第2話


 青鞍は現場に残り、一人署に戻った雅季は、始関のいる係長室に直行した。

 始関が、パソコンをに留めていた視線を雅季に向ける。

「お疲れさん。これ、大家の情報。空き家の管理はこの不動産会社。これが連絡先」

 差し出された一枚のメモを受け取る。

「大家さんはどんな感じでした?」

「不審なところは特になし。やはり動揺してたが、事件どうのって言うより、清掃はどうなるかとか、臭いは消えるのかとか破損個所の費用はどうなるとか、その辺りを気にしていたな」

 まあ、普通の反応だろう。逆に事件に興味を持って干渉されるよりはましだ。

「他に報告上がってますか?」

 始関はサッと画面に目を走らせた。

「特に目ぼしいものはない。マンション建設計画があの辺りにはあって、一応あの一帯の住民は反対しているが、売りたい人も中にはいるのは事実で、もしかしたら嫌がらせということも」

「嫌がらせで死体捨てますか」

「捨てないよな」

「それにしても、まあ、マンションが建ったところで、田舎は田舎だからな。あそこは駅からもバス停からも距離があるし、売れるかどうか」

 雅季の頭に、畑の中にぽつんぽつんと散らばった民家が浮かんだ。

「では、このまま身元確認、マル害の関係者の洗い出し、周辺の地取りの範囲も広げる」

「了解しました」

 雅季は胸騒ぎを覚えつつ、刑事部屋の自席に戻った。

 なんとなしに机上カレンダーに目をやる。

 八月九日、火曜日。

 それから雅季はパソコンを立ち上げ、メールをチェックする。未読メールが並んでいるが、特に急ぎではない。

 青鞍からの最新メールを開き、添付されたURLを開く。

 事件は、ネットニュースですでに取り上げられていた。だが、まだ警察でも何も掴めていない状態で、事実以外の情報はなく、当然内容は乏しい。

 雅季は目を閉じた。すぐに現場の光景が浮かび上がり、臭いまでも蘇る。

 ——彼女は、壊された。きっと、体だけではなくその過程で心も壊されていたはずだ。犯人の強烈な激情で。怨恨? 嫉妬? ……愉快犯?

 あれだけ人間一人、しかも少女を破壊する動機はなんなのか。明らかに、暴行は繰り返されている。苦しむ相手を前にして、どれだけそれを持続させられるのだろう。

 被害者の身元はまだ不明だ。彼女のご両親は一体どんな気持ちになるのだろう。犯人は、彼女だけではなく、彼女の家族の人生も破壊したのだ。

 胸が苦しくなり、雅季は目を開けた。

 ぼんやりとしていたパソコンの画面に焦点を合わせたところで、青鞍が戻ってきた。

「お疲れ様」

 声をかけた雅季を見て、青鞍は察したように「辛いっすよね」と言った。

 彼のデスクは雅季のはす向かいだ。椅子に、脱いだスーツのジャケットをかけ、どさっと座る。タイトな白いワイシャツに、筋肉質の体格が際立つ。

 青鞍は雅季と同じく巡査部長、二十七歳。身長は、170センチあるかないかで男性にしては小柄だが、体脂肪率12パーセントの鍛え上げた体に自信があるのか、彼のスーツは常に体の線が映えるようなものだった。短い前髪をワックスで立てていて常に溌剌としている。

 彼が病欠した記憶は一度もない。古株の刑事たちからは『体力馬鹿』とからかわれる青鞍が、実は鋭い洞察力の持ち主であることは、雅季は知っていたし、非常に信頼もしていた。

 常にポジティブマインドで、捜査一係のムードメーカーだ。

「まったく、やばいですね、この事件。殺人なんて、俺三回目です」

 鳴海東署に赴任する前に一度、そして二月の連続殺人事件に続いて、今回だという。

 青鞍は両手を頭の後ろにやり、椅子に背を預けた。盛り上がる上腕二頭筋で、シャツがはち切れそうだ。

「あ」

 と、青鞍は短い声を出し、すぐに雅季の方へ身を乗り出した。 

「そういえば篠塚さんのお休み中、何があったか知りたくないですか?」

 含む口調に、雅季は小首を傾げた。

「なんですか? まだ事件……?」

「検察庁支部の奈須なす次席が亡くなって、大阪から誰か来るらしいですよ。係長情報ですけど」

 久賀から話を聞いていたが、雅季は相手に合わせた。

「そんなに早く決まるものなんですか?」

「さあ、代理みたいですけど、自分はそこまで詳しくわからないです」

 始関が地検の事情にそこまで通じているのか、と感心していると、「あ、奈須次席って、なんか始関さんが個人的にお世話になった人らしいです」と青鞍が付け足した。

「でも今度の人、女性らしいんですよね。久賀検事がやりづらくないといいですよね。あの人異色っていうか、検察でも色々逸脱しているじゃないですか。目をつけられていじめられたりして」

