第1話

 雅季が現場に着くと、すでに二台のパトカーと鑑識のワゴンが、規制線で周りをぐるりと囲まれた一軒家の前に停まっていた。

 玄関と庭は、野次馬よけのビニールシートで目隠しがされている。

 後輩である、青鞍沙武あおくら さむの運転するパトカーから降りると、革靴の下で道路の砂利が音を立てた。

 一夜明けてもまだ残っている熱が、アスファルトからじわりと立ち上っている。

 現場は管轄内ギリギリだ。辺りの風景はなだらかな山に囲まれた畑に、連立するビニールハウス。

 パトカーを止めた道路脇の畑には、赤く色づき始めたトマトがたわわに実っていた。

 民家はその広い景色の中にぽつぽつと立っている。道端や畑の畔道には「マンション建設反対」の登りが立っていた。

「俺、先に行ってますね」

 青鞍に声をかけられ、雅季は目で応えた。 

 現場となったこの家も、畑に囲まれるように立っていたが、他と違うのは、畑は全て乾いた土を晒していることだった。家や石塀もなんとなく傷んでいるように見える。どう見ても空家だ。

 規制線の外では、係長の始関暁穂しせき あきほが制服警官と話している。

 始関は捜査一係の係長である。三十八歳、独身。

 父親は警察庁幹部で、始関は複雑な家庭の事情により、高校までは母親と共にアメリカで育ったバイリンガルだという。

 キャリア警察官で階級は警視だが、なぜか田舎の所轄でくすぶっているのは、どうやら過去にある事件で捜査方針を巡って父親と衝突、その時の軋轢により、異端者として出世路線から弾かれたとか、見せしめとして島流しされたとか、そのあたりは色々な噂が飛び交っていて、雅季には本当のところは誰もわからなかった。

 そのあたりの話は、警察の階級社会ではそう珍しくもないだろうが、始関が噂になるのはやはり、その飛び抜けた美貌とモデル並みの長身が、悪目立ちするためだった。

 刑事小説などでは、刑事は概ね強面だったり、目つきの鋭さが強調されるが、始関は目元は涼しげで、常に笑みを浮かべているかのように、口角が上がっていた。

 髪型は耳をすっきり出した坊ちゃんカット。

 さすがに刈り上げとまではいかないが、このヘアスタイルは始関のためにある、と言っても過言ではないほど、似合っていた。

 また、当の本人は自分の噂などいたって気にしていないようで、毎日溌剌としていた。

 今日も、こうして張り切って(出動の必要はないが)現場に臨場している。

 青鞍が彼らの脇を通る時挨拶をして、二言三言交わして行った。そんな光景が、始関一人によって刑事ドラマの現場のように見えてしまう。

 本当にこれが撮影ならいいのに。

 雅季が近づくのに気がつき、始関は殺人現場に全くそぐわない、爽やかな微笑で出迎えた。

「おはようございます。遅くなってすみません」

 出勤前の雅季を青鞍が拾ってくれたのだが、朝の渋滞にはまって出遅れたことを詫びる。

「ああ、まだ鑑識が動いてるから邪魔してもあれだし、大丈夫」

 始関はそう言い、近くにいた刑事数人を呼び止めて現場状況を雅季と確認した。

 刑事たちが持ち場に戻ると、始関は雅季に向き直った。

「呼び出して悪いね。休み、今日までだったのに。ほら、根古里ねこりくんがダメだから……」

 雅季の相棒である根古里警部補は、先週倉庫荒らしの現場で犯人グループの一人に抵抗された際、揉み合って共に階段から転落、全治三週間の怪我を負って休暇扱いになっていた。

「まあ、しょうがないです。怪我ですから。で、先ほどの、死体の状態って……」

 始関は短いため息をついた。

「変死体。少女、全裸、死後数日経過。この気温だ。腐乱が進んでいる。かなりひどい」

 始関は鼻に皺を寄せた。

「殺害現場はここですか」

 始関は肩をすくめた。

「鑑識の報告待ち」

 雅季は頷いた。「通報者は?」

「この家の持ち主。この辺りの地主だ。もう農家は引退して、畑は人に貸したりしているそうだが、たまに犬の散歩がてら家を見に来ているそうだ。家の近くまで来た時、いきなり犬がリードを振り切って走り出したらしい。それで、遺体とご対面。僕が聞いたのはそこまで」

 雅季は顔をしかめた。

「犬は遺体に接触したんですか」

「地主は、それはないと言っている。車の中でまだ聴取してる」

 始関は前方に停まっているパトカーを顎で示した。

 犬も、だろうか?

