中編

 後宮に入ったのは、口減らしのためであった。


 山間部の上級官吏の娘ではあったわたくしの父親は好色と有名で、現に後継とされる兄の他に、同母妹、異母妹が5人もあった。


 それらすべてをどこぞに嫁にやるにしても持参金などが払えはしないと考えたのだろう。


 私は、親戚の姉が中級妃として後宮に上がるついでに侍女として連れてこられた。


 山間部では美しいと有名だった従姉も、後宮ではただただ平凡だった。


 陛下は一度お渡りになったのち、一度も従姉にわたることなく、それまでは絶世の美姫と褒め称えられ、甘やかされて育った気性の荒い従姉はそれを認める事が出来ず、他の姫への嫉妬と羨望で怒り狂い、与えられた宮の中で暴れるようになった。


 そんな従姉の暴力から逃げるように、別の宮の媛に同じようにいじめにあっていたという、顔見知りになった下女と二人、隠れるように人が寄り付くことのない北の祭殿で過ごすことが増えた。


「ロウシェン! こっちこっち!」


「メイレン!」


 親しく成った下女は、山奥の村からやはり口減らしとしてやって来た下女で、文字を書いたり読んだりすることもできなかった。


 私は彼女に文字を教え、お菓子を一緒に食べ、笑いあった。


 従姉の暴言暴力に耐えるだけの生活の中で、それは唯一の心のよりどころであった。


 ある日。


 いつものように桃まんじゅうを抱えて北の祭殿に来た私は、綺麗な笛の音を聞いた。


 それは、哀切歌だった。


 戯曲の中に出てくるその曲は、戦火の下、恋しい人と離れ離れになった笛吹きの男が、彼女を想い吹いたとされる曲だった。


 とても上手なその笛の音に、私は吹いている人を見つけたくなり、あたりを見回した。


 だが、周囲をには誰もいない。


 待ち合わせの場所から離れるわけにもいかないため、誰が吹いているのかしら? と思いながらも、その綺麗な笛の音に耳を傾けていた。


 そして。


 気が付いたら歌を歌っていた。


 哀切歌。


 私にはそれほどまでに愛おしいと思った人がいたことはないけれど、きっと、こんな気持ちなのだろうと想像し、歌った。


 繰り返される笛の音に合わせて、何度も歌った。


 遅れてやってきた下女のメイレンが大きな声で褒めてくれて、私はびっくりして我に返ったのを覚えている。


 笛の音は、もう聞こえなくなっていた。


 それから一緒に桃まんじゅうを食べ、先ほどの歌をメイレンに教えながら、わたしたちは一緒に過ごした。


 次の日も、次の日も。


 メイレンと共に歌を歌い、文字を教え、菓子を食べた。


 その間に数度、やはり笛の音を聞いた。


 決まって哀切歌を吹いていて、誘われるままに私は歌った。


 そんなある日、同じように笛の音に合わせて歌っていると、それはぴたりと音を止め、変わりに何処からか男性の声がした。


「お前。」


「は、はい!」


 姿は見えない。 でも声はする。


 穏やかだけれども決して逆らえない、そんな声は私に一つ、問いかけた。


「名は、なんという。」


 首をかしげながらも、私は答えた。


「藤紫宮で侍女をしております、ロウシェンと申します。」


「ロウシェン、か。 いい名だ。」


 ではな。 そう言って、その日はもう、笛の値は聞こえなかった。


 私は命令を待って、蓮の実の月餅を食べながら話をした。


「後宮で男の人の声なんて、おかしくないかしら?」


「……そう言われれば、そうね……でも、兵士や官吏の方かもしれないわ。」


 私はそう答えたけれど、私よりも長くここにいるメイレンの感の方が当たっていた。


 ある日、従姉に、正確には宮に陛下のお渡りの先ぶれがあったのだ。


 従姉は大喜びで身支度を整え、わたしたちは大あわせて宮を綺麗にし、陛下を待った。


「ロウシェン! 早くお茶の用意をしなさい!」


 浮かれながらも、陛下にまとわりつき、席についた厚化粧の従姉に指示され、私は茶の用意をした。


「……かしこまりました。」


