第4話
翌朝、雅季がパソコンを立ち上げた時、ちょうど久賀が刑事部屋に現れた。
「おはようございます」
彼には珍しく顔色が悪く、目の下の隈も気になった。
彼は根古利の席に座らずに、雅季の左に位置する書類キャビネットに寄りかかる。
「寝てないんですか?」
雅季が尋ねると、久賀の、雅季を見下ろしていた視線が湯気を立てているコーヒーカップに移った。
「篠塚さんと同じくらい、よく眠れたと言いたいところですが」
雅季はため息をついた。
「頭の中が混乱して。整理できなくて。結局考えたところで、今の情報量じゃ何も閃かないのは当然ですけど」
「検死の写真を見ると、頭に残りますね」
図星だった。口にこそ出さなかったが、その残像は雅季の夢にまで出てきた。
「本部の会議で、捜査方針は出ましたよね?」
「私は参考人を当たっていきます。意外と数が出てるので」
その数と、有益な情報量が比例するとは限らない。だがそれはこの時点では考えないことにした。事件の幕開けくらいは希望を持っていたい。
雅季は目礼して、久賀の登場によって中断されたメールチェックを始めた。
科捜研からのメールを開いて「画像です」と知らせる。
雅季の背後から、久賀が肩越しに画面を覗いた。
「結構ピアスの数とか多いですね。ジェルネイルも派手で、髪もかなり明るいですし。特徴と言えるものは……このホクロくらいですかね」
改めて添付された写真を冷静に見ると、凄惨さがやや薄れて、現場では得られなかった気づきがある。
そして、血痕や汚れを落とされた顔は、痣が残っていたものの、顎の先の方にホクロが認められた。
「女子高生なら、それくらいは普通じゃないんですか? 私はよくわかりませんが。自己認証欲の塊みたいなものでしょう」
久賀にとって、重要な手がかりとまではいかないようだ。
「まあ、自己主張というのもあるでしょうが、そうですね、確かに図書館で見かけるというよりも、繁華街の方が似合いそうなタイプですね」
久賀がにわかプロファイリングを始めた。
「素行が悪いということですか?」
「先入観は避けたいですが、何しろ未成年ですから。念には念を入れて調べてください。生活安全課のデータベースはどうでしょう。補導のセンで何か引っかかるかもしれません」
雅季は頷き、すぐに内線を繋いで、生活安全課に要望を伝えた。
先日の捜索届けで該当したと思われた少女は、被害者より身長が五センチほど高く、対象からは外されていた。
久賀はやっと根古利の席に着くと、黙って他の資料にも目を通し始めた。程なくして、安全課からリストがメールで送られてきた。雅季は、素早くチェックした。
「あ、この子はどうでしょう。身長とあと、顎のホクロ……」
雅季は画面をボールペンで指す。
「
個人情報を読み上げながら、雅季の鼓動が速まる。
両親は父、
仁美は万引き、深夜徘徊などで三度の補導歴があった。久賀が読み上げ、携帯電話に両親の連絡先と、マップに住所を記録する。
まだ確定ではないが、十中八九アタリだと直感が訴えてくる。
——須田仁美。
しっかり記憶させるように、雅季は何度か繰り返し胸中でその名を呟いた。不思議なことに、名前がわかるとその存在がぐっと近くなる。たとえそれが死体であったにしろ。
「ご両親に、連絡します」
久賀が頷くのを見ながら、雅季は受話器を取っていた。
**
久賀は、雅季の運転する捜査車両で被害者の実家へ向かった。
通勤の混雑のピークは過ぎて、道路は空いていた。
住宅街に入る。この辺りは建売の一軒家が多い。ほとんどの家のベランダには、すでに洗濯物がはためいていた。
目的のマンションは四階建だったが、団地という方が正しいだろう。
道路に面してベランダ。一階部分は背の高い植栽が目隠しになっている。周辺環境は、周りは一軒家が密集し、先にはコインパーキングがあり、向かいは小さな公園だった。