「通報者が死体の人物に関して何か知ってそうでした?」

「いや。というより腐乱がね……そこまで近づけないんじゃないかな。あの臭いじゃあ……」

 上司の真っ直ぐな鼻梁の上で、皺がさらに深くなる。

「空家だったんですよね」

「そう。地主は前々から売りに出していたようだけど、まったく買い手がつかなくて放置。去年一度ボヤ騒ぎがあって、犯人は地元の高校生だったらしいんだが、それ以前からたまにそういった不良連中が雨戸外して勝手に集まるようになったとか。だからまあ、たまに様子を見に来て……」

「大当たりですね」 

「そういうこと。ま、地主はシロだろう。もちろん、ちゃんと裏はとるけど」

 雅季はこれからの動きを素早く頭に描いた。

「では、とりあえず地主さんの調書作成、ほかに現場で目立ったことは?」

「平井さんに聞いて。もうそろそろ具体的なことがわかる頃でしょ。他の課員は周辺の地取りに行ってる。と言ってもねえ……」

 始関は辺りを見渡した。左右、隣の家まで百メートルはないだろうが、かなり距離がある。前方も後方は畑で、前方は鉄道路線を挟んで向こう側に家が密集しているが、山側である後方はポツンポツンと住宅区画が散らばる程度。ざっと見たところ、道沿いの街灯も乏しく、防犯カメラの設置もされていないようだ。

「厳しいですね。まあ、運が良ければ何か出てくるかもしれません。ほかにまだありますか?」

 んー、と始関がシャープな顎に手を当てる。

「呼吸は浅めに。マスクは正直、役に立たない」

 雅季は頷いた。そう言われれば、なんとなく甘ったるいような、あの肉が腐る独特の匂いがすでにここまで漂っている気がする。

「じゃ、あとよろしく。報告次第だけど署長と副署長と打ち合わせするから」

 始関は踵を返して颯爽とパトカーの方へ向かい、雅季は立番の制服警官に挨拶をして規制線をくぐった。

 錆が浮いた、低い鉄門を押してシートの内側に入り、玄関で靴カバーと手袋、マスクを装着する。

 始関は役に立たないと言ったが、虫除けにはなるだろう。

 ここまでくると、さすがに腐臭が鼻をついた。

 家に入る前に、玄関を左に回って庭を見てみる。雑草は伸び放題、錆びた物干しと端の方にはいくつかの割れた鉢植えが転がっていた。

 二人の鑑識官が鑑識ライトの光の中で写真を撮ったり、サッシの指紋採取をしたりと作業を続けていた。

 話の通り、縁側の木製の雨戸が一枚外れて、庭に横倒しになっている。

 二階には小さなベランダがあり、敷地五十坪ほどのいたって普通の一戸建てだ。

 雅季は玄関に戻り、家の中に入った。換気をしていない屋内には、視覚も侵されそうなほどの濃厚な腐臭が充満していた。確かにこれではマスクは役に立たない。

 玄関を上がってすぐ左手は客間だ。家具は一つもない。

 鑑識係とすれ違いながら、照明が漏れている奥の部屋へ向かう。現場は床の間付きの八畳の和室だった。

 雅季が部屋に入ると、入れ違いに顔を真っ青にした青鞍が足早に出て行った。

 死体は、庭に面したガラス戸寄りの廊下に仰向けに横たわっていた。雨戸が外れていた場所だ。

 白い照明に照らされている死体に近づくと、手を合わせて、見下ろした。

 周りを無数の蠅が飛び交う死体は、すでに肥大化しており、部分的に黒くっぽく変色した肌の上を蟻や蛆虫が這い回っていた。

 見開いた、濁った眼球が虚しく天井を見上げている。

 体は不自然にねじれていて、腕の関節は普通ならありえない方向に向いていた。裸の胸は溜まったガスのせいで全体的に盛り上がり、下半身は出血のせいでひどく汚れていた。

 肩の下まである髪はもつれて顔にかかっている。その髪は人形のように、かなり明るい栗色だ。

 飽きて投げ捨てられた人形——と雅季は思った。飽きられて捨てられたならまだしも、ボロボロにされた挙句に転がされている。

 この状態から、生存中の彼女の姿を想像することは不可能だった。

 雅季は、身体中に残る激しい暴行の痕に強烈な胸のむかつきを覚えた。目を逸らして、改めて室内を見回す。

 がらんとした部屋の畳は擦り切れて毛羽立ち、うっすらと積もった埃の上にはいくつもの足跡が走り回っていた。

 その他、ビールやジュースのペットボトル、食べ散らかされたスナック菓子の袋やタバコの吸殻などが散乱している。この空き家が子供達の溜まり場になっていたのは瞭然だった。鑑識の検証の痕跡であるチョークの輪郭と、札がいくつも立てられているが、パッと見てそれらの中に有力な証拠はなさそうだった。

