終わりの予兆③ 兄と妹

 少年は、おととい一度は捨てたグラブを見つめ、無意識に拳を強く握る。暗い雰囲気が立ち込める中立ち尽くしている少年を見て、その妹は言葉を漏らす。

「お兄ちゃん。」

 ヨウの心から漏れた声が届いたのかわからないが、少年はふと我に返り再度支度にとりかかる。

少女の頭に昨日の出来事が蘇る。少女は、一昨日の敗戦の責任を強く感じている少年から生きる気力を感じられず、声をかけるにも声をかけられずにいた。その気持ちをよそにマネージャーである黒い長髪の少女が家に押しかけて来た。そして、少女は兄を何処かへと連れだしていった。

それからの少年はどこか明るさを取り戻している様子だったのだが、先ほどの立ち姿から想像するに完全には切り替えられていないのだと察せずに負えない。

「どうした?ヨウこんな所で。」

 仕度を終えたシュウは、自室の扉を開く。そこには、涙を滲ませながらしゃがみこんでいる妹の姿があった。

「うん。ちょっとね。お兄ちゃんが野球道具の前で立ち尽くしてるのを見ちゃってさ。」

 少年は自分の不甲斐なさに落胆した。昨日、家に突如として現れた彼女の指摘通りになってしまったからである。

「そっか。まぁ立てよ。」

 そう言ってシュウはできるだけ明るい表情で、心配の表情を浮かべている妹に手を差し出す。少女には、それが作られた表情であると一目でわかった。だが少年は、前を向き立ち直ろうとしている。何故、私が泣いているのだろうと少女は自心を嫌悪する。

「ありがとう。」

薄暗い廊下に雨粒のような涙が、落ちる。

 少女は、差し出された手を握り立ち上がった。そして少年は、ゆっくりと優しく口を開く。

「昨日、カナに言われたんだけどさ。」

 昨日の黒い長髪の少女との会話を少年は思い返す。再び前を向かせてくれたその言葉を。立ち上がった少女は、そんな少年を静かに見つめる。

「負けたのは確かに悔しい。ふさぎ込んでしまうのは分かる。だけど、あなたには託されたものがある、思いがある。それを、忘れては駄目。」

 少年の記憶に浮かぶその少女は何かをこらえているかの様に言葉を詰まらせながらも、それでいて凛々しく美しく、熱い思いを届けてくれていた。

「確かにそれは、重いものかもしれない。おろしたくなる事があるかもしれない。そんな時は、私が彼女として一緒に背負ってあげるから。って。」

 その言葉を、言い終えた少年は明るい笑顔をしていた。その言葉は、少年にとっては敗戦から立ち直らせてくれた少女からの大切な金言だった。しかし、それを聞いた少女は腑に落ちないような、今にも怒りが込み上げてきそうな表情を見せた。

「ねぇ、今なんて言った?カノジョ?」

「あっ言ってなかったっけ?昨日付き合う事になったんだ。カナと。」

 少年の表情はあっけらかんとしていた。その態度と衝撃のカミングアウトに、少女の怒りが沸々と沸き上がる。

「は⁈ナニ?敗戦で、沈んで落ち込んでると思ったら、女に連れ出され家から急に飛び出し挙句の果てに付き合う事になった?意味わからない。」

妹の真っ赤な鬼のような形相に兄は唯たじろぐ。妹の目元はいつにもなく赤く腫れあがり、先ほどとは別の意味での涙を滲ませその言葉には纏まりがなかった。

「そんなに、怒ることないだろう。カナのお陰で、立ち直ることが出来たんだし。」

「そんなにって、あんたねぇ。第一きのうあんた達どこ行っていたの!」

 少女の顔が更に濃く赤く染まっていく。そんな少女の問いに少年はばつの悪そうに覇気なく答える。

「えっとぉ。ゆうえンチ…」

「あ゛」

 その少女の怒声に、少年は一気に怯み萎縮する。少女の心はもうぐちゃぐちゃだ、そんな思いを伝播する言葉に纏まりなどない。ただ少女は怒りに身を任せ、デリカシーのかけらも感じられない男のネクタイを掴み身を乗り出した。

「こっちはね、敗戦に苛まれてるあんたの姿を見て、何かできるかずっと悩んでたの。それでもそっとしておいた方がいいとおもってね、ずっとこらえて、いつも通りに接して。そんな気も知らないで、女とデートですって?それにそのあと何の報告も無しなんて。」

少女の目には、涙が溢れ出ていた。敗戦で苦しんだのは、当人だけではない。応援してくれた家族も一緒なのだと、男は再度痛感した。中でも、ヨウは一番応援してくれていた。そんな事は分かっていたはずなのに…自責の念がこみあげる。「(ゴメ…〉言葉が零れる前に痛烈な一言が最愛の妹から告げられた。

「最っ低!」

青髪の少女は、涙を拭きながら駆け出し階段を下る。少年はその姿を見つめる事しかできずに呆然と立ち尽くし、やがてしゃがみこんだ。

「なにやってんだ俺は。また」

天井を眺めながら軽く握った拳を額に乗せる。ヨウはいつも傍にいてくれた。急速に直球の速度が増した時も変化球を覚えた時も、一番喜んでくれたのは、ヨウだった。そんなヨウの姿を思い返し、そして、バシンと両手で頬を思いっきり叩く。そして、少年は再び前へ進もうとより強く決意する。

シュウとヨウは兄妹である。しかし只の兄妹ではない。中学迄、学校も部活も同じ。互いに認めあい支えあい、相棒のような存在となっていた。

高校に入り、シュウは水泳をやめた。少年はヨウに対し水泳を続けて欲しいと言った。だが、あの女は少年と同じ部活にいる。

少女はそれが気に食わなかった。黒い長髪の女と兄が同じ部活に入っていると知ったのは少女が入学してからすぐの事だった。

部活動説明会で黒い長髪の少女と兄が並んでいるのを見た時、私は除け者にされたんだ。そう思った。今まで一緒に居たのにも関わらず、何の相談もなく水泳を辞めて、あの女と一緒に居る。私は二人から遠ざけられたのだと。そう確信せずにはいられなかった。それ以来、あの女のことは嫌いだ。いや、それ以前。同じ部活に居た時から、兄に信頼されているあの女が苦手だった。

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