第6話 山椒魚の夢の中

ちょっとの間気絶していたかもしれない。「あ痛たたた」幸い床下はそれほどの深さはなく130cmほど落下しただけで済んだ。左肩と後頭部に痛みを感じたが、どちらも我慢できないほどの痛みではなかった。


僕は上体を起こし、自分が踏み抜いてしまった腐った床板の穴から上に顔を出した。

「あ、、、」

目の前の光景を見て唖然とした。牛鍋屋の玄関前には両脇に松明の火が煌々と焚かれ、そこでは民族衣装を着た店員が道を往来する人々に客引きの声をかけている。牛鍋屋の窓という窓からは明かりが漏れ、窓越しに客達が談笑しながら牛鍋をつついている様子が見える。

「何、これ?」

狐に抓まれた気分だ。やがて穴から顔を覗かせている僕に大して、通行人達が好奇の目線を向けているのに気が付いた。

僕は恥ずかしくなり、急いで穴から這い出たのだった。

僕は作務衣のようなものを着ていた。持ち物は何もなかった。お金もスマートフォンもない。

「メイリンは?」

あたりを見渡すがメイリンの姿はなかった。


先ほどまで徘徊していた廃墟商店街が廃墟ではなく、全ての店舗が営業中で繁盛している活気あふれる商店街になっていた。


夢を見ているに違いない、とにかく元の世界に戻らないと。

メイリンは何処だ?

彷徨い歩き始める。煌びやかな夜の街。道の両端には活気あるお店が立ち並び、どの店も多くの客で賑わっている。

食べる喜び、着飾る喜び、歌う喜びに満ち溢れた商店街は活気に満ち溢れている。

民族衣装を着た女性達の集団が街の一隅で話に夢中になっているかと思えば、

労働を終えた作業者風の男たちの集団が酒を飲んで気分よく二軒目のお店はどこにしようか千鳥足で道を行き来している。

歩道には人が溢れ、ところどころでは、肩と肩が触れ合うほどの密度である。


これがさっきまでメイリンと一緒に歩いていた商店街の本来の姿なのだなと思った。

世の中不思議なこともあるものだ。


煌びやかな商店街を行きかう人々の間を縫うようにして歩いていると、一際目立つ人混みがあった。

お店の玄関門の外まで人が溢れ出している。メイリンと見つけて中をのぞき見した山椒魚料理の立派な高級料亭だ。

今は、あの固く閉じていた門は左右に大きく開け放たれており、人々でギュウギュウになっていた。また、歩道と料亭の敷地の間にある板壁は上半分が取り外され、歩道にいる人々からも中庭にある舞台が見えるようになっている。

中庭にせり出される形で舞台があり、舞台の四方に松明が煌々と焚かれている。

料亭の二階、三階の回廊にも見物客が表に出てきていて舞台を見つめている。

僕は玄関正面門の左手、歩道側から料亭の板壁沿いを舞台のほうへ進む。歩道に面した板壁は上半分が取り外されていて舞台が見える。舞台の近くにいくと、舞台正面ではんく舞台の側面から見ることになるため段々と観客が減る。結局、舞台の真横の観客が一番少ないところまでいって、なんとか前にいる観客達の頭の間から舞台が見えた。


舞台上には情緒たっぷりの民族音楽が流れている。舞台袖から一人の女性が両手を額の上にかざし着物の袖で顔を隠した状態で舞台中央に歩み出る。音楽は段々とボルテージが上がる。女性は袖で顔を隠したまま微動だにしない。

音楽はさらにテンポもボリュームも上げて熱を帯び、最高潮に達すかと思われた時、銅鑼がバシャーンと鳴ったかと思ったら、舞台上の女性は高く飛び上がり、ふわりと着地した。両手は鳥の両翼のように拡げられている。顔の上半分が銀のマスクで覆われている。

この女性が恐らく主演女優だろう。この主演女優はこの世の重力を無視するかのような軽やかなステップで舞台上を円を描くように回り始めた。2,3周目からは舞台袖から次から次へと新しい踊り手が出てきてその輪に加わる。

まるで主演女優が他の鳥たちを先導して祝祭の儀式の舞をしているようだ。

踊り手たちの着物の袖が風を孕みユラユラと揺れる。ステップはどこまでも軽やかだ。音楽は依然として熱量たっぷりで、人々の舞踊の輪の根源的な力を生み出しているように思う。やがてはじめから舞台上にいた主演女優が輪の中心に進み出て、一人独演で踊り出した。この主演女優の舞踊は観るものを惹きつける。観客全員が主演女優のこの世のものとは思えない軽やかなステップと音楽と完全にシンクロした動きに魅了される。音楽は主演女優のダンスと共に更に熱を帯び、回る渡り鳥達のダンスもより早く、ジャンプはより高くなっていく。そのどれもが最高潮に達した時に銅鑼がジャーンとなり、全ての演者が舞台に伏せる形となった。


