」

「セブンスターです」

「あなたはその日以降、彼女が何をするか不安でならなかった。違いますか」

 雅季は穏やかな口調で、だがジャブを繰り出すように素早く質問攻めにする。相手に考えさせず、嘘をつく暇を与えないためだ。

「それはもちろん、そうです……」

「では、八月二日の午後九時から十一時の間、どこで何をしていましたか?」

 神岡の顔が青ざめた。

「それは、私が……、私を疑っているのですか? ありえない!」

 彼は顔の前で勢いよく手を振った。

「私じゃない。私はやっていない。どうして私が――」

「今の話が明るみに出れば、あなたは当然犯罪者ですよね。するともちろん、今の立場、生活、信用を失うことになる。そんなことはあってはいけない。……立派な動機です」

「もし……、もしそうだとして、彼女が誰かに話したとして、一体誰がそんな話を信じると思います? それに、彼女がこれから強請るつもりでいたとして、喋ってしまったら元も子もないじゃないですか。だいたい、私だけじゃないはずだ。あの慣れたような態度……そうだ。そうやって男を騙して金を巻き上げていたんだ!」

 神岡の声音はだんだん高くなり、しまいに口角に泡を飛ばす勢いで、吐き出した。

 雅季の膝の上で拳が握られたのを、久賀は見逃さなかった。だが雅季は動じず、じっと相手を見据えている。久賀が代わりに口を開いた。

「それでも、いなくなれば不安の種は消えますね」

「それは、本気で言ってるのか?」

 神岡の口が歪んだ。

「こちらはアリバイを確認したいだけです。お話したくないのなら、こちらで調べるまでですが」

 神岡は力なく頭を振った。

「先週のその時間は、家にいました。本を読んだり、インターネットを見たりして、いたって普通の週末です」

「お一人で」

「はい。妻は今実家で母親の介護をしています。少し、認知が進んでいて……」

「では、アリバイを証明できる方はいない」

 神岡の、久賀を見る目は暗かった。

「そうなると、念のためDNAを採取させてもらうことになりますが」

 神岡は、久賀の言葉の意味をゆっくりと反芻しているようだったが、やがて頷いた。

「わかりました。それで私が犯人ではないと証明できるなら、なんでもしてください」

 久賀の隣で、雅季が小さく息を吐いた。

「では、署までご同行願います。それから、児童福祉法に触れた件についてもお話を伺います」

 雅季は久賀に頷き、顔を強張らせている神岡の前から腰を上げた。


 

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