雅季は公園の脇に車を停めた。
「木陰があってよかったです」
シートベルトを外した雅季が、体を捻ってリアシートからショルダーバッグを取った。その空気の流れに、彼女の爽やかなフレグランスが微かに香った。
こんな些細なことでも、久賀は彼女の隣にいることを意識せずにはいられない。
「どうしました?」
雅季が首を傾げている。
「いえ、ちょっと考え事を……」
久賀は慌ててシートベルトを外し、車外に出た。
須田の住むマンションにはエントランスはなく、一階部の壁に集合ポストがあった。302号室に名前を確認し、その奥のエレベーターに向かったが、ドアには「点検中」と札があった。札はあったが、作業員の姿はない。
仕方なく、階段を使った。壁にはヒビが走り、老朽化が目立つ。三階まで上がると、久賀は額の汗をハンカチでぬぐった。
先を行く雅季は始終無言だった。久賀は彼女の感情の揺れが手に取るようにわかった。
身元確認で被害者が割れれば良いが、その瞬間に遺族と対峙しなければならないのだ。それが事故ならまだしも、残忍極まりない事件だ。そして、犯人は逃亡中……。
「ここですね」
雅季の声に、久賀は現実に引き戻された。
ドアホンを鳴らしたが、反応がない。雅季がもう一度押そうとした時、中から微かに音がしてドアが開き、チェーンの向こうに、中年女性の顔が現れた。
母親の律子だろう。色褪せた緑のカットソーに、ベージュの膝丈のスカート姿だ。化粧気は無く、小じわが目立つ。
警戒するように、二人を訝しげに見ている。
「須田律子さんですね」
雅季が尋ねる。
「そうですが」と答えた律子の目に、さっと警戒が宿った。
「どなた?」
雅季が手帳を呈示しながら、捜査員で「お伝えしたいことがある」と告げると、相手の表情が一変、不安げなった。
「仁美さんは、娘さんですね」
「はい、仁美がまた何か……」
久賀は『また』を聞き逃さなかった。アタリ、だ。
「お気の毒ですが、仁美さんは亡くなられました」
律子が怪訝そうな表情になる。把握できないのも無理はない。
雅季はじっと相手の言葉を待っている。
しばらくして、相手は小さな声で「え」と言った。それきり言葉が出てこない。
「殺人事件がありました。仁美さんは遺体で発見されました。大変残念です」
雅季が感情を殺した声でゆっくりと言った。
ドアが閉まる。チェーンが外され、すぐにドアは大きく開いた。
「あの、どういうことでしょうか」
「仁美さんは殺人事件の被害者となりまして、亡くなられました。非常に残念です」
雅季は極力落ち着いて返している。こういう場合、相手に同情し過ぎても、事務的過ぎる対応も良くない。かなり神経を使っているはずだ。
「それで今、仁美はどこにいるんです?」
遺体がどこにあるかという意味だった。
「鳴海東署に安置してあります。身元の確認をお願いしたいのですが」
律子は、ニ、三度頷いたが、視点は定まっていない。混乱しているに違いなかった。
「行きます……どうしたら、いいですか」
「今からでよろしければ、署にご案内します」
律子が口の中でモゴモゴと何か言いドアを閉めた。雅季がドアを見つめながら、一つため息をついた。
「私がついてきた意味は、あまりなかったみたいですね」
久賀が呟くと、雅季が初めて久賀の存在に気付いたように、パッと顔を見上げた。
「いえ、心強いです。一人だと、どうしても遺族の方に引きずられますから」
まっすぐな眼差しから、それが本心だとわかる。久賀はほっとした。
「お待たせしました……」
律子は小柄な、見るからに合皮のハンドバッグを手にして、すぐに出てきた。
律子を後部に乗せた車は、鳴海東署に向かった。
雅季は律子を連れてまず捜査本部に寄った。久賀は会議室の入り口あたりで、律子に付き添っていた。
捜査本部は忙しく稼働している。
