第3話
雅季は、H大学病院から送られてきた検死解剖結果に目を通した。
被害者の死亡推定時刻は八月二日、午後九時から十一時の間。
『――骨折、打撲、擦過傷は全て生前に受けたもの——』
鳴海東署に着任して四年、ここまで酷い死体は見たことがない。二月の連続殺人事件は、遺体の心臓を摘出されてはいたが、それを除いてはどの遺体も綺麗なもので、体に暴行の跡は全くなかった。
——複数箇所の骨折、主に腕や鎖骨、指など。
どうしたらこれほど折れるのか。それこそ骨の折れることだ。
「何をしたら、ここまでできるんでしょうね」
雅季の疑問を、久賀が口にした。
久賀は夕方になって、鳴海東署に訪ねてきた。
本来、根古里の席である雅季の向かいに座り、共に書類を確認している。
報告書には、内臓損傷や肌のやけどなどを写した何枚もの写真に混じって、髪に付着していたというタバコの吸殻の写真が添付されていた。現物は証拠品として鑑識にて分析中。
「マルボロか……普通ですね」がっかりしたように久賀が呟いた。
「もともと現場にあったものでしょうか。あと、爪の間から検出された土……何かこれといった特徴があればいいのですが」
カラープリントされた写真の数も結構なものだ。それらのどれもが、目を背けたくなるような痛々しいものだ。擦過傷はもちろん、裂傷や火傷は全身に及び、性器の損傷からも暴行の跡が見受けられた。そして、腹部には犯人のものと思われる体液が残留していた。
「推定年齢、十五歳から十八歳って……」
書類をデスクに置き、久賀が重いため息をついた。雅季も、同じことを思っていた。
「事故か他殺か……」
久賀は雅季の言葉に特に反応しなかった。
ただ、じっと雅季を見つめている。居心地が悪くなった雅季は、ふと目を伏せる。「大丈夫ですか」と久賀が訊ねた。
その言葉に、自分が疲れていることを思い出す。疲労だけではない。久賀は臭わないと言っていたが、体にはまだ腐臭や被害者の悔恨が纏わり付いている気がする。目に焼き付いた惨殺死体、血なまぐさい検死写真。不意に、死体の蛆虫が手の甲を這う錯覚にぞくりと鳥肌が立った。
「大丈夫です。できれば、家に帰ってシャワーを浴びたいですね」
相手が訝しげに目を細めた。その視線に、雅季はふと先輩で同僚の根古里を思い出した。彼は経験豊富な刑事で、自分の限界も他人の限界にも敏感だった。雅季が無理をしているのを彼女よりも先に察し、今の久賀のように声をかけてくれていた。
「まあ、その言葉を信じるとして、ではもう少し続けましょうか」
「はい」
雅季は、手帳を開いた。地取りの刑事たちから集めた情報をまとめてあった。
「被害者は犯人の男に数日間監禁されていました。遺棄されて最低でも四日は経っていることから、殺害されたのは先週の金曜と考えてもいいでしょう」
「そちらは、男だと断定するんですか?」
その線引きに、なんだか見下されているように聞こえ、雅季は検死報告書を指先で叩いて示した。
「ここにある通り、彼女は激しい暴行を受けているんですよ。どれが死因か断定できないくらいほどに。犯人の体液も残されていますし」
雅季は自分の言葉に急に息苦しくなる。
「今のところ、内臓損傷による出血性ショック死となっていますが……」
久賀は腕を組み、頷いた。
「他には?」
「タバコの吸殻が髪に付着していました。DNA鑑定に回しています。三、四週間かかるそうです」
久賀は目を見開いた。
「なんでそんなに時間がかかるんです? これは殺人事件ですよ」
「どうも、優先順位があるようで……。そちらは始関係長が上と交渉中ですが、どうでしょう……」
「それは期待できそうですね」
言葉に反して口調はずいぶん平淡だ。雅季はその態度にいささかムッとしたが、顔には出さず、続けた。
「あとは被害者の爪の間から採取された土。犯行現場のものではないかと見ています。それから首のやけどは、おそらくスタンガンなどによってできたものだと……。抵抗の意思を削ぐ目的だと思われます」
「身元証明につながるものは出ましたか?」
それがあるなら、一番に報告しているのを承知の上で、一応確認程度に聞いているのだろう。
「これといったものはありません。この、推定年齢だけですね」
