第8話
刑事部屋の自分のデスクにて、雅季はラップトップに収集した情報を一つ一つ眺めていた。
やはり目は自然と須田仁美の写真に留まる。二ヶ月前に万引きで補導された時の写真だ。遺体ではなく、生前の。
少女の正面を向いた顔は明らかに険しい。怒りと悔しさがないまぜになった強い眼差し、真一文字に結ばれた形の良い唇。細く尖った顎。明るい茶色の髪は肩までの長さで、眉のあたりの前髪がやや乱れている。
一方、入学式の写真のメイクは仮面のように思えた。
仁美の素の顔が、ふと兄の敏弥と重なった。兄は『父親ではない』と言った。
雅季は、父親が犯人ではないとしても、仁美は以前から虐待を受けていたのでは、という疑念をどうしても拭えないでいた。
現に、児相も関わっている。そして、彼女が家出を繰り返していたことが、それを如実に物語っているのではないか。
——母親は自分に無関心だ。兄との関係も険悪だ。
そんな最悪の家庭から逃れたい一心で、金を得るために身体を売る。
複数相手の売春行為。彼女はそのうちの何者かの毒牙にかかって殺害された。
過去に似たような事件は何件もある。
家庭に居場所がないくらい追い詰められた少女が、身を置ける場所を探していただけなのに、結局誰の手も届かないところへ行ってしまうなんて、やるせ無さすぎる……。
そんな雅季の思念は、机上の電話が鳴って破られた。
内線番号は鑑識からだった。鑑識にはすでに須田仁美のデイパックを回してある。受話器を耳に当てた。
「篠塚です」
「預かったリュックサックですが」
平井安里だった。
「ちょっとお話ししたいのですが、今こちらに来られますか?」
「大丈夫です。すぐに行きます」
電話を切り、ラップトップを閉じた。
携帯電話をスーツのポケットに収め、雅季が刑事部屋を出ようとしたその時、階下から「キャー」と複数の黄色い悲鳴が聞こえてきた。
下は総合受付と警務課、交通課だ。
何事だろう、と雅季はふとその場で足を止めて耳を澄ませる。
捜査課のある二階まで声が届くほどの騒動は、過去にも一度あった。
駐禁を取り締まった車がタチの悪いチンピラのもので、逆ギレした車の所有者が怒鳴り込んできたのだ。
対応した女性課員に、懐から出したナイフを突きつけて凄んでいた男は、すぐに他の署員たちに取り押さえられたが、その時もこんな高い悲鳴が上まであがってきた。
また何かトラブルがあったようだが、それも、すぐに収束されるだろう。
そう思いながら雅季が刑事部屋を出ようとすると、廊下から駆け込んできた男と正面からぶつかりそうになった。その後ろから、悲鳴の波が追いかけてくる。
「ちょっと、気をつけ……な、」
雅季は半歩退いて長身の男を見上げ、その乱入者をつかの間凝視した。
瞬時に何者かを認識した途端、口を「あ」と開けたが、そこから声は出なかった。
記憶と、目の前の現実が一瞬バグったのだ。
「すみません。でも、追いかけられてつい……」
そう言いながら、久賀は呆然としている雅季の背に隠れるように回り込んできた。
「追いかけられてるって、誰に……」
雅季が刑事部屋から顔を出して階段の方を見ると、制服姿の若い女性警官たちが数人ひしめき合い、目を輝かせてこちらを見ていた。
雅季は首を巡らせて、後ろの久賀に目をやった。久賀はふっと視線を逸らす。
「コメントは結構です」
素早く久賀は言った。
照れているのか、走ってきたからか、その頰がやや赤い。
なるほど、さっきの悲鳴は久賀が原因だったのか。
彼の、ずば抜けて端正な容姿は普段から人目をひくし、鳴海東署の女性署員たちに人気が高いのも知っている。
そして、何よりその彼のトレードマークである長髪が、今は耳のあたりですっぱり切られていたのだから、それを見た雅季同様、彼女たちも驚き——雅季は言葉を失ったが——、つい声を上げてしまったのは無理もない。
久賀はサラサラの、長めの前髪を落ち着きなさげにかき上げた。
その一房が額に落ちて、破壊級の色気を漂わせている。雅季の胸が高鳴った。
とりあえず、雅季は彼女たちに下へ戻るように手を振って合図し、一つ深呼吸して久賀に向いた。
「あの……」
「コメントはなし、と言ったはずです」
