検事 久賀丞已2 〜Make a promise〜

久保ちはろ

プロローグ


 雅季はインターフォンが鳴るのを聞いたが、無視することにした。疲れていたし、眠い。それに、今日この時間に来客や宅配の予定はなかった。

 昨日と今日、久々の連休だ。

 たまには誰にも邪魔されずに静かに過ごしたい。先週の非番は事務所荒らしがあり、呼び出されたのだから。

 昨日、雅季は昼まで寝て、スポーツジムで汗を流した。

今日は朝から掃除と洗濯を片付け、リクガメのじんちゃんをベランダで散歩させ、水槽の掃除をした後、ロボ掃除機を稼働させて買い物に出かけた。

 カフェできのこの和風おろしパスタを食べ、クリーニング屋でスーツを受け取ってから、和菓子店でいちご大福を買って帰った。

 シャワーを浴びて、クーラーの効いた部屋で大福とお茶を楽しみ、満足して床にごろりと転がった。

 その、ちょうどまどろみかけたところで……。

 この幸せを壊すなんて、逮捕……、と思いながら潔く居留守を決め込んだ。インターフォンは二度鳴らされることはなかった。

 再びうとうとしかけた時、脇のローテーブルの上で携帯電話が鳴った。

 のそりと体を起こし、手を伸ばして画面を見る。表示された名前を見て、眉をひそめる。

久賀丞已くが じょういい

 もし事件なら、まず所属する鳴海東なるみひがし署から連絡が来るはずだ。

 久賀は、鳴海東署の管轄する地区にある検察庁に所属する検事だが、その彼が過去、雅季の事件を担当してから、懇意になりプライベートの電話番号も交換していた。

 事件でないなら私用だろうか。

 呼び出し音に呼応するように、心拍数が上がる。さすがに電話は無視するわけにもいかず、通話ボタンを押してそれを耳に当てた。

「久賀です」

 相手が名乗った。なんとなく声が近い。

「久賀さん、どうしたんですか。せっかくの休みなのに事件とか言わないでくださいよ」

「ある意味、事件ですが、とにかく居留守使わないでドア開けてください」

 は? と頭の中にはてなマークが浮かぶ。――ドア?