命を落とすには早すぎる少女。
「青鞍さんが捜索願いの方、チェックしましたが、十代の少女でしたら、三週間前に一人届けが出てますね。ただ、顔が判別できるかはちょっと」
「そうですね、この状態だと……残念ながら」
久賀は腕を組んだまま、天井を仰いだ。少なすぎる情報を整理し、彼なりに事件の骨子を組み立てているのかもしれない。やがて雅季に向き直った。
「篠塚さんの見解は?」
「猟奇殺人、精神障害、愉快犯……狂っているとしか思えません。普通の神経でこんな凶悪なことができるなんて」
「計画的犯行でしょうか」
「もし、気分で人を殺せるなら、それは精神障害の可能性が高いと私は思います」
久賀は目を瞑り、一呼吸の後でゆっくりと目を開けた。雅季はそれを同意と受け取った。
人を連れ去り、まして何日も生きたまま拉致するのは簡単ではない。誘拐して拘束したところで、拉致する時間が長ければ長いほど獲物が逃げる可能性や、人に気づかれるリスクも高くなる。
それは少し考えればわかることで、無計画で犯行に及ぶだろうか。もしくは、最初に怪我をさせてしまい、一時的に連れ去ったのかもしれない。けれど、その時点で病院や警察に通報をしなかったということは、犯人は被害者をどうするか決めていたはずだ。そこから策をめぐらし、逃げ切ろうとしている。
――何れにせよ計画的犯行。
だが、雅季の直感は後者ではないことを、すでにうっすらと感じていた。破壊的行為、集団暴行。そんなニュースに巷が騒ぐのも、今回が初めてではない。
「この暴行からもわかるように、おそらくこれが犯人にとって初めてではないと思います。ここまで酷い殴る蹴るという行為は慣れというか、とにかく今までも喧嘩など、暴力を振るっていた者ではないかと」
久賀の推測に雅季は頷いた。
「明日、過去の傷害事件に関する前科者を青鞍さんに洗ってもらいます」
「お願いします。それから?」
「捜査本部も立ちましたし、さらに詳しい捜査方針は明日決まると思います。ただ、犯人はあの空き家の存在を知っていたのではないかと。死体を探す場所を探していて、偶然見つけるとは考えにくいですし。そうすると、あそこに出入りしていた人物を調べれば何かわかるような気がします」
久賀は小さく顎を引き、それからしばらく二人は向かい合ったまま、それぞれの思案にふけっていた。
そこへ、バタバタと複数の足音がし、外を回ってた捜査員たちが刑事部屋に入ってきた。その中の青鞍が久賀に気づいて足早に近づいてきた。
「久賀さん、お疲れ様です。もうコンビ結成ですか!? さすが仕事早いですね!」
久賀は隣に立つ青鞍を、不思議そうに見上げた。
「捜査はもちろんしますよ。でも、篠塚さんは根古里さんと……そういえば、まだ戻ってないんですか?」
「根古里さんはですね、先週倉庫荒らしの現場で、犯人グループのの一人と揉み合って階段から転落して足首骨折です。一応全治三週間とのことで、自宅待機なんですよ」
「えっ、大丈夫なんですか?」
「まあ、単純骨折らしいですけど、さすがに前線は無理ですよね……あ!」
何か思い出したように、青鞍の口が丸く開く。
「そういえば、二月の時も根古里さんいませんでしたよね。確か。そうだ。だから久賀さんが篠塚さんと組んで……。ていうか、ある意味、根古里さんは運がいいっていうか悪いっていうか……」
話好きの青鞍は普段雅季が相手にならないだけに、水を得た魚のように喋り出す。
また声が大きいので、さっきまで静かだった刑事部屋で話は筒抜けだ。
「青鞍さん」
他の課員の視線を感じて、雅季が小声で呼びかけると青鞍は「で、篠塚さんは早速、強力な応援引き寄せちゃったんですね」と、満面の笑みを浮かべる。
「引き寄せてません! 今日は初動の確認だけで……。だいたい検事だって他の事件で忙しいんですから……」
「いえ、なんとかなりますよ」
青鞍を追い払うように「しっしっ」と手を振る雅季を尻目に、久賀はきっぱり答えた。
手を上げたままぽかんとする雅季に微笑し、頷いた。
「わかりました。では、全力をあげて早期解決しましょう」
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