舞台の雰囲気は一転、切なくて美しい旋律の音楽が流れる。主演女優が静かに立ち上がり、静かに舞を始める。

僕はマスクを外して舞う主演女優の顔を見て驚いた。「メイリン!?」

僕の目からはどこからどう見てもメイリンにしか見えないが、今、舞台の上で自信をもって舞う姿は、僕の知っている普段のかわいい女の子としての印象とあまりに違う。舞台上の主演女優の舞は観客達をたっぷりと魅了した後、他の出演者達も踊りに加わりフィナーレとなった。観客達から拍手喝采の嵐。

メイリン?主演の演目が終わると一部の観客が会場を去りはじめ、二階三階の回廊から舞台を観ていた何人かの観客も室内へ戻り始める。

すると、舞台上に男が立ち、挨拶を始めた。そして、僕はこの男にも見覚えがあった。

僕が床下へ落下する前、メイリンと廃墟巡りをしていた時にメイリンが話しかけた太鼓腹を露出していた男だ。

現実世界つまり完全な廃墟だった商店街においては、この男の目は焦点が定まっておらず、僕は狂っているんじゃないかと思っていたが、今、目の前の舞台で挨拶に立っている男の目には生気がみなぎっており、この大規模なショーを成功させた自信に満ち溢れていた。

男の衣服には山椒魚が陰陽を抱く意匠の刺繍がある。この男はこの舞台のある山椒魚高級料亭の経営者(老板ラオバン)なのだ。

あの男はこの商店街が廃墟になる前はこの高級料亭の経営者として成功していたのだ。

スピーチの内容は中国語で何を言っているのか僕は理解できなかったけれど、古今東西、偉い人のスピーチは来場客への感謝と、自身の商売をどうぞよろしく、という内容に相場が決まっているので、たぶんそうだろう。

男の挨拶も終わり、いよいよ観客達は思い思いに散り始めた。


僕はメイリンのように見えた主演女優に会って話がしたいと思い、高級料亭の正面門から中へ入ろうとしたが門番に制止されてしまった。ショーに招待された人か料亭で食事をする人以外は敷地内に入れないらしい。

僕のつたない中国語で主演女優に会いたいと門番に伝えるも、当然のことだが、人気のある主演女優に一般人が会いたいと言って会えるわけがない。まるで相手にされず追い返された。