「それは、上司が女性だからですか?」

 雅季が相手の目をまっすぐ見ていうと、青鞍はハッとして姿勢を正した。

「いえ、自分は別に篠塚さんのことじゃなくてですね、一般論っていうか」

「わかってます」後輩の慌てぶりがおかしい。

「でも、その話なら聞きました」

「え、お休み中に? わざわざ係長が他所よそさんのことで連絡するもんですか?」

「いえ、独自の情報源があるんです」

 青鞍が訝しげに目を細め、すぐに「あー」と納得したような声を上げた。

「それって、内部に詳しい、かなり個人的な情報源ですよね?」

 雅季は青鞍を睨んだ。

 半年前の二月、久賀と組んで連続殺人事件を解決してから、青鞍は久賀のことになると、雅季に絡んで反応を楽しむ節があった。

「そんなことよりも、この事件に集中しないと」

 一瞬青鞍は白けた顔を見せたが、すぐに真顔で言った。

「すみません。とりあえず鑑識の結果待ちなんですけど、先ほど送ったメールは見ました? 記事の一つに、性的暴行目的を主張するものがありましたけど」

「はい。見ました」

 急に雅季の胃が重くなる。

「篠塚さんもそのセンだと思いますか」

「まだなんとも言えませんね。とにかく身元も割れないことには」

「あの空き家には人の出入りが結構ありましたからね。全て洗うとしたら相当大変だし、特定もかなり難しいでしょうね」

「捜査本部がたてば、応援も来ますし、諦めるのはまだ早いですよ」

 それでも雅季はあの荒れた部屋を思い浮かべ、ため息をついた。

「そうだ。ボヤの件は? 関係ありますかね」

 青鞍が手帳を広げて答えた。

「数ヶ月と間が空いてますし、違うと思います。ただ、その頃から住民の方が夜間のパトロールを強化しているらしいので、その辺りで何か出て来るかもしれません」

「そうだといいんですけど」

 被害者の身分を証明するものは無し、目撃者もいないとなると身元割り出しはかなり困難だろう。たとえ少女の捜索願届が出されていたとしても、あの死体の状態で家族も判別できるだろうか。

 その時、刑事部屋に制服姿の絹田ロナが姿を見せた。所属は総務課で巡査。年齢は確か青鞍の一つ下の二十六歳だ。

 マッシュルームカットが似合う、目の大きな女性警察官はまっすぐ青鞍のデスクに来きた。

「お忙しいところ、お邪魔しまーす」

 快活な声に、澱んでいた空気が一変した。

「署長から、捜査本部設置の指示が来たんですけど……」

 ロナが指で天井を指し、場所は上の講堂だと示唆する。

「あっ、はいはい、力仕事ですね! もちろん、手伝いますよ」

 青鞍が腕まくりをして立ち上がり、「じゃ、さっさと済ませて来ます」と雅季に断ってロナの後をついて行った。

 二人が去ると、雅季は再びパソコンの画面に向かう。送られてきた、まだ数少ない現場の報告書に目を通していると、捜査員の一人が書類を届けにきた。

 そこには参考人として、前科者の名前をリストにしたものだったが、今回の事件に該当するものは無し。一応、情報共有ということか。

 デスクの電話が鳴った。鑑識からで、犯行現場はやはり発見された空き家ではなく、死体は殺害後に持ち込まれたという報告だった。

 受話器を戻した雅季のまぶたに、再び少女の死体が浮かぶ。雅季はそれを見下ろしている。腐乱して判別のつかなかった顔が、鼻、唇、目とだんだん形成をなし、最後に雅季のそれになって、濁った目は彼女をぎょろりと見返した。

 その時、まだ手をかけていた電話が再び鳴り、雅季ははっと我に返った。受話器を持つ手が汗でじっとりと濡れている。内線は始関からだ。

「はい、篠塚です」

 雅季は肩で受話器を挟む。

 まだ動揺に震える手で、上司からの捜査の指示を一つずつメモしていった。

 

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