第3話

「グリッド様?」

「なんだい? アリス。あぁ、今日もアリスの淹れてくれたお茶は美味しいね」

「お、お褒め頂き恐縮ですわ……?」

(ゲームではけして婚約者を名前で呼ぶことをしなかったのに、なぜか名前を飛び越して愛称呼びになっている……それに今日は格段に座る場所の距離が近い……。いえ、そんなことより、私達もう十三歳よ? グリッド様はハートランド侯爵家こんなところでお茶なんか飲んでいていいのかしら?)

 と、アリスティアは現在、大変困惑している。

 くまさんの髪飾りを手渡した初めてのお茶会から三年。

 グリッドとアリスティアは十三歳になっていた。

 来年になればグリッドは国内のエリートが集まる王立高等学園に、アリスティアは淑女育成のための王立女学院に入学するはずだ。そして入学から四年後、王太子殿下となった第一王子殿下の立太子パーティで、ヒロインにとっては運命の求婚イベントであり、ライバル令嬢達にとっては婚約破棄、もしくは断罪の場となる地獄の一丁目イベントが起きるのである。

 が。

(確か十三歳になったところで、グリッド様はその優秀さから二つ年上の王太子殿下の側近候補に選ばれて、放課後は毎日王宮に出仕するのではなかったかしら?)

 ゲームのシナリオを思い出しながら、アリスティアは自分の隣でさも当たり前のように紅茶を飲むグリッドを見る。

(……なぜここで、お茶を飲んでいらっしゃるのかしら?)

「アリス? どうかした?」

 アリスティアの視線に気づき、にこりと笑ったグリッドに、慌てて微笑み返す。

「いいえ。お味はどうかとおもいまして……」

「うん? 先程も言ったとおり、とても美味しいよ。アリスはお茶を淹れるのが上手だね」

 穏やかな笑みを浮かべてそう言い、目を伏せてティーカップを傾けるグリッドは、現在、王侯貴族の子息だけが通う初等学術学院に通学しているのだが、何故か毎日放課後にアリスティアの屋敷に訪れる。

 学院からアリスティアの生家であるハートランド侯爵家が近いから、というわけではない。

 学院とハートランド侯爵家のちょうど中間の位置に、グリッドの生家であるレオンハート公爵家がある。という事は、グリッドはわざわざ学校終わりにこちらに寄っているのだ。

 ちなみにアリスティアの方は、グリッドが訪ねて来るまでの時間、レオンハート公爵家から派遣されてる家庭教師から公爵夫人として必要な教育を受けている。それが終わるタイミングでグリッドは訪れ、こうしてお茶を飲むと言う日が続いているのだ。

 ちなみに家庭教師は授業が終われば早々に乗って来た馬車で帰って行ってしまうので、家庭教師を迎えに来た、という線はない。

(ゲームの世界のグリッド様は面白みのない婚約者に興味を示さなかったはず……。ゲーム内のヒロインとの会話でも、月に一度の婚約者のお茶会は義務で行っているが、婚約者あれは何のとりえもない、つまらない婚約者と言っていたのに……)

 刺繍の手を止めると怪しまれるため、せっせと針を動かしながら、アリスティアは前世の記憶を思い出してはその違いに首を傾げるのだが、当のグリッドは涼しい顔をして彼女の横で優雅にお茶を嗜んでいる。

 ふぅっと、隣に座るグリッドに気付かれぬよう小さくため息をつく。

 しかし目ざとくそれに気付いたグリッドは、手に持っていたティーカップを置き、アリスティアに体ごと視線を向け、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫かい? 少し休憩してはどうだろうか。随分根を詰めてやっているようだけど、それは新作かな?」

「え? あ、はい」

 グリッドに言われ、アリスティアは頷いた。

「真っ白な布に真っ白の色で刺繍をするなんて、珍しいな」

「そうですね。これはヘデボー刺繍といって、白い麻布に白い麻糸で丁寧に織り糸の数を数えながらこうして糸をかけていき、時にはこうして布地をカットしてデザインを作っていく手法ですわ。もうすぐ完成しますので、少しお待ちいただけますか?」

「あぁ」

「ありがとうございます」

 そう言うと、グリッドに見守られながら、丹念に針を進めたアリスティアは、最後に丁寧に端糸の始末をし、刺繍枠を外し、出来上がったもののしわを手でのばしてから、グリッドに差し出した。