さて、どうしよう。

とにかくメイリンを探して会ってみないと。


山椒魚高級料亭の周囲や、僕が床下に落ちた牛鍋店の周囲、

メイリンを探して街中をくまなく歩き彷徨うも見つからない。

疲れた。そして腹が減った。

商店街に沿って流れる太い河原に出る。河原にはヤマモモの木が自生しており、その実をもいで食べる。

手に紫色の果汁がつく。口に入れると甘酸っぱくて美味い。この旅行で初めて食べた。メイリンに教わったんだった。

涙が出てきた。孤独だった。中国語をもっと勉強しておくんだった。


「情けねえな、男が泣くんじゃねえよ」

背後で声がした。でも姿が見えない。

ヤマモモの木に一匹の猿がいた。

この猿にも見覚えがある。一歩登天で会った猿だった。

「お前は・・・あの猿?」

「ああ、そうだよ。覚えていてくれたとは光栄だね」

「この世界は現実?」

「現実なわけないだろう。現実は廃墟だぜ。ココは山椒魚老板の夢の中さ」

あまりにも現実離れした話に言葉を失う僕。

「お前の彼女、メイリンとか言ったっけ?アイツも山椒魚老板の夢の中にいるっちゃいる。

だがあの娘はお前のように現実世界のことを覚えてないぜ。

現実世界で山椒魚老板と話したことのある奴だけ、山椒魚老板の夢に取り込まれるのさ。なにせアイツの夢の中だからな」

そうか、やっぱりさっきの舞台で舞を披露していた主演女優はメイリンだったのか。

「おっと、俺はそろそろ行かないと。あばよ」

そういって、猿は風のように去っていった。

もっと沢山訊きたいことがあったのに。



ここは山椒魚老板の見ている夢の中。

そして何故か僕は夢の中に取り込まれてしまっている。

さしあたって僕がやりたいことは現実世界に戻りたい。

まずは牛鍋屋の前の床板の穴を確認しに行く。残念ながら床板の穴の下は130cm程の空洞になっていて底部は何の変哲もない地面だ。

現実世界へ戻る通用口みたいなのはなかった。


この商店街が山椒魚老板の夢の中なのであれば、商店街から出れば良いのではないかと思う。

商店街に沿って流れる太い川にかかる橋を渡る。橋の中腹には中国式の寺院のような東屋があり中では小さい机にお土産物を並べて売っている商売人がいる。商売人達を横目に素通りして橋の対岸まで渡ると、なぜか、元居た商店街の側へと戻ってきてしまっている。

なんだこれ?

これは道路でも同じだ。商店街の外周沿いの道路を渡り終えたと思うと目の前にあるのは商店街の中。元々僕がいた場所なのだ。

物理的に商店街から出ようとしても、いつの間にか商店街に戻ってきてしまう。

なんだ、これ。よくできているな。

感心しそうになるが、そんなことを言っている場合じゃない。


ここが山椒魚の夢の中ならば、現実世界の狂った山椒魚に目を覚ましてもらう必要があるんじゃないか?

でも、どうやって?

山椒魚老板の経営しているあの建物へもう一度向かう。

数時間前にメイリンと思われる主演女優が演舞で観客を魅了したあの山椒魚高級料亭だ。

もう夜が深い。時計がないので時間が分からないが深夜0時を回ったころなのだろう。

さすがに大半の店が営業を終了していて辺りは閑散としている。

山椒魚高級料亭も正面の門は閉じられいる。

メイリンはこの料亭の中にいるのかな?

どうやったら会えるだろう?


その時、大きな正門ではなく、その脇にある小さな通用門から女の子が出てきた。

メイリンだ。すぐに分かった。

急いで追いかけて呼びかける

「メイリン!」

メイリンは振り向いて僕を見る。微笑みながらも僕のことが誰なのか分からないといった風情で首をかしげる。

「ニーハオ、ハロー」試しに英語を使う。

「ハロー」メイリンは英語で応答してくれた。

現実世界のメイリンと同じく、山椒魚老板の夢の中のメイリンも英語は話せるが、僕のことは覚えていないようだった。

「僕の名前はソウタ、君は?」

「私はリン」

「僕のこと覚えている?いつからあの山椒魚料亭の舞台で踊っているの?」

「あなたにはどこかで会ったような気がする。私がいつからあの舞台で踊っているのか思い出せないの。この世界に来る前のことを思い出そうとするんだけど、厚い雲のようなものに以前の記憶が覆われてしまっているようなの。今は日々、ただ毎日の舞台の仕事を精一杯やるだけ。」

そう話しながらメイリンが首をかしげた。セミロングの髪が動き、メイリンの耳にキラリと光るものが見えた。

イヤリングだ。

現実世界でこの旅行で僕がメイリンにプレゼントしたイヤリング。

この女の子はやっぱり間違いなくメイリンだ。

僕は現実世界のことを覚えているけれど、メイリンは山椒魚老板の妄想でこの商店街以外のことは記憶にないんだ。

一歩登天の猿の言っていた通りだ。


「リン、あのね。僕はこの世界に迷い込んでしまったようで、一文無しなんだ。どこか無料で泊まれる場所知らない?助けてほしい」「そうなんだ。かわいそうなソウタ。そうだ、河原にウチの演舞団が使っている物置小屋があるわ。そこには長椅子などもあるからそこで眠るといいわ。」

「分かった、ありがとう。恩に着るよ」

「ごめんね、案内してあげたいけれど、そろそろ戻らないと団の仲間が心配するわ」

「OK、一人で行けるさ。まずは君に会えてよかった」

僕は現実世界でメイリンと別れる時のようにハグをしようとしたが思いとどまった。代わりに手を振って通用門から屋敷の中へ戻っていくメイリンを見送った。


河原にある物置小屋はすぐ見つかった。入口の木製ドアに鍵はかかっていなかった。入ってすぐのところに長椅子があった。

ぐったりと疲れていた。長椅子に身体を横たえるとすぐに寝入ってしまった。


その夜、僕は夢を見た。夕暮れ時の河原を歩く二人。メイリンと僕。山椒魚の夢の中なのかそれとも現実なのか分からない。

僕らはお互いを見つめ合いキスをする夢・・・。



翌朝、辺りが明るくなり始めたころに目覚めた。目を開けると全く見覚えのない場所にいるので、自分がどこにいるのかしばし考えた。自分が山椒魚老板の夢の世界にまだいるんだと理解するまでに、結構長い時間が必要だった。