昼どきだが、休憩をとっている様子はない。特に、事件が起きてまもない時期はそうだ。しかも、この事件は発生からすでに時間が経っている。犯人にまんまと逃げられるわけにはいかないのだ。
雅季は幹部席にいた署長、副署長と始関に事情を説明していた。彼らがすぐに席を立ち、律子のもとにやってきた。
それぞれが神妙な表情で、お悔やみを述べる。
「須田さんを、霊安室にご案内します」
雅季が上司たちと久賀に目礼し、律子を連れて霊安室に向かった。
久賀は地検に戻ることにした。
捜査本部に検事が歓迎されないことは承知していたし、今の状況で自分ができることは何もなかった。
**
都市部から離れた、地方でも、さまざまな事件が発生している。東京や横浜地検の比ではないが、久賀も他の検事同様、担当しているのは雅季の事件だけではない。
今日もまた、朝一で強盗の被疑者の取り調べが終わった後、久賀は、
その時に、雅季から電話が入った。午後に須田家に話を聞きに行くという。昨日の身元確認の後は、とても話を聞ける状態ではなかった、と雅季は短く説明した。
「私も行きますよ。何時ですか」
「そこまでしていただかなくても、いいですよ。何かありましたら、すぐに報告しますし」
「邪魔はしません」
電話の向こうで、雅季が一瞬沈黙する。その姿がありありと目に浮かぶようだ。
色白の、卵形の小さな顔をやや傾け、黒目がちの大きな目は、自分になんと答えようかと思案しながら机上の電話を見つめているに違いない。艶のあるストレートの黒髪は、今日は下ろしているだろうか。
いや、暑いから一つにまとめているはずだ。
久賀が電話の相手に想像を膨らませていると、
「では、一時に」
ため息混じりに返答があった。
きっかり午後一時に迎えに来た雅季と、須田の家を訪れる。
昨日と同じ場所に車両を停めた雅季に、久賀は思い切って聞いてみた。
「私がまず、母親と話してもいいですか」
雅季はそれを予想していたのか、首を傾げて「まだ検事さんの出番ではないと思いますが」と切り返した。
通常、捜査の現場で検事が関係者から聴取することはほぼない。基本的に捜査は警察のテリトリーだからだ。
だが、雅季は結局「いいですよ」と承諾した。おそらく、断っても言い出した久賀が引かないことがわかっていたのだろう。
ドアを開けた須田律子は、昨日と違って、薄く化粧をしていた。
「どうぞ」
律子は伏し目がちに久賀たちを招じ入れた。その表情は見るからに硬い。
「すみません、主人が熱を出して寝ているので」
仁美の父親は、妻から不幸な報告を聞かされショックで寝込んでしまったのだろうか。
リビングに通された。訪問は伝えてあったので、片付けたのだろうが、物が雑然と収まっているキャビネットや、上に置かれたテレビの画面はうっすらと埃を纏っていた。レースのカーテン越しに弱い光が入っている。
クーラーから微風が吐き出されているが、なんとなくカビ臭が漂っている気がした。
律子に促され、部屋の中央のモスグリーンのソファに腰を下ろす。タバコの焦げ跡が数箇所、目に留まった。
「狭いところで、すみません」
一度、キッチンへ消えた律子が、盆に麦茶を乗せて戻ってきた。
二人の前にグラスを置き、自分も向かいに座る。
「今日はお時間いただき、ありがとうございます」
雅季が頭を下げ、久賀も倣った。
「こちらは久賀検事です。今回の事件を担当しています」
ここで、雅季が目の端で久賀の顔を窺う。久賀はその意図を汲み、口を開いた。
「この度は、ご愁傷様でした」相手の目を見て、しっかりと告げる。
「仁美さんのことで伺いたいのですが、よろしいですか」
久賀が確認すると、律子は「はあ」とため息混じりに答え、項垂れた。
「昨日、『今度は何ですか』とおっしゃられましたが、何か心当たりがあったのですか」