「出来ましたわ」

「……これは、見事だ」

 受け取り、その作品の出来栄えに目を少し見開いてそう呟いたグリッドに、アリスティアは微笑む。

「ちゃんとしわを伸ばす前で申し訳ありませんが……レオンハート家の家紋を刺繍してみましたの。これであれば、遠目にはただの白いハンカチですから、学院でも使いやすいでしょう?」

 ハンカチを広げてその見事な透かし模様の刺繍を見たグリッドは、穏やかに笑った。

「こんな、レースのような刺繍は見たことがない。それも我が家の家紋をこんなに繊細に作り上げるなんて……アリスは天才だ」

「ほめ過ぎですわ」

 そうは言うものの、推しに褒められて喜ばないファンはいない。

(だって、可愛いもの好きの推しに可愛いものをプレゼントしまくりたいのですものー!)

 とは、心の声であるが、実は家紋を刺繍した対極の角には、グリッドが好んでいるかわいい猫が丸まって寝ている姿を、目立たないように刺繍してある。

 後で気付いた時に喜んでくれると言い切れる自信作だ。

「アリスからの贈り物はなんだって嬉しいけれど、これはまるで芸術品のようだ。もったいなくて使えそうにない」

「そう言ってくださるのは嬉しいですが、ハンカチなのですからぜひ使ってくださいね」

 心底嬉しいと言った顔で微笑んだグリッドに(公式設定のクーデレはどうした!? これじゃデレデレじゃない! これも最高だけどっ!)と心の中で突っ込みながら、平静を装った顔でアリスティアは頷くと、侍女に刺繍の道具を渡した後、新しくお茶を淹れ直しながら今日感じた疑問を投げかけるため、名前を呼んだ。

「ところでグリッド様?」

「リード」

「はい?」

「リードと呼んでほしいと、何度もお願いをしているのだけれど、アリスはいつになったらそう呼んでくれるのだろうか?」

(ダメダメ! それはグリッド様の心を癒す、プレイヤーにとっては難易度MAXの地獄の〇×早押しクイズイベントを乗り切ったヒロインにしか許されない愛称です―!)

 やや憂いを帯びた、しかし絶対そう呼ばせるという意思を感じる視線を送って来る推しの御尊顔に眩暈を感じながら、アリスティアは心の中で全力で叫びつつ、しかしそう呼ばないと絶対に許してくれそうにない目の前のグリッドに、二、三と心の中で大きく深呼吸をし、お茶を差し出しながら意を決して名を呼ぶ。

「……り、リード……様?」

「なんだい? かわいいアリス」

 瞬間、グリッドは破顔し、甘い声で名前を呼んで来た。

(あーーーー! もう、ゲームのスチルよりも数十倍素敵な笑顔です! 供給過多―! 死んじゃう―最高! 私の推し、本当に最高!)

 と、内心思い切り身もだえながら、平静を装ってアリスティアは問いかける。

「もう、揶揄わないでくださいませ。それであの……リード様は、連日、我が家においでくださっているのですが……」

「うん? 迷惑かい?」

 迷子の子犬のように、少し眉根を下げて問いかけて来るグリッドに、アリスティアは首を振る。

「いいえ、そんなことは決して!」

「よかった。アリスに嫌われてしまったら、僕はこの世界を滅ぼしかねないからね?」

「……え?」

「いや、何でもないよ。それよりどうしたの?」

「あ、いえ。あの、その……グリッド様は、第一王子殿下のお傍にいなくてもよろしいのですか?」

 ゲームの中の回想であった話だが、先程考えていた通り、この頃のグリッドは、他の側近候補(という名の攻略対象)と共に、放課後は王宮にて王族側近としての心得や教育を受けているはずで、アリスティアの家で茶をシバいている暇などないはずである。

 まさか、無理しているのではないだろうかと心配して聞いてみたのだが。

「? なんでだい?」

 思い切り不思議そうな顔で返され、慌てたのはアリスティアだ。

「だって、グリッド……リード様は第一王子殿下の側近候補として選ばれたのでしょう? でしたら……」

「あぁ、その話? 母上から聞いたのかな? アリスには話さないようにとあれほど言ったのに……」

 少しむっとした顔をしたグリッドに、アリスティアはさらに慌てる。

「で、ではやはり? それでしたらこんなところでお茶を飲んでいる暇は……」

「断った」

「……はい?」

 いともさらっとそう言ったグリッドの言葉に、アリスティアは再び呆気にとられてしまった。

 が、すぐに正気に戻り、慌ててグリッドを見る。

「な、何故ですの? 第一王子殿下は(今のところ)王太子に一番近い方でいらっしゃいます。その側近に選ばれるなど、光栄なことではありませんか? 公爵閣下はお許しになったのですか? どうして……」