というか、現実世界に戻っていることを薄っすらと期待していたのだが見事に裏切られた。軽くショックだった。


「ハハハ、そんなに簡単に願いは叶わないか・・・」


物置小屋を出て、川の水で顔を洗っているとメイリンが来てくれた。

「ソウタ、おはよう」

手には温かいお粥を持っている。

現実世界の僕のことを覚えていないのに、こっちの世界(山椒魚老板の夢の世界)でも相変わらずメイリンは優しい。


河原にある岩に二人腰かけて話す。


結局、僕の中では「山椒魚老板と話をするしかない」というのが結論で、メイリンに山椒魚老板と会う機会を作ってほしいとお願いした。


「今からであれば大丈夫だと思うわ。老板はちょうどこの時間帯は老板執務室にいて昨日の営業結果を確認するのが日課だから」

話が早い。早速、メイリンと一緒に山椒魚老板に会いに行った。

山椒魚料亭前まで来ると、玄関正面の門は営業開始前だからか閉じていた。通用門をリンが開ける。守衛がいるが、リンが何やら話して通してもらえた。老板執務室は屋敷の一階の一番奥にあった。長い長い廊下を歩いてたどり着いた。

老板室をメイリンがノックして室内に入る。

山椒魚老板は相変わらず太鼓腹が立派だが、目に生気がみなぎっているので現実世界の印象とはまるで違う。商才に長けた成功者の貫禄がある。メイリンに続いて僕が室内に入ると、老板がギョロっとした目で僕を見た。


「こんにちは。私はソウタと言います。この世界に迷い込んでしまったようで、この世界から出る方法を探しています」

メイリンが通訳してくれる。

山椒魚老板「ようこそ。なぜこの素晴らしい世界から出る必要があるのかね?」

「私が本来いる場所ではありません。ここはあなたの夢の中の世界でしょう。商店街より外には行けないようです」

「商店街の外?必要ない。この商店街の中で全ては充足している。私はこの上なく幸せだ。お前の友達のこの娘、メイリンも舞踊団で活躍していて何不自由なく生活している。夢から覚める必要などない。」

「ずっと夢を見続けられるものなんでしょうか?メイリンも僕も、あなたの夢の中にいては自由がありません」

「そんなことは知らん。私はこの世界において、全てを手に入れ、とても満足している。この状態を壊したりしたら容赦せんぞ。その代わりこの世界で生きていきたいのであれば、衣食住は保証してあげよう」

「分かりました。考える時間をください。」


メイリンは昼の公演があるからと山椒魚の料亭に残った。


僕は一人河原に戻り、途方に暮れているとヤマモモの木に一歩登天の猿がいた。


「山椒魚に会ったのか」

「うん、彼の夢の中だから、彼に会って出られるようにお願いしたら出られるかなと思ったんだけどダメだった。

確かにこの夢の世界は彼にとって理想郷なのに、現実世界では狂人なんだから、夢を見続ける選択は当然だよね」

「お前はこの山椒魚の夢の世界で生きていくのが嫌か」

「嫌だよ。商店街の中だけなんてあまりにも狭い世界だし、自由がない。」

「1つだけこの世界から出られる方法があるぞ。お前は夢をみるか?」

「夢?寝ている時にみる夢?普通に見るよ。それとも将来の願望としての夢とかそういうのかな?」

「どちらも現実ではないという意味で大差はないが、寝ている時にみる夢だな」

「みるよ」

「お前が寝ている最中にみた夢を、この山椒魚の夢の世界で、現実にするんだ。

山椒魚の夢の世界に完全に取り込まれてしまった人は夢を見られない。ただ、お前は山椒魚にとって中国語が通じず異物で、いわば事故のような形でこの世界に入ってきてしまったから、自分自身の夢をみられるようだ。