 服はもちろん、血痕も凶器らしきものも見当たらない。

 殺人現場はここではない。だが、もちろん即断定はできない。

「悲惨、ですね」

 後ろから声がし、振り向くと鑑識係長の平井安里ひらい あんりが浅黒い顔をしかめて立っていた。五十歳手前のベテラン鑑識官である。

「ご苦労様です。何かわかりましたか」

 雅季が尋ねると、彼は持っていたクリップボードにちらっと目を落とした。

「腐乱が進んでますから、詳細はまだはっきり言えませんが、性別は女性。年齢はおよそ十五歳から二十歳くらいかと。死後五日から一週間といったところでしょう」

「死因は」

「おそらく失血死、その前にすでに暴行によるショック死の可能性もある。ま、もっと詳しいことは検死の後ですね」

 平井は緩く頭を振った。

「暴行……ショック死、ですか」

「ひどいもんです。骨折が複数箇所、おそらく内臓破裂も」

「交通事故の可能性は?」

 この辺りは街灯も人通りも少ない。近くで事故を起こし、気づかれずにここへ運び込んだとも考えられる。

 鑑識官は再び頭を振った。

「これらの打撲は間違いなく暴行によるものでしょう。それに、手首に拘束の痕がある。明らかに人の手によるものです」

「そんな……無抵抗の状態で」

 平井の言葉を聞いて、さらに息苦しくなる。

「この状態は自然死ではありえないです。とにかく検死結果待ちですな。じゃ、搬送しますよ」

「お願いします」

「それにしても」

 平井は辺りを見回した。

「足跡、指紋、現場の状態といい……鑑識泣かせだ。この中で犯人と直接結びつくような物はまあ、……どうでしょう」

 雅季も同じ意見だった。このぶんだと機捜(機動捜査隊)からの初動調査にもあまり大きな期待はできないだろう。

「ただ、ここが犯行現場ではないことは確かです。血痕が少なすぎます」

「私もそう思います」

 では後ほど、と平井が目礼し部屋を出て行った。

 雅季はもう一度死体に目をやり、二階へ上がった。

 階段を上りきると廊下を挟んで左右に部屋が一つづつ。奥がトイレだった。南向きのベランダがある部屋はフローリングだ。雨戸が閉まっているので薄暗いが、これから鑑識が入るのだろう。しかし、下よりはましだけで、ここまで異臭がこもっているのはたまらなかった。

 雅季は再び階下へ行き、開け放されている玄関から外に出た。

 規制線を出たところでマスクと靴カバーを外し、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。何度か深呼吸をすると頭がスッキリしてきた。やはり無意識に呼吸が浅くなっていたようだ。

 始関の姿はなかった。ひと足先に署に戻ったのだろう。

 今日も暑くなりそうだった。

 雲ひとつない青空の下、鉄道線路の手前の国道を走る車の屋根が強い朝日を反射して光っているのが遠目にも見える。

 しかし、地取りはどれだけ捗っているだろう。死体は夜に遺棄されたに違いない。そして、この夜の早い田舎、近所でどれだけの人が不審な車を目撃したり、異変を感じただろう。

 早くも「捜査難航」の文字が頭に浮かび、雅季は頭を振ってそれを追い出した。

 パトカーの方へ足を向けると、その並びに、さっきはなかった紺色のセダンが停まっていた。ちょうど車から降り、近くの刑事に挨拶をする男の姿を捉えて、雅季の胸がにわかに騒いだ。

 検事の久賀丞已だ。

 ライトブラウンのサマースーツを着こなした久賀は普段にも増して清々しく、始関とはまた別の意味で、この現場ではかなり浮いて見えた。

 雅季が、急に重く感じる足を無理やり動かして近づくと、気付いた相手が軽く右手を上げる。

「少し話を聞きましたが殺人事件、だと」

「確定ではないですが、ええ、おそらく」

 雅季は久賀に平井との話を伝えた。

 久賀は聞き終わると、しっかり頷いた。

「とりあえず、自分の目で見てきます」

「あ、久賀さ……検事」

 脇を通り過ぎようとする久賀の袖を、雅季はとっさに掴んだ。ふっと細められた目で見下ろされ、動悸が速まる。慌てて袖から手を離した。

「あ、あの。朝食はもう済みました?」

「はい」

「では、現場検証はやめたほうが。現場資料は後でメール、または地検に届けますので。わざわざ臨場していただいて申し訳ないですけど」

「というと?」

 久賀は小首を傾げる。

「腐乱死体です。おそらく検事の想像以上です。臭いも……」

「そうなんですか?」

 はい、と答えるより先に久賀が間近に迫り、身をかがめた。相手の咄嗟の行動で体を硬直させている雅季の肩口に、久賀はそのまま数秒、顔を寄せていたが、やがて顔を上げて微笑した。

「移ってないですよ。大丈夫です」

 雅季は無理やり笑顔で返した。

 自分は忠告はした。この後、彼の朝食が全て無駄になったとしても、自業自得だ。

「鑑識にマスクの予備ありますよね」

「それは、ご自分で聞いてください。私はいったん署に戻ります」

「報告書、出来次第回してください」

「もちろんです」  

 雅季が踵を返しかけると、「篠塚さん」と今度は相手が呼び止めた。一瞬あたりに目を配り、声を低くした。

「朝食を誘われるのかと思いました」

 雅季は一瞬息を呑み、すぐに久賀を睨んだ。「ここでよくそんな……」

「もちろん、冗談ですよ」

「当たり前です。いい加減にしてください」

「すみません」

 久賀は素直に謝り、「ではまたあとで」と現場へ向かった。

 入れ違いの青鞍が彼と会釈で挨拶をした。

「すみません自分、ダメでした。畑に肥料撒いちゃいましたよ……」

 げっそりとした顔で青鞍が言った。

 

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