「アリスといる時間が減ってしまうからね」

 にこっと笑ったグリッドは、再び事無げにそう言って新しい茶を優雅に飲む。

「あ、このお茶も美味しいね」

「そんなことはどうでもよいのです! 第一王子殿下とわたくしとのお茶の時間を天秤にかけないでくださいませ、どちらが大切なのかなど、考えなくてもお解りになるはずですっ!」

「うん、そうだね」

 にこりと、グリッドは微笑んで言い切る。

「アリスとの時間の方が大切。それだけだよ。はい、あ~んして」

「え?」

 慌てて問いかけたアリスの口に、小さめの焼き菓子を入れたグリッドは、突然口に入ってきた焼き菓子に驚きながらも両手を口に当たアリスティアににっこりと微笑んだ。

「僕はね、アリスしか大切じゃないんだ。確かに父上と母上も少し何か言っていたけれど、アリスと結婚し、レオンハート公爵家を継いで、領地を豊かにすることに心血を注ぎたいと言ったらわかってくれてね。王家にも断ってくれたんだ。もとより我がレオンハート家は筆頭公爵家。僕が側近につけば第一王子殿下は今は甲乙つけがたい王太子争いで一歩抜きんでてしまうだろう。けれど、僕は学院で第一王子殿下、第二王子殿下のお二人の様子を見ていて思ったんだ。あぁ、今はまだ、どちらかの王子の一方につくのはよくないとね。だからお断りしたんだよ」

 至極真面目な顔でそう言われれば、実に貴族として正しい判断であり、アリスティアは納得するしかなくて頷いた。

「そうそう、それとね。僕の婚約者だから、ハートランド侯爵夫人と参加するお茶会でいろんな雑音が聞こえてくるかもしれないけれど、まだ婚約者の立場の自分にはレオンンハート公爵家の意向はわからないし、口出しは出来ませんと、しっかり断って、毅然としていればいいからね。とくに尻が……いや、ローズマリーアン公爵家からのやっかみは、絶対に取り合わなくていい。何か聞かれたり絡まれたりしたら、すぐに僕に教えてね」

(……ローズマリーアン公爵って、ヒロインの家名よね……?)

 今はまだ、接触する機会もない時期なのに、なぜその名が出てくるのかと首を傾げるアリスティアに、グリッドはネオンを押すように微笑む。

「いいかい? 約束だよ、アリス」

 たしかに、社交の練習として母とお茶会に出向いた先で、グリッドやレオンハート公爵家の動向、そして名前を出さないが暗にヒロインを思わせる公爵令嬢の話を聞かれることがある。

 いや。誰とははっきり指し示されない公爵令嬢の事に関しては、意図のわからぬ質問をされる頻度が大変に多い。

 しかしゲームの中のこの時期のヒロインは、幼い頃は病弱だった、という設定の深窓の令嬢らしく領地に引きこもり、最高の教育を受けながら、穏やかに暮らしているはずである。

 だから聞かされるないように違和感を覚え、何故そのようなことを私に聞くのか? と逆に問うと、彼らは顔色を悪くし、一様に口を閉ざすのだからさらに気持ちが悪い。

 ヒロインはいったい何をしているのだろう。

(今日、リード様に聞いてみようと思ったのだけど……)

 そう考えるものの、目の前の推しの気迫はそれを許してくれそうにない。

(この感じだと、リード様も教えてくれそうにないわ……)

「……は、はい」

 ただ頷くしかできなかったアリスは、幸せ過ぎて忘れていたヒロインの事を思い出しながらも、目の前の推しに集中することにした。

「わかりましたわ、リード様」

「ん。いい子だね。大好きだよ、アリス。それと、このハンカチ、もっと作ってくれる? 毎日持ち歩いて、アリスを感じていたいんだ」

「えぇ、それはもちろんですわ」

 そう言って微笑んだグリッドの笑顔に、アリスティアの心にあった疑問は粉々に粉砕されたうえ、恋心まで撃ち抜かれ、寝る間も惜しんでたくさんの作品を作る事になったのである。

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