普通に考えれば、仁美の身元が割れたのは警察の手持ちのデータからだと思いつくだろうが、今の律子はそこまで考えが及ぶ状態ではないだろう。
「以前何度か警察のご厄介になりまして。だから、またそうなのかと」
「それは、どんな?」
「万引きと、深夜徘徊……、援助交際みたいなこともしていたようで……」
――パパ活か。その記録はなかったはずだ。久賀はその情報を頭の隅で走り書きした。
「すでにご主人には、お伝えしたんですよね?」
「ええ。でも主人は一昨日から熱を出して寝込んでいて……」
ふと、律子の視線が久賀と雅季を通り越して、二人の背後の引き戸に移った。では、父親の義行は、昨日もそこにいたのか。背後からは全く人の気配がしない。板戸を一枚隔てて、今もじっと聞き耳を立てているのだろうか。
普通なら、どんなことでも警察から事情を聞き出したいのは親の方ではないだろうか。まして、犯人がまだ捕まっていないのなら、警察を詰りに飛び出してきてもおかしくなさそうだが。
「では今日、一緒にお話を伺うのは……」
「ちょっと、無理だと思います。すみません」
再び、律子の目が伏せられ、久賀はそれ以上突っ込むのをやめた。改めて律子に意識を向ける。
「仁美さんですが、何か最近、ふさぎこんでいたとか、悩んでいた様子はありましたか」
相手は力無く首を横に振った。
「実は……あの子とは、もうずっと口を聞いていないんです。いつもフラフラ出歩いていてうちに寄り付かなくて。顔を合わせても私たちとは話をせずに、部屋に閉じこもって。もし、何かあったとしても私たちには話さなかったと思います。主人は娘のことを諦めていました」
律子からは、捜査に協力しようという様子が見られなかった。死んでしまったのは仕方ないと、どこか、全て諦め切っている感じさえした。
だが、ここで手ぶらで帰るつもりはない。久賀はやや語気を強めた。
「警察と検察はこの件を殺人事件として捜査を始めています。もし、娘さんのことで何か少しでもお話しいただけると、犯人につながる有力な手がかりになります。お願いします」
「そうは言っても……。お話ししたいのは山々ですが」
律子の視線は不安げに泳ぎ、落ち着きがない。
「では、いくつか質問させていただいていいですか」
相手は頷く。
「仁美さんは、いつ頃から家を空けるようになりましたか」
十七歳の少女が家に帰らずに一体どこで寝泊まりしていただろう。
少年少女の家出話は珍しくない。だが、仁美はなぜ家に帰らなかったのか。
律子はしばらく考えていた。昨日の今日で、まだ混乱しているのは当然だ。
「高校に入ってしばらくして。私が最後にあの子を家で見たのは……確か先月の頭頃です」
先月? 今は七月の半ばだ。一ヶ月以上、家に帰っていないのか。あるいは帰っていても、親が認識していなかっただけか。
「ご心配じゃなかったですか。ご両親から、警察に相談はしなかったんですか?」
それは雅季によってすでに調査済みだったが、久賀は聞かずにはいられなかった。
「初めてじゃないですから。前に警察に届けようとして一応電話をかけたら、係りの人に、少し待ってみろと言われまして、そうしたら翌日、本当にひょっこり帰ってきたこともあって。また恥をかきたくなくて……子供の監督が親の義務ってわかっていますけど……」
律子は、久賀が無言で見つめているのに気がつき、自責の念が芽生えたのか、居心地が悪そうに膝の上の両手を擦った。
「娘さんには、そのことで注意されたんですか」
静かに、雅季が尋ねた。
「ええ、そりゃあ。最初の頃は主人も怒りましたよ、何度も。でも、聞かないんです。学校に行ったきり、帰ってこない。それで外に出るな、学校に行くな、とは言えませんから」
母親は力なく笑った。いや、笑おうとして口元が歪んだ。もしかしたら、父親だけでなく母親もとっくに娘のことを見切っていたのかもしれない。久賀はふとそんな風に思った。