 ハッと思い当たり、電話を耳に当てたまま玄関へ急ぎ、ドアを開けた。熱い外気がムワッと室内に流れ込む。

「久賀さん……」

 目の前に立つ久賀は、携帯電話をブラックスーツのポケットにしまった。

 久々に会ったが、相変わらず、この熱気さえも一瞬で清々しくなるような美青年だ。

 色素の薄い、グレーがかった薄茶色の髪を後ろに一つに束ねている彼は、事件現場よりもファッションショーが似合いそうな容姿である。

 だが、彼はこれでもなかなか腕の立つ検事なのだった。

 久賀とは二月に一度、連続殺人事件で一緒に仕事をしているが、捜査では三十二歳になる自分の二つ下とは思えない聡明さと、行動力に驚かされた。

「はい、防犯対策不合格」

「え?」

 ぽかんと口を開くと、久賀はドアに人さし指を向ける。

「どうしてチェーンかけないでドア開けるんですか。いくら捜査一係の刑事だからって、油断しすぎです」

 久賀はさっと雅季に視線を走らせて、「その格好も」と付け足した。

 雅季はドアから手を離し、慌ててTシャツの裾を引っ張り、ハーフパンツから出た脚を隠そうとした。

 閉まりかけるドアを久賀が押さえる。

「だ、だって休みですから」

 雅季の言い訳に久賀は小さなため息をついた。

「あの、とりあえず入ってもいいですか?」

「あ、どうぞ……」

 雅季はキッチンに久賀を待たせて、自室に戻った。ハーフパンツを水色のシフォンのロングスカートに替える。着替えた雅季を見て、久賀は目を細めた。

「麦茶でいいですか? それともコーヒーにします」

「麦茶をお願いします」

 お茶のグラスを起き、久賀の向かいに座る。なんとなく壁の時計を見ると、七時前だった。

「お仕事帰りですよね。何か気になることでもありました?」

 久賀の取り調べで警察調書と被疑者の証言に齟齬があったのだろうか。

 でも、それならわざわざ訪ねてこなくても、署に電話一本で問い合わせればすむはず。

 それに、麦茶を飲む久賀からは、なんとなく緊張が漂っていた。

 久々に会ったから? まさか。

「いえ、仕事ではないんです。ところで、部屋の模様替えとかしました?」

「ええ。妹が言い出して、かなり片付けたんです。家具を動かすと新鮮な感じがしますし」

 一緒に住んでいる妹のあずさが、『モノを捨てると運気が上がる』といって、色々処分したのだった。

「何か心境の変化?」

「いえ、別にそういうわけでは。梓が開運行動だというので」

「ああ、篠塚が……」

 久賀の表情が和らいだ。

 実は、久賀は妹の高校の先輩でもあった。それを知った時、そんな偶然にも、雅季は驚かされた。

 雅季は急に落ち着かなくなって、麦茶を飲んだ。そろそろ彼がここに来た本当の理由が知りたい。

 そもそも、自分のことを探られるような話題は苦手だ。

「部屋の話をしにきたんですか?」

 雅季はさりげなく話の矛先を変えた。

「雅季さんに直接関係はないのですが、私の口から個人的に伝えたいことがあって」

 雅季は眉を寄せた。——悪い知らせだ。

「それに、通り道でもありますし、久々に顔を見たいなと思いまして」

 雅季は頰が緩みかけるのを、顎に力を入れて平静を保った。「通り道」という言葉も引っかかる。

 休日出勤だと思っていたが、仕事ではなく、これから出かけるのか。

 そういえば、ノーネクタイだ。雅季の興味が大きく頭をもたげた。

「で、お話はなんでしょう」

 久賀は背筋を伸ばした。

「奈須次席が亡くなりまして」

「事件、ですか」

「いえ、心筋梗塞です。自宅で倒れられて、ご家族が不在で発見が遅く、病院に搬送されて数時間後にそのまま……」

 久賀の顔が曇る。

「過労ということもあったのでしょうが、お酒好きでよく飲む方でしたし。まだ六十歳そこそこでしたが、残念なことです」

 雅季は長く息を吐いた。無意識に止めていたようだ。 

 奈須次席とは庁舎で何度か言葉を交わしたことがある。その立場に似合わず、気さくな印象だった。しかし、周りからは、事件に対しては感情に流されず、常に整合性を求めて厳しく当たる検事だと聞いていた。

「惜しいことですね……」

「本当に。次席は私の理想の検事像でしたから。かなり自由にやらせてくれましたし、またやりすぎの場合は的確な道を示してくれて……」

 久賀の表情がさらに暗くなる。

「でも、教えていただいてありがとうございました。あ、これからお通夜なんですね。すみません、わざわざ寄っていただいて」

「いえ、口実にしてしまいました」

 真顔で言われ、雅季の胃のあたりがキュッと疼く。慌てて手の中のグラスに視線を落とした。

「それと、もう一つ」

 雅季は顔を上げた。

「中継ぎが来ます。新楽夏美しんらく なつみさんという……」

「女性ですか」

「相当やり手らしいです」

 若手でも、一目置かれている久賀がそういうのなら、間違い無いだろう。もっとも、「やり手」にも色々な意味がある。

「久賀さんは、新楽さんと面識があるんですか?」

「研修の時に短期間でしたが講師でした。厳しいのはもちろん、なかなか一筋縄ではいかないというか、正義の塊、本当に芯の通っている、というのがその時の印象です。必要と思えば、自ら警察の尻を叩く人でしたよ。でも、まあ次が正式に決まるまでですから」

「鳴海東署は田舎の所轄なので、彼女の手を煩わせるようなことはないでしょう」

 久賀は苦笑しながら首を横に振った。

「どうでしょう。新楽次長は中継ぎだろうが、どんな田舎の検察支部にいようが、手加減は絶対にしないでしょう。常に全力で闘い、その火の粉が周りに飛び火する、って話す先輩もいましたからね。検察ファースト、少しでも疑いがあれば徹底的に絞り上げる、自分のストーリーに合った証拠をとにかく集めさせる」

「相当、警察泣かせですね……」

「私も不安です」

 それは彼の本音だろう。女性でやり手。しかも上司。

 警察でも女性警察官は融通がきかないと揶揄されることもある。さらに、新楽の年齢はわからないが、そのポジションから憶するに久賀との年の差は大きく、考え方のギャップもかなり出てくるのではないか。

 奈須次席は割と自由にしてくれたというが、新楽が彼の捜査方針に納得しなければ、久賀も今後は動きづらくくなるだろう。

「すぐに次の方が来るといいですね」

「そう願います」

 久賀は微笑し、頷いた。

 多分、久賀はこの情報を共有するためだけではなく、きっと、今後新楽の何がしかの影響が鳴海東署こちらにも及ぶだろう、と注意を促しに来たのではないか。

 そして、ターゲットは雅季になるだろうという予感も、なぜかあった。

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