普段の久賀には珍しくそっけない態度だ。よほど髪型のことには触れられたくないのだと察し、雅季は鑑識課へ行く旨を告げた。
久賀も、もちろんついてきた。階段を下りながら「新楽さんとの面談、どうでした」と尋ねる。これはコメントではないのでOKだろう。
だが、その質問もアウトだったようだ。
「内輪のことなので……」
そのため息交じりの口調が全てを物語っていた。おそらく、その答えと、髪を切ったことには関係があるに違いない。間接的に核心に触れてしまったということか。まあ、刑事の誘導尋問のスキルは自分はまだまだ、らしい。
「女性の上司はある意味、刺激的でした。予想以上に」
「あ、それは、私もです」
「え?」
パッと目が合う。雅季はあわてて「髪型……似合ってます。とても」と付け足した。
久賀は一瞬目を見開いたが、すぐに微笑した。
「ありがとうございます」
雅季は歩きながら、須田仁美の兄への聞き取り、青少年支援センターを訪問した時のこと、そして捜査会議で上がった情報を伝えた。
「あの空き家からは犯人に直接関係するようなものは今の段階ではまだ出てきていません。所有者は、不動産会社が管理を怠ったって怒っていたらしいですけど。それから、須田義行のアリバイがありました。殺害推定時刻に近所のコンビニでタバコを買っている姿が防犯カメラで確認されています。上の指示では、参考人から外す方向です」
久賀はやや不満げに首を傾げたあと、頷いた。
「SNSで、須田仁美と思われる本名などはヒットしていません」
「まあ、本名ではしないでしょうね。それで、兄の方ですけど」
「彼は感触からして、両親の味方のようですが……」
「兄の話を全て信用していいか分からない」
久賀が雅季の先を拾った。
「鍵を壊したのは彼でした。それから、父親の虐待については今の所、否定しています」
「そこは完全にシロと見るにはどうかと」
彼は婉曲に否定した。雅季と久賀の視線が交錯する。この点ではまだ父親への疑いを拭いきれていないのだ。父親との対峙で、久賀なりに何か感じ取ったものがあったのかもしれない。
「兄、敏弥は仁美さんが普段から相当やり放題だったと。異性との、交友関係の方ですね」
「それはそれで、また問題ですね。そのあたり早急に当たってください」
「もう動いています」
「了解です。しかし、兄の方、私も同伴したかったです」
今までのビジネスライクだった口調が急に切実に変わったのは、気のせいではないだろう。
雅季は思わず頰が緩んでしまいそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
「一応、今現在では支援センターでの話が一番の収穫ですね。もしかしたら、須田仁美が売春行為をしていたという。あと、彼女の所持品と」
「仁美の動向が怪しくなりましたね。高校二年生か……」
久賀の顔に影が差す。
「で、篠塚さんの考えは?」
「施設の中におそらく容疑者はいないでしょう。結論を出すのは早いかもしれませが、もう少しあの涼介という少年から話が聞ければ、まだ何かわかると思います。やはり最初は警戒全開でしたからね。難しいですよ。施設にいるということは、大人に対して敵意とまでは行かずとも、何かしら抱えているものはあると思いますし……」
「それは、甘いですね」
一変して棘のある口調に、雅季は一瞬身構えた。
「そうですか? 子供たちが殺人事件に何らかの形で関わっていると、そういうことですか?」
「グレーなら、シロかクロになるまでどんな小さなことでも疑うのが我々の仕事じゃないですか?」
「それはそうですけど、今の段階で、あの少年を突つき回すことに意味はありません。たとえ検事の指示としても、まだほかに、優先すべきことはあるはずです」
久賀は立ち止まり、ため息をついた。
「では、今後の捜査方針は?」
「引き続き、地取り艦どりによる捜査、それからマスコミを利用して情報収集ですね。どこかでマル害が目撃されていれば、そこから足取りを掴めると思います。前科者なら尚更」
「わかりました」
久賀は頷いたが、大して期待しているようには見えなかった。
須田仁美がいつ失踪したのか、確実な日付もまだ不明なのだ。
