龜󠄁裂󠄀を覗く旅󠄀人󠄀

稲土瑞穂

E/N’01:“Telescope Testing”

 彗星は、皆の憧れの的だった。天に目立つ一筋……昼夜問わず、其処に悠々とある、天上の旅人。地球という星から出ることが出来ない人々には、想いを馳せるに充分なものだろう。帚星は壮大でありながら、姿を人の前に表すのは短い。而して、其のテイルを、太陽と彗星の二重奏デュエットを目にして、人は鬱屈した現実から逃れて、空想に浮遊するのだ。

 寺内情栄てらうちせいえいは、空想への浮遊の為めに旅路に居る。否、目的は其れだけではない。現実的な面もあり、れは彗星の軌道を追っていた。傾き始めた陽が、「彗星観測チーム」と記されたキーホルダを煌めかせた。セイエイは携帯電話を手に取って、キーホルダをぶら下げて見る。

「世界の誰もが、此の天体に注目しているに違いない」

 セイエイは客車で揺られながら一人心呟おもった。吊革広告にも、彗星を押し出したものがある。夜空を背景、望遠鏡を中心に、セイエイと歳も然程変らないと思しき若者が、左右で手を広げて天の川を強調している。「彗星見るなら——」と、惹句じゃっくが天の川に並行して書かれている。而して、遠くからでも目立つ、観光地の名前が中心に据えられている。セイエイは此の観光地を以前から知っていた。昔は、近くのスキー場のホテルのある町に過ぎなかった。其れが、環境云々となって星空をアピールし出したのだ。此の広告であれば、惹句は何時もなら「夜空を見るなら——」だったが、内容は然程変わらない。併しセイエイには、先程の「世界が注目する『彗星』」と云う自説を補強するものだと思い、口角を上げた。

 セイエイは、吊革広告から目を下にやって、眠りこける旅の同行者を見た。名は元津右衛門もとづうえもんである。其の時代劇を思わせる名は、人の顔と名を結び付けるのに時間がかかる自覚のあったセイエイの記憶に、何故か受け入れられた。

 「彗星観測チーム」は、今から一、二年前に結成された、天文愛好家による組織である。彗星がやって来ると、継続的に世界を飛び回り、夜に彗星を撮影するのが主な活動である。セイエイが此の組織の存在を知ったのは、メンバー募集の新聞紙の広告であった。応募して、面接を経て採用されたのだった。今回が新参者であるセイエイにとって、初めての活動である。一方のウエモンは、初期から所属しており、組織のパトロンをも兼ねていた。セイエイは手帳を日程の頁へ捲った。此の若人の無防備に寝る様子とはかけ離れて、交通手段も様々に、観測地も地球上に散らばっている。今回の観測計画は特に大規模であり、少人数の組に分かれるものとなっていた。其の一組が、セイエイとウエモンの組である。正確にはまだ確定した訳ではないが、此の段階で組合せが変る事は殆どないと聞いている。

 セイエイが天文に関心を寄せたのは、幼少期に見た特撮ドラマの影響である。同世代らしいウエモンも、其の番組は認知しているらしく、此れ迄に数回交わした雑談でも「一応好きだ」と聞いている。番組は、宇宙空間での惑星間・惑星―衛星間往来が盛んになった時代、太陽系の安全を守る者たちのモキュメンタリーであった。中でもセイエイが気に入っているのは、太陽の状態を監視する「宇宙天気予報」が主役の回である。其の作品での宇宙天気予報は、小惑星の軌道や彗星の塵の危険性も報道する様になっていた。作中には怪奇現象も、ヒーローもいないが、皆が活動している様子が好きだった。

 セイエイは其の回を脳裏に浮かべながら手帳を広げて、サイト上から転記した今回の彗星の情報を見た。先ず目立つのは、「I」から始まる正式名称である。此れは、彗星が恒星間天体、乃ち太陽系外から飛来したものであることを意味している。——要するに、「彗星」と皆が呼んでいる此の天体は、非周期彗星なのである。二度と見られるヿのないものであると知れば、関心を向ける人も数を増やすであろう。