その夢を現実に実行するんだ。山椒魚はそれを制御できない。その矛盾はお前がこの夢の世界から出られる突破口になる」


僕は昨日見た夢を思い出して、赤面してしまった。


太陽が高くなった。昼だ。そろそろメイリンの出演する昼の舞台が始まる頃か。

僕は山椒魚の料亭へと向かった。


料亭の前には昨夜ほどではないほどの、やはり人だかりができていた。

雑技団のアクロバティックな演目が終わった後、メイリンのショータイムだった。

今回は太極拳だった。布製の龍が複数人の黒子に操作されてメイリンの周囲を舞う。

メイリンは龍の動きと時にシンクロしながら、ゆっくりと洗練された動きで舞う。

既視感があった。そう、現実世界の廃墟でメイリンは僕に見せるために太極拳を踊ってくれた。

あの時は白いワンピースでとっても綺麗だったが、今回の太極拳は龍とのコンビネーションだからより神々しい印象だ。

今回はさすがプロ、踊りを途中で忘れることもなく、見事に最後まで踊り切った。

観客も静まり返り、メイリンの演舞に集中していた。

メイリンが最後のポーズを決めて、観客席に一礼すると大きな拍手がおきた。

僕も時間や場所を忘れてメイリンの演舞に没入した。本当に美しくて惚れ惚れした。


公演後、メイリンが河原に来てくれた。

メイリンはこの世界でも矛盾なく楽しそうに幸せそうにしてる。山椒魚に頼み込んで僕もこの世界で生きていくという選択もありかもと一瞬考えた。いやだめだ。狭すぎる。僕は山椒魚の支配下で生きていくのなんてゴメンだ。


とはいえメイリンになんと切り出すべきか。

「君とキスしたい」なんて言えない。山椒魚の夢の中で、せっかくできた友達だ。

もしこの世界から出られない場合に頼れる友達がいなくなると困る。

でも安易に彼女に愛を誓っていいものだろうか。

僕はこの世界から出ていくのだから、この世界の中のメイリンの傍にずっといて愛を育むことはできない。


僕とメイリンは一緒に川べりを散歩することにした。

僕らは現実世界でも山椒魚の世界でも、友達同士だからただ歩いている時には手は繋がない。

滑りやすい場所を歩く時や、人混みではぐれそうな時は手を繋ぐ。

この時、僕はメイリンの数歩先を歩き、メイリンは自分のペースで小さな声で歌いながら後をついてくる。

僕はその歌に聞き覚えがあった。現実世界でリンが歌っていた歌だ。 

Mo Li Hua(茉莉花)という歌。

確信した。この世界のメイリンは現実世界のメイリンと完全同一人物だ。

本来いる場所は現実世界以外にない。


僕は決心して振り返る。

現実世界では夜寝る時、お互いのホテルへ戻る時に必ずハグをしている。

まさにそのイメージでリンを迎えいれるよう両手を広げて。

リンは両手を広げた僕を見ても全く動じず、ゆっくりとした歩みを止めず僕の前までゆっくりと近づいてきた。

そして、僕の胸に小さくて細い身体を預けてきた。僕はリンを抱きしめる。僕の大切な人。

二人は見つめあい、そして目を閉じてそっとキスをした。


目を開けるとメイリンが僕の顔を覗き込んでいた。

僕はどうやら床下に寝転んでいて、傍らにメイリンが座っているようだ。

メイリンの耳には僕がプレゼントしたイヤリング。


「ソウタ、気がついたんだ!良かった!」

メイリンは強く抱きしめてくれた。


どうも僕は現実世界の廃墟商店街で床下に数分前に落下し、少しの間、気を失っていたらしかった。

メイリンは床下に降りて僕を楽な姿勢に導き、休ませてくれていたらしい。

僕は「長い夢を見ていたよ」とメイリンに伝えた。

「どんな夢?」

「山椒魚の夢の中に入り込んで、君と一緒に協力して夢から醒めるよう冒険する夢さ」


水を飲み、少し落ち着いてから僕らは廃墟商店街を出て宿に向かう。

気絶してた間の話をメイリンにした。

山椒魚の夢の中に迷いこんでいたこと、山椒魚が以前はやり手の経営者だったこと、メイリンは踊りの名手だったこと、同じイヤリングをしていて茉莉花の歌を歌っていたこと、現実世界については覚えてなかったこと、一歩登天の猿が山椒魚の夢の中から脱出する方法を教えてくれたこと。


「メイリンとキスする夢をみて、本当にキスしたんだよ」

と伝えるとメイリンは少し照れ笑いしながら言った

「もう忘れちゃったよ」


その時、廃墟商店街の脇を流れる川べりから一匹の大きな山椒魚が川へゆっくりと入っていった。チャポンと音がした。

一歩登天の猿は、今も、孫悟空のように筋斗雲に乗り張家界の岩山の合間を飛び回って、他人の夢に迷い込んだ人を救っていることだろう。

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山椒魚の夢の中 @majikore

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