二人は鑑識課の前まで来ると、すりガラスのはめ込まれたドアをノックして室内に入った。
ごちゃごちゃと様々な器具や証拠品が並んだ狭い部屋。雅季に気づいて、鑑識の制服を着た平井がデスクから腰を上げた。
雅季の後ろに久賀を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに平常に戻って挨拶を交わした。
机の上には須田仁美のデイパックが置かれていた。その脇には中に入っていたと思われる衣類が重ねてあった。平井が二人の前でそれらを確認して行く。
ティーシャツとジーンズ、スカートが数枚、靴下などの下着、歯ブラシ、生理用品、開封したコンドームの箱、鎮痛剤、ペンが数本。
雅季はそれらの品々にさっと目を走らせた。肝心な携帯電話も財布も見当たらない。
それだけは携帯していたのか。しかし、現場では見つかっていない。
最悪、犯人が処分したと考えられる。また、行き止まりだ。
「夜の捜査会議までにはもう少しわかると思いますけど、衣類だからね、指紋出てきてもあんまり期待できないね。おそらく照合に引っかかるものはないでしょうな」
「空振り、ということですか」
聞き覚えのない声が聞こえ、三人は声のした方へ同時に顔を向けた。
ちょうど開いたドアから、紺色のスーツ姿の女性が入って来るところだった。
ショートボブの、やや丸顔の女性だ。パンプスのヒールを足して身長は170センチくらいか。
雅季は、その侵入者が久賀の新しい上司である新楽だと悟った。
隙のないメイクが施された顔には微笑が浮かんでいたが、雅季を見る眼差しは鋭い。
しかし、なぜ検事部長がこんな場所に。彼女ほどのポジションでは、わざわざ警察署に出向くことはほとんどない。何か用があるならば、電話一本で警察を呼び出せるはずだ。
さらに、その場所が署長室ではなく地下の鑑識課なのだ。
雅季が鳴海東署に就任して四年経つが、この地方警察署の鑑識課に足を踏み入れた検事部長は、おそらく彼女が初めてだろう。
新楽はリノリウムの床にヒールの音を鈍く響かせて近づくと、雅季の前に立った。
ゆうに10センチの身長差はあるだろう雅季は、困惑のまま、それでも平静を装って、客を見上げた。
「あなたが、篠塚雅季巡査部長ですね」
雅季は頷いた。
「初めまして、
彼女の目が衣類に留まると、雅季はすかさず説明した。
「これはマル害の所持品です。昨日押収しました」
新楽は久賀を見た。
「報告が来なかったわ」
「久賀検事には、今伝えました」
再び雅季に向いた視線には、先程に増して険があった。
「これはどこで?」
雅季は伺うように久賀を横目で見た。彼も予想外の上司の登場にまだ当惑しているようだったが、雅季の視線に気づくと小さく頷いた。
「青少年支援センターです。マル害と親しかった少年が預かったそうです」
続けて雅季は須田仁美の生前の行動について説明した。家庭不和、売春行為の疑い、児相の訪問、そして児相の勧めでここ一年ほど青少年支援センターに出入りしていたことなど。
「それで、被害者と接触していた少年少女たちは取り調べたのですか」
新楽が薄く笑うのを見て、雅季は警戒した。
「捜査中です」
「そうですか。では、なぜここに篠塚刑事がいるのですか?」
その一言で部屋の空気が張り詰める。
「なぜって……」
雅季は新楽の質問の意味がわからず反芻した。
「私が知る限り、ここで仕事をするのは鑑識課員のはずで、捜査員は外で死に物狂いで情報や証拠を集めるべきなのでは? 部外者がここにいても邪魔になるだけだと思いますけど」
「新楽さんは例外ですか」
雅季が切り返すと、新楽は苦笑した。
「私には正当な理由があるからです。部下がここにいると聞いたから、来たまでです。捜査本部で指示していれば、そちらへ行きましたよ」
「そうですか。では私に用はなかったんですね」
雅季は新楽の口調を真似て、さらにこの話は終わりというように、押収品の方へ向いた。
「いえ、篠塚刑事からも進捗を聞こうと思っていましたし、ちょうど良かったです」
「空振りにならずに良かったですね」
この会話こそ不毛で、時間の無駄だと雅季は内心うんざりした。