「何か家庭内で問題があったのでしょうか」
久賀は質問を重ねた。
「問題だらけですよ。それくらいの年頃の子で問題ない子っています? うちの娘だけじゃないと思いますけどね。毎日のようにテレビで見るじゃないですか。ニュースで、いじめとか、男に貢だとか、集団暴行だとか……」
律子の口調はほとんど投げやりだった。ショックによって感情の波に揺れているのだろう。
「でも、仁美の方も、こんな親に嫌気がさしていたのかもしれませんけど」
今度は、自虐的な口調だった。
「どういうことです?」
律子は、再び長く息を吐く。
「検事さんはここに入った時、まず部屋が汚いと思いましたよね? それからすぐに私を見た。わかってますよ。どう思ったかなんて。それくらいわかります。子供達も、そんな目で見てましたから……。私が、だらしない母親だと思ったんじゃありませんか?」
「いえ、それは誤解です」
図星を突かれたが、久賀は強く否定した。
「そうですか? 検事さんたちは貧困家庭なんて今まで見たことがないでしょう。新聞やテレビで言葉を認識しているだけで、実際目にして、驚いたのが本音じゃないですか?」
微かに声が震えている。
「私たちだって、持ち家があったんですよ。庭付きの。主人の稼ぎだってよかったんです。電機メーカーの、役職も一応部長補佐で真面目に働いていたんですよ。 近所づきあいだって、あの子だって友達がいた。それなのに」
律子は一旦言葉を切った。
「なのに、合併で……。あっさりクビにするなんて酷いじゃないですか。ずっと会社に尽くしてきたんですよ? それで、結局家も車も売って、こんな狭いマンションで……まさに天国から地獄です。主人はすっかりやる気をなくしまして。会社に、『必要ない』と言われたようなもんですからね。なんとか子会社に嘱託の口があったんですけど、鬱になってしまって。今は抗うつ剤飲んで病欠扱いです。物価や光熱費だってどんどん高くなるし……、あの子がこんな家から逃げ出したくなったのも、わからなくないですよ……」
一気に話し、最後はほとんど涙声だった。
「仁美さんの様子に変化があったのは、生活が変わってからということですか」
静かな雅季の声に、律子は我に帰ったように顔を上げた。バツが悪そうに顔を俯かせ、小さく頷いた。
「あの子は難しい子でした。あの子が高校一年の夏休みにここに引っ越してから、最初の頃はずっと部屋に引きこもっていて……。こんな話、お役に立つとは思いませんけど」
久賀はむしろその反対だと思った。相手がここまで心の内を晒したなら、こちらのものだ。久賀は心底同情するように声を和らげた。
「須田さんは、仁美さんが家出をした先月から、一度も娘さんと連絡を取ろうとしなかったんですか」
「してません」
即答に久賀は逆に戸惑った。その理由を律子はすぐに明かした。
「私たちは娘にケータイを持たせていませんでしたから。でも、なぜか持っていましたね。何度か、部屋から話し声が聞こえました。通話料はもちろん、こちらは余裕がないので出せませんし、どうやって払っていたのかわかりませんけど」
「そこは詳しく聞かなかったんですか」
「聞きました。でも、古いのを友達にもらったとか言い張るだけで」
それで納得してしまうのか。だが、今までの話から、仁美の方も一筋縄ではいかないような印象が伺えた。
「番号はわかりますか」
「いいえ、教えてくれませんでした」
そうだろう。久賀は胸中でため息をつく。話を聞けば聞くほど捜査難航の気配がした。
「つまり、須田さんは仁美さんが連絡を取り合っていた相手を一人も知らないんですね?」
「だから、会話がありませんでしたから。さっきも言いましたけど」
律子は眉をひそめた。
それで簡単に諦めたのか? それでいいと思っていたのか?
