後編
「寂しいところ、ね。」
鬼宿宮は、とても寂しいところだった。
庭には花木もなく、室内は最低限の調度品が置いてあるばかりだ。
先に運ばれていた私の荷物を、備え付けられた箪笥などに片付けながら、ひとつ、溜息を突いた。
世間知らずだったわたくしが、ここに送られたのは必然だったのだろう。
冬柊宮へ陛下は毎夜お渡りになり、心穏やかに笛を吹き、わたくしを抱かれた。
まもなく子を孕んだわたくしは、陛下の寵愛を一身にいただいているという喜びに、本当に幸せだった。
しかしその3週間後、わたくしはあっけなく子を失った。
痛む腹を抱え、御不浄に入ったわたくしは、あまりの出来事にそこで気を失った。
目が覚めて、事実を告げられ、嘆いて、嘆いて、苦しんで。
そんなわたくしを、陛下は責めることなく慈しんでくださり、毎夜私の宮に訪れては笛を吹き、穏やかに声をかけ、慰めてくださった。
そうして一年。 わたくしは再び腹に子を宿し、そして4週間後に失った。
絶望は続く。
そんなことが何度も続いたわたくしは憔悴し、後宮内には私は子を成せても育てられない体なのだと悪意を持った噂が流れ始め、陛下も大変にがっかりしておいでだ、と、と宮に勤める下女に聞かされた。
そんなものがあるものか。
そう思っていた強くあろうと頑張ったが、噂の広がりと共に陛下のお渡りも減ってゆき、半年たつ頃には、ぱったりと、来てくださることがなくなった。
あぁ、あの下女の言う通り私は愛想を突かされたのだろう。
そんなことはない、何かの間違いだと励ましてくれるメイレイに、ではなぜ来てくださらないのか? としがみつき。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
散々に泣いた夜半、空っぽの胎をだきしめたわたくしは、月のない夜、庭にある池に身を投げた。
思い出が多すぎるこの宮で、わたくしはもう、生きていたくはなかったのだ。
しかし騒ぎを聞きつけたメイレンたち侍女の手によって助け上げられたわたくしは、一命をとりとめてしまった。
とこで、私はやはり泣き暮らした。
そんな時、メイレイから、大切な、ひとつの話を聞かされた。
それは、わたくしの従姉が、わたくしの宮に下女を送り、毒をもり続けていたために処刑された、という物だった。
目的は……口に出す必要も、ないだろう。
だが、わたくしには青天の霹靂だった。
そうしてようやく、視野を広く見る事が出来た。
そう、本当は、しっかり考えればわかる事だったのだ。
わたくしは、謀事や男女の機微に疎過ぎたのだ。
他人が、親戚が、陛下の寵愛を受けるわたくしを羨み陥れようとするなどと、大それたことだと、これっぽっちも考えたこともなかったのだ。
従姉の様子を見ていれば、最後の表情を見ていれば、噂話を届けた下女の顔を見ていれば……それは本当に当たり前の事だったのに。
そんなことを考えられないほどに、陛下への愛へと、わたくしは傾倒し、盲目になっていたのだ。
心を砕いて尽くしてくれていた、メイレンやそのほかの侍女の忠告も耳に入らぬほどに。
その時、わたくしは、これまでのわたくしの愚かさを恥じ、悔いた。
そうして、陛下へと、文を書いたのだ。
己の愚かさ、認識の甘さ故、陛下のお子を何度も子を宿しながら育て上げることもできなかったこと。
それゆえ陛下の寵愛を失ったのに、我が身可愛さに湖に身を投じ、そばにいる者達に迷惑をかけたこと。
このように、愚かしいわたくしは、後宮にもいてよい存在ではない。
失ってしまった子供たちのために、我が身を仏門へと投じたい。 そのため、我が身を後宮から出していただきたい、と。
そうしていま、わたくしはここで、月を眺めている。
(……陛下の御子を身ごもったことのあるわたくしに許されたのは、後宮を出ることではなく、この鬼の宮への幽閉、だったのね。)
きっと、世間知らずのわたくしが、良からぬことを企てている者達に絡め捕られぬためなのだろう。
静かに、溜息をついてわたくしは部屋の外を見た。
大きな満月が、澄んだ藍色の空にぽっかりと浮かび、わたくしを見下ろしている。
ただ涙だけが零れ落ちる。
両の手を顔で覆い、涙を受け止めるしかない。
悔いる事しかできない。
自分の愚かさを、恥じる事しかできない。
迷惑をかけたすべての人に、愛する陛下へ、そして抱きしめてやることのできなかった我が子に、謝りながら生きる事しかできない。
「……っ!?」
不意に聞こえた笛の音に、私は顔を上げた。
周囲を見渡すが、そんな気配はない。
気鬱の病ゆえの空耳なのか。
そう思って部屋の中へ戻ろうとした時……そこには、いるはずのないお方が立っていた。
「……陛下。」
「ロウシェン。 ……そのような場所で、寒くはないのか?」
「何故でございますか……? 何故こちらへ?」
わたくしは震えるようにそう問うしかなく、そして、慌てて床へ頭を付けた。
「も、申し訳ございません、わたくしのようなものが……へ、陛下へお願い事などを申しましたばかりに……。」
そんなわたくしの床についた手を、額を、そっと、大きく暖かい手が救い上げてくれた。
「お前が謝る事ではないのだ。 本当はお前の望みをかなえてやりたかった……だが余には、お前を手放すことは出来なかった。 許せ、とは言えぬ。 だが、余の傍にいてくれないだろうか。」
ゆっくりとわたくしを立ち上がらせた陛下は、そのまま椅子へ座らせた。
「本来ならばこのような場所にお前を入れるべきではなかった。 だが、心優しいお前は花の言葉に、匂いに惑う。 しかしこの寂しい宮ならば、表の花の戯言に心を惑わされることなく、静かに過ごすこともできるだろう。 わたしも、闇に身を潜ませ会いに来ることもできる……。」
手に持った笛をわたくしの手に置き、陛下はゆっくりと、微笑まれた。
「月明かりの下でしか会えぬ身となってしまったが、許してくれるか?」
それは、わたくしが二度と、表舞台には立つことがないと言う意味だと分かった。
けれど。
「たったそれだけのこと。 わたくしにとって、何の憂いになりましょうか?」
ただし静かに、私は頷いた。
鬼宿宮からは、今日も狂った女の歌声が聞こえると、女たちは噂する。
陛下の愛も、地位も、すべてを失った哀れな冬鳥が、我が身可愛さに切々と哀切歌を歌っている、と。
けれどそれは真実ではない。
夜には、小鳥は歌を歌うのをやめ、暖かい腕の中で心穏やかに要る事を。
誰も知ることなく、後宮は、今日も花たちが姦しく、陛下への愛を求めて咲き競うのである。
後宮に歌う冬鳥。 猫石 @nekoishi_nekoishi
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