気のせいだろうか。新楽の、自分を値踏みしているような視線は。そもそも、久賀を呼び戻したいなら、電話一本で済む話で、わざわざ出向く必要があるのだろうか。
「この状態だと、捜査は初っ端から難航しているようですね」
新楽の横槍が続く。
それは新楽が口にしなくても、捜査員全員が承知している。いちいち神経を逆撫でるような発言は、雅季を挑発しているとしか思えなかった。——だが、なぜ。
「今は全力で参考人の割り出しをしています」
「そうしてください。犯人はかなり危険です。性犯罪歴のある前科者を洗うこと、そして未成年の犯罪である可能性も視野に入れて。特に施設の子どもたちは問題を抱えている傾向があります。仲間同士の保身ということで、口を閉じているのかも」
それを聞いた途端、雅季の頭に血が上った。相手を見上げる目に、力がこもる。二人の間で緊張が張り詰めた。
「新楽部長、そこはまだ我々が介入するところでは……」
久賀の低い声がすかさず割り込むと、新楽は雅季から視線を外した。
「捜査の助言をしているだけです」
「お気持ちに感謝しますが、今の所、必要ありません」
新楽は雅季にゆるりと頭を振った。
「そうでも言わないと、すでに行き詰まっていると認めることになりますよね。まず、施設から調べてください。疑いが濃いものから潰していくのが捜査の基本ですから」
「その判断は捜査本部でします」
「その手間を検察が省いているんですよ」
雅季は突き上げる強い反発の感情をぐっと抑えた。
「彼らが問題児だとおっしゃるんですか。家庭に問題があるからでしょうか? その偏見、先入観に囚われた捜査は、かえって真実を見落とすかもしれませんね」
「偏見ではありません。青少年による犯罪統計に基づいた分析です」
確かに、青少年はまだ感情のコントロールがままならず、衝動のまま相手を傷つけたり、破壊行動に出たり、ここ数年では信じられないような凶悪犯罪も後をたたないのは事実だ。
「犯行の手口からも、犯人が激情型だというのが瞭然です。リンチして、殺害して初めて事の重大さに気づき、怖くなって遺体遺棄。どうしてそのストーリーが警察に描けないのか逆に不思議です」
新楽は久賀に頷いた。
「行きましょう。検事もこんなところで油を売っている時間はないはずですよ」
「いえ、私はまだ、こちらで調べたいことが……」
「久賀検事。あなたはまだいくつも事件を抱えていますね。検事が何をすべきかは私が判断します。篠塚刑事が応援を求めるのは、まず署員にであって、検察が出る幕ではないはずです」
「まだ人員が足りないんです。他の所轄も他の捜査がありますし」
「足りなければ、県警にでも頭を下げて集めればいいんです」
明らかに苛立ちを含んだ声音で新楽は久賀を黙らせると、再び雅季を見た。
「篠塚刑事。あなたが心に傷を持った青少年をかばう気持ちは痛いほどわかります。ご自分の抱えられているものなど、色々あるでしょう」
反射的に雅季は久賀を見上げた。彼が自分の過去を新楽に話したのだと思った。
だが、その久賀も表情を固まらせたまま、新楽を凝視していた。
「しかし、その同情は捜査を遅らせるだけです」
誰一人として口を開かず、重い沈黙が室内に落ちた。それを破ったのは、新楽のヒールの硬い音だ。
「久賀検事」
短く言い、新楽はドアへ向かった。久賀が雅季の方へ一歩近づいたのを、雅季は手で制した。久賀の、何かを訴えるような視線に耐えかね、顔を逸らす。
「では……後ほど」
彼の足音がヒールの音を追い、ドアが閉められた。
雅季の横で、重いため息が聞こえた。
「悪かったな、呼び出して……でも、何だあれ……、いくら検察でも失礼だよなあ。来るか? 普通。久賀さんも随分気に入られちゃってるみたいだねえ」
平井が、二人が出て行った方を見ながら呟いた。雅季は首を左右に振る。
「いえ。こちらこそすみませんでした。あの、これ見せてもらっていいですか?」
「いいよ。そのために呼んだんだ」
声からまだ困惑が伺えた。
「ありがとうございます」
雅季は手袋をはめ、須田仁美の遺品を手に取った。
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