逃げていたのは本当に娘なのか? 彼女と話し合おうとしないで逃げていたのでは?
久賀の頭に疑問が溢れ出し、無意識に膝の上で拳を強く握っていた。だが、必要な情報をなるべく多く収集するのが、今やるべきことだ。
「写真は、ありますか。捜査のために、あると助かります」
「写真って……高校の入学式の時のしかないですけど。ちょっと、ケータイにありますので」
律子は一旦キッチンに引っ込んだ。
その時は、家庭円満だったに違いない。校門の横に母親と並ぶ制服姿の仁美は、メイクはやや派手だったが、可愛らしい少女だった。律子はそれをその場で久賀に送った。
「学校には、ちゃんと行っていたようでしたか」
「たぶん……行っていたとは思いますよ。一度、担任から電話がきましたけど、腹痛で休むと言っておきました」
雅季が隣でやや身を乗り出した。バトンタッチだ。
「仁美さんには、お兄さんがいますね。ご長男の
両親とは不仲でも、兄とは仲が良かった可能性もある。
「はい。敏弥は今、いませんけど」
不在を強調するような口調を、久賀は聞き逃さなかった。
何か兄から漏れて都合の悪いことでもあるのだろうか。
「きょうだい仲は良かったですか」
「いいえ、悪かったです。昔はそうでもなかったですけど、中学あたりから顔を合わせては喧嘩ばかりで。息子も仁美のことは何も知らないと思いますよ」
早々に望みを断たれ、久賀は落胆した。だが、この家庭は一体どうなっているのだろう。きょうだい仲が悪かったことも、親として黙視していたのはどうなのか。須田家は家族としてバラバラだったということか。
余計なことだが、そう考えずにはいられなかった。
雅季が広げていた手帳を閉じた。
これ以上律子からは何も出てこなさそうだった。
すでに、娘の死という現実からも早々に逃げ出しているように久賀には思えた。
しかし、まだ仕事は残っている。久賀は改めて訊ねた。
「少し、仁美さんの部屋を見せていただけますか」
律子からはほとんど得るものはなかったが、部屋の方が仁美の人物像を語ってくれる可能性あった。
「……どうぞ」
先に立った律子は、サイドボードの横に位置する、磨りガラスの嵌ったドアから廊下へ出た。エアコンが効いていた部屋と遮断されていた廊下に出ると、久賀たちを熱気が襲った。
律子は二人を先に促してから、ドアを閉めた。
左右に一つずつドアがある。向かって右を開ける。
「あの……」
ドアノブに手をかけた律子は、ためらいがちに雅季を見た。今来たリビングの方を一瞥する。話していいのか迷っているようだ。律子が再び視線を戻すと、雅季は黙って頷いた。
「以前、娘が部屋で男友達といるところを、夫が見つけてしまって。それで、手がつけられないほど激怒したことがありまして。ちょっと、相手の方に怪我を……」
一応、調べられてまずいことは先に申告しておこうと思ったのか。詳細を聞こうと久賀が尋ねるよりも雅季の方が早かった。
「それは男女関係……、ということでしょうか」
雅季が性的交渉を仄めかすと、律子は理解したように首を縦に振った。その話で久賀の中の仁美のイメージがまた少し変わる。
「すごい剣幕で怒鳴り散らしていましたし、後で私も、激しく叱られました」
律子はそれ以上語らず、ドアを開けた途端、顔をしかめた。先に中に入って、窓を開ける。そしてベッド脇にぽつんと立っていた、小型の扇風機のスイッチを入れた。「ぶーん」と低い音がして、首が動き出す。
それで部屋にこもった熱が急激に和らぐことはなかったが、空気の流れを感じ、久賀はほっとした。
律子は「どうぞ」と短く言って、リビングへ戻って行った。
久賀は、ドアを閉めると同時に「参りましたね」とこぼした。
「そうですね」雅季もため息交じりに同意する。