 列車が減速を始めると、列車は軌条レエルに沿って曲がる。母国では珍しくなった機関車の汽笛が鳴り、セイエイは窓を閉めた。暫くして、隧道に入る。煤が窓を曇らせた。

 隧道の中、分岐を踏んだ車輪が鳴る。通過線へ進入した列車は速度を其の儘に更に分岐を踏み奏で、颯爽と駅を過ぎる。列車が標高を上げる為に足を擦り奏でて曲がり出す――ループ線に入ると、セイエイは手帳の頁を捲り、観測する予定の彗星の基本情報を復習さらう。今日は彗星の明るさから考えて、日没の後から見えるが、望遠鏡がなければ見えない。数週間以内に研究機関の彗星探査機が到達する見込みだが、地球から眺め撮るだけの自分には余り関係ない——少なくとも、今のところ。セイエイにとって取組むべきは、観測を予定通り遂行する事なのだ……と思いながら、イヤホーンを差して、音楽を流した。

 セイエイは、最近よくホルストの『惑星』を聞くようになっていた。其の存在を認知したのが何時だったかさえ記憶にないが、実家の寺内家にはクラシックを好んで聞く者は居なかった。両親、其れに姉妹兄弟きょうだいを含めても、どちらかと云えば新しい音楽ジャンルを好んでおり、伝統的な音楽も、実家の所在地域の甚句などをカラオケで歌う位だった。多分、自分が天文に関心を持った頃には知っていたのだろう。併し、セイエイがクラシックにのか、と言うと語弊がある。セイエイは、一般人に認知されているものと、天文に関するクラシック音楽——例えば、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の「月の光」とか——以外、全く知らないのである。此れは知人や友人の類いに音楽に就て語る者を持合わせていなかったが為めである。

 暗い隧道と、「火星」のリズムが合わさり、セイエイに高揚感を齎していた。此のループ線を上り切り、隧道を出れば、其処は繁い森である筈だ。此の路線は嘗ては廃線の危機にあったという森林鉄道だが、最近では観光需要の開拓と、有名大学の農学部だか林学部だったかの誘致とによって赤字を脱したという。

 曲がりながら勾配を登る列車の加速度の違和感に気づいたのは何故かは知らないが、咄嗟に窓を開け、黒煤と、イヤホーンも関係無い程の機関車の爆音にも構わず後ろを振り返った。左側通行である筈の鉄路は、単線区間でもないのに右側に壁が迫っていた。困惑していると、線路が直角に平面交差して奥へ続くのが一瞬見えた。普通の旅客鉄道で平面交差とは珍しいものだが、隧道の中というのは更に珍しかろう。

「下調べの時、こんなものは載っていなかった筈だ」

 隧道を出ると、一瞬、「使用停止」と書かれた踏切か何かが通り過ぎて行った。而して、車窓は奇妙な景色を映し出した。……宇宙空間を走っていた。火星、金星、水星……列車は速く、惑星を映したと思えば過ぎ去ってしまう。銀河鉄道、然う云うのが実在しているとは到底思えなかった。未だに宇宙エレベータすら建設できていないのだ。困惑の中、セイエイの視界は消えた。



…………



 世界が暗転した気がした。既知と未知とが絵の具の様に混ぜ合わさって、全てが不明瞭になる。其処は暗闇だったが、ブラックホールの気配はなかった。何方かと云えば宇宙の間隙に浮かんでいる様だった。

 何故こんな場所に存在しているのか解らなかった。浮遊は永く続いていたから、また不思議なことに疲れ消耗することもなかったから、思案は幾らでも出来た。

 自らが目を閉じていたことに気付いた。目を開いて、其の眼前を景色として受け入れた時、「未知」に占められていることに驚愕した。然うとはいっても、何故自分が「未知」に驚いたのか、セイエイには理解できなかった。

「気づきましたか」

 眼前の未知は唐突に男の姿をとって、セイエイに話しかけた。黒衣の男は、「未知」であり、「宇宙」の一つの姿であるようにも思えた。

「ああ……」

 質問には是と答えても、何が何か解らなかった。

「——りたくはありませんか」

 吸気の気配だにない儘、男は問うた。人間味のない、併し其の視線がセイエイに押し刺されて、彼れは頷く他なかった。……今日と云う日ほど、他人に対して、自分の無い様に振舞って来た事を後悔した事はないだろう。

「何から識ればいい」

 セイエイは自分の言葉を発声と共に聞いていた。先刻迄浮遊していた筈が立っており、又男からは人間らしい生気——例えば潜在的な何某なにがしかへの熱意とか——が感ぜられなかった。