 お渡りになられた陛下にお茶をお出しするとき、お顔を見ないようにお出ししたのだが、不意に、腕を掴まれた。


「妃、これを私にもらえるか。」


 陛下は、そうおっしゃった。


 私は何を言われているのかわからず、手を掴まれ、頭を下げたままだったが、従姉は違った。


「あ、あの、陛下……。 その者が何かいたしましたでしょうか? で、あればすぐに罰します故を許しを……それよりも本日は実家より、滋養に良いとされる……」


 違うと解っていて、鼻にかかるような甘い声でそう言った。


「そうではない。」


 しかし、陛下の声は言い放った。


「この者を気に入ったからくれ、と言っているのだ。」


 それには、従姉の方が吼えた。


「そ、それは! そんな者よりも私の方が!」


 しかし陛下は腹の底に染みるような冷たい声で、言い放った。


「……誰に物を聞いているのか?」


「も、申し訳ございません!」


 飛び跳ねるように身を縮み上がらせ、椅子から床にしゃがみこみ、頭を下げた従姉は、下から私の事を睨みつけていた。


 そんな従姉の鬼のような形相を怖いと感じ、震える私に、陛下は声をかけてくださった。


「顔をあげよ。 お前が、ロウシェンか?」


「……は、はい。」


 ゆっくりと顔を上げると、そこには精悍なお顔つきの、ひげを蓄えた美しい皇帝陛下のお顔があった。


「お前には冬柊宮を与える。 皆には申し伝えてある。 行くぞ。」


 そう言って、陛下は私の手を引き、従姉の宮を出られた。


 このまま陛下に手を引かれ宮に入れば大きな騒ぎになる。


 そう言って、陛下についている侍従の方たちが慌てて私と陛下を離してくださり、後日わたる事でお話を付けてくださったため、大きな騒ぎになる事はなかった……はずもなく。 中級妃の侍女が突然、寵愛を受ける妃にのみ与えられる四季の宮の一つに移されたという話はあっという間に後宮内に広がったそうだ。


 そんなことを知ることなく、従姉の宮から冬柊宮に移された私を待っていたのは、見ず知らずの宮と、侍女たちだった。 その侍女の中にメイレンの顔があった時には、心からほっとしたものだ。


 しかし、ゆっくりはしていられなかった。


 宮を移されて翌日、本当に陛下のお渡りがあったのだ。


 朝から体の隅々まで磨かれ、夕刻に陛下をお迎えした私は、ただ静かに、陛下のお傍に座っているしかできなかった。


 なぜ自分が、と。


 そんなことしか考えられなかったのだ。


「ロウシェン。」 


「は、はい! へ、陛下……い、いかがなされましたか?」


「手を出せ。」


 名を呼ばれ、身を硬くしながらおずおずと手を出した私に近づいてこられた陛下は、ひとつ、手の内に桃まんじゅうを置いてくださった。


「え?」


 顔を上げた私に、陛下は優しく笑ってくださり、そして袂から、笛を取り出された。


(笛?)


 それにゆっくりと口付けた陛下は、静かに息を吹き込んだ。


(哀切歌、だわ。)


 ただ静かに吹き鳴らされた哀切歌に、私は目を見開いた。


 ふっ、と。


 音切れた笛の音に目を瞬きしていると、陛下は笑って頭を撫でてくださった。


「今日は歌ってくれないのか?」


 そう言って。


「き、北の祭殿での笛は、もしかして……」


「私だ。 時折な、気晴らしに言って吹いていた。 これを拭くと、雑念も、苦しみも音になって消えていくからな……しかしつい先ごろ、それに合わせて歌ってくれる者が増えた。」


 陛下と、目が合った。


「お前は歌がうまいのだな……。 気晴らしの笛は、何時しかお前の声を聴くための手段になった。」


 だがなと、陛下は笛を私の手に乗せられた。


「それだけでは、我慢できなくなった。 私はお前に恋をしたのだ、ロウシェン。」


「……陛下。」


 私はそのまま、寝台へと連れて行かれた。


 そして私は、名実ともに、冬柊宮の妃となったのだった。

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