「娘に、というか子供に全然関心がないんですね。あれだけ何も知らないとは……。一緒に暮らしてなくても、うちの母親だってもう少し私のこと知っていると思います」
雅季はショルダーバッグを壁際に置き、手袋を出した。一組を久賀に渡す。
六畳あるかないかの部屋はベッド、カラーボックスと小さめのローテーブルだけで一杯だ。ベッドは整っていたが、小物が多く、全体的に雑然としている。カラーボックスの下の段にはポーチやバッグ類、中段には一目見て安物とわかる派手なアクセサリー、上段にはコスメやビューラーに混ざってペンなどが、ごちゃごちゃと並んでいた。上には赤いプラスチックの置き時計がある。
デジタルの数字は『13:02』。
ローテーブルの上にはスナック菓子の袋、小さなスタンドミラー、漫画が二、三冊放置されている。カップの丸い汚れが、いくつかついていた。喫煙していた痕跡はない。
ベッドの足元にはハンガーラック、ベッド下は引き出しが二つ、雅季が開けると、下着やティーシャツなどが収納されていたが、空いている場所もあり、物持ちではないようだった。
「あの母親で、娘が嫌になって逃げ出したくなる気持ちもわかる気がします」
カラーボックスから調べ始めた雅季が、久賀に話しかけた。
「あの話だけでは、全然見えてきません。ただ、残念ですが、仁美の素行も決して良いとは言えなさそうですね」
両親の印象も決して良いとは言えないが、彼らだけに彼女の死の責任を押し付けるのは、まだ早計だろう。
「悪い環境にいるほど、大なり小なり事件に巻き込まれる可能性は高くなりますしね」
「ええ」
「外出ばかりしていたのは本当みたいですね。生活感がないというか、私物は結構ありますがあまり使われていないような」
「手がかりになるようなものが、あればいいんですけど」
久賀はハンガーラックの服を右に左に分けて見ていくが、服はその半分ほどしかかかっていない。カバーをかけられたダッフルコートや冬物のジャケットはあるが、夏物は少なかった。
「もしかしたら、着替えをまとめて持って行ったのかも」
ベッドの前に膝をつき、収納引き出しを調べていた雅季が言った。目をやると、確かにセーター類や数枚のカットソーなどを残して空きがある。
「女子高生にしては服が少なすぎると思いませんか? これくらいの年の子だと、とにかく毎日違うものを着ている気がします」
久賀は女子高生のファッション事情に関しては、詳しくない。
「いや、市場ですと制服の方が価値が高いですけどね」
「あぁ、確かに……」
久賀の意味するものを汲み、雅季は同意した。
「母親の話ですと、経済的に余裕がないようですし、小遣い欲しさに、不要なものはネットで売っていたとも考えられますよ。そう言えば、篠塚さんは、ものを手放すのは開運行動だって言ってませんでしたか」
久賀を見上げた雅季は、不思議そうな表情を浮かべている。唐突すぎたか。
「今の人生が嫌で、運気を変えたいと思ったのかもしれませんし」
久賀が自らフォローすると、雅季の目元が緩んだ。
「女子高生が開運行動はどうかと思いますが……、売ったというのは有り得ますね。お金はいくらあっても足りない年頃でしょうし」
久賀の中で焦りが生まれた。自分たちはまだ須田仁美について何も知らない。
おそらくあの親子はだいぶ前から、関係がうまく言ってなかったのではないか。
久賀は顔を上げ、再び雑然とした部屋を見回した。
この部屋自体も、ずっと前から彼女に見捨てられているように思えた。
「久賀さん、ここ、見てください」
ドアの前で雅季が呼んだ。隣に立って指のさす箇所を見た。
「
長さは十センチにも満たない、横軸をスライドさせる閂錠がドアの上から三分の一ほどの場所につけられていた。