「ご自由に」暫くの間、セイエイと男は静寂に沈んだ。男は入力から出力迄の待ち時間の如く黙りこくる時間を経て、忠告した。「貴方が選ばねば、私から与えることになりますが」

「……識る対象は定められているのか」

「特にありません。貴方の好きなものです」

 セイエイは其の時、叫ぶ様に口に出る言葉を認識した。

「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」

「いいでしょう、了解しました」謎めいた男は、飽く迄微笑みを崩さなかった。「此れから貴方の此方での通称はマコトです」

「待て、其れは……」

「通称と言ったでしょう。偽名ですよ。其れとも——」謎めいた男が、笑顔を崩した。「自分の儘、識り切る積りですか」

「いや、気になっただけ……」

 セイエイは急に、自分が前へ進んで行く様な感覚を覚えた。

 直後、周りの全てはなくなっていた。


…………


「——ご迷惑を——深く御詫び申し上げます……此の列車は予定より十分遅れまして、終着の……」

 肉声放送がセイエイを呼び戻した。奇妙な体験は嘘の様に、列車は目的地に着かんとしている。自分がつけていたイヤホーンからはホルストの「金星」が流れている。『惑星』を最初から流した筈だから、流し始めてから六、七分は経ったらしい。通路を挟んで反対側の同行者にセイエイは駈け寄り尋ねる。

「セイエイ、寝過ぎぢゃないか。野生動物で少し遅れたんだ」

 最初に寝ていたのはウエモンぢゃねぁかと言葉を発そうとしたが、不思議にこの意味を言葉に出来ないと云う思込みが浮かび、黙る他なく、代りに口が動いた。

「……ウエモン、何か悪戯でもしたか。其れと野生動物はテロルでもないのか」

 セイエイには、「謎めいた男」がウエモンに似て見えていた。

「悪戯はしてないさ。其れに、テロルのある国にどうして旅できようか……後、俺たちが子供の頃なら未だしも、今テロルなんて起こり得んよ」

 同行者ウエモンの言に納得する。少し、「謎めいた男」の言葉を本気にしていたのかもしれない。いや……抑々、夢なのかも知れない。深層意識が云々、というのはセイエイは好きではなかったが、夢は実に奇妙なものを見せることもある――幼少期に地球防衛軍が自分の町にやってくる夢を見たことを思い出して、セイエイは納得しようとした。

「……降りようか、ウエモン」

 二人は列車を降りた。


 夕暮れが近づき、彗星は東の空に暗く表れた。彗星は未だ尻尾を生やしていないから、観光客は少なく、地元民も殆ど居ない観光地は夜空の闇に隠れる様な彗星を彩の一つとして迎え入れた。……丁度新月である為めに、他の何の日よりも綺麗に映るだろう。普段見える筈の国際協力により建設された宇宙基地は彗星の塵との衝突を避ける為めに軌道を変更し始めたらしく、夜空にも人工物は殆ど見えない。

 寝泊りする天幕を張り、隣に機械を組み立て、記録装置を起動させ、正常に動作することを確認した。試用とはいっても、二人の望遠鏡と記録装置は「彗星観測チーム」に参加するにあたって支給されたもので、故障の心配はあまりしていない。

「明日が楽しみだな」

「あゝ」

 セイエイは其の儘、寝袋にて夜の帳が下りるのを待たずして眠りに着いた。




 意識が途切れて戻っても、世界は寝袋にセイエイ——マコトを戻してはくれなかった。

「識りたい事……ね……」

 マコトの呟きは、虚空に吸い取られていく。神秘か、畏怖か、奇天烈な輝きが空間に広がっている。其れは脳細胞の様で……棒人間的で……星々のボイドでもあった。

 唐突に、マコトはセイエイが何故ホルストの『惑星』をようけ聴く様になったか思い出した。実家に一時期あった楽譜の本に、『惑星』があったのだ。

 而して此の空間が気紛れに、此処が「世界」に関する「楽譜」であり、「数式」なのだとマコトへ伝える。

 我々が追い求めているものの一片が此処にあるのだ……ウエモンはじめ、彗星観測チームの同志の顔が頭に浮かんだ。彼れらは奥へ続く一本の道に沿って立っていた。マコトは——青髪の少女を道奥に見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龜󠄁裂󠄀を覗く旅󠄀人󠄀 稲土瑞穂 @midupo_inatuti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