簡易型だが、外からの侵入を防ぐには十分だ。
だが、それが無理やりビスを外されたような傷がドアに引っかき傷となって残り、錠の片方が取れてぶら下がっっている状態なのが、二人の注意を強く引いた。
「これ、怪しいですよね」
嫌な予感だ。そこに残された抵抗と破壊が、久賀の直感に呼びかけている。刻み込まれた違和感。
その結論に至るには早すぎると思ったが、壊された錠を見て一気にその考えが結論まで加速した。
それは雅季も同じようだった。
「令状、取れますか」
久賀は顔をしかめた。錠だけでは彼女の死因に直接繋がらず、令状を申請する根拠としては弱い。
須田仁美の体に残った暴行の痕跡が家庭内の虐待だったとしても、それを裏付けるものはまだ何も出ていない。繋げる点が少なすぎる。
久賀が黙っているのを見て、雅季がため息をついた。
「まだです。まだ何もかも足りない。もし、私の考えていることが篠塚さんと一緒なら、とりあえず父親に話を聞くべきでしょう」
まさにその直後、部屋の外で足音と声が聞こえた。
「警察はまだいるのか? 一体何を調べてるんだ」
雅季が先に部屋を出て、久賀はその後に続いた。ドアの前で父親と対峙する。
小柄で、浅黒い顔に皺が多く、短髪には白髪が目立つ。紺のTシャツは色が褪せ、スウェットのズボンはくたびれていて、膝が出ていた。
「今、おいとまするところでした。お休みのところ、すみませんでした」
雅季が言うと、相手は虚をつかれたように、一瞬目を泳がせた。だがすぐに雅季に向いた。
「刑事さんたち、その部屋で何を探し回っているんです? 私らは仁美に何度も注意した。でも、あの不良娘は全く親の言うことを聞きゃあしなかったんです。勝手に出て行って、勝手に殺された? 全部私らの責任ですか? 私ら、どうしたら良かったっていうんです……」
父親の語尾は震えていた。
動揺と後悔。悲しみと怒り。それらの全てが雅季に向かっているように感じ、久賀は彼女の前に出た。相手は胸を反らすようにして、硬い面持ちを変えずに久賀を見上げた。
「仁美さんは殺害されたんです。それでも父親のあなたは娘さんを不良呼ばわりですか?」
「なんだ、あんた。私らの何を知ってるっていうんだ。もしかして私らを疑っているんじゃないんですか? そうじゃなきゃ、こんなに調べ回らないし、遺族にそんな物言いはできないはずだ」
相手の、久賀を睨む目が血走っている。
「涙の一つでも流せばいいのか? でもね刑事さん、本当にあの娘だけは、どうしようもなかったんですよ……」
父親は体の横で拳を握りしめた。直後、ばんとドアを叩くと、そのまま廊下にくずおれた。律子が走り寄り、うな垂れた夫の肩に手をかける。
雅季が久賀の腕に触れ、顔を寄せて囁いた。
「久賀さん……これ以上は」
それでも、久賀は動けなかった。何か……父親をもうひと押しすれば、何か見えそうな気がした。
「久賀さん」
今度は強く腕を引かれる。その時、久賀の携帯電話がスーツのポケットで鳴った。
「電話です。行きましょう」
それでも久賀はためらっていた。雅季の言うことは正しい。また日を改めて出直せばいいのだ。だいたい、娘を失ったばかりの両親にこれ以上の聞き取りは酷なのも承知していた。
だが、久賀にはどこか納得いかないものがあった。
再び雅季が腕を引いた時、彼はやっと諦めた。
雅季が上着から名刺を出し、廊下に膝をついて律子に渡した。
「またお話を伺うと思います。何か仁美さんのことで思い出しましたら、どんな些細なことでも、ご連絡ください」
この両親は連絡してくるだろうか。望み薄のような気がした。
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