第5話 張家界旅行五日目 廃墟商店街で怪しい男に遭遇 メイリンの太極拳演舞

今回の中国旅行にて、いよいよ丸一日メイリンと一緒にいられる最後の日だ。

いつも通り朝に僕のホテルで一緒に朝食をとり出かけた。張家界の独特な岩山群の間を流れる川を堰き止めてダムとしての役割を担わせている人工の湖、宝峰湖を観光船で周遊した。周遊観光船乗り場のほとりには特産品である山椒魚にちなんだ観光施設、それに宝峰湖から流れ出る水による壮麗な滝の前で小粋にポーズを決める孫悟空像があった。

僕は中国では山椒魚を養殖して、食用にすると聞いて驚いた。

日本の山椒魚は天然記念物として保護されているので捕獲して食べるという発想がなかった。

水槽の中の山椒魚を眺めてみる。どんよりとした瞳、ただ息をしているだけでほとんど動かない。可愛らしさもないし、食べたいとも全く思わない。何を考えているのか分からない。不気味だ。

僕とメイリンはこの不気味な山椒魚を食べることに全く気乗りしなかった。

もしメイリンが食べたいと言い出したらどうしようと思っていたので、心底ホッとした。



宝峰湖のほとりの観光施設内の展示物(この地域の先住民族では死者を蘇らせる呪術者が有名)を一通り眺めたりした後、滝の前でポーズを決める孫悟空の像と一緒に僕らも写真撮影したりした。

こんな時、僕は可愛いメイリンちゃんの写真を撮りたいのだが、この時、メイリンは気が乗らなかったのか「私の写真は撮らなくていいよ」と撮らせてくれなかった。その代わりだと言って、孫悟空のポーズを模した僕をメイリンが撮影した。

去り際、孫悟空像の瞳が動き、僕をチラっと見た気がした。


宝峰湖観光の後、僕らはバスを利用せず、武陵源にあるホテルまで川沿いを散策しながら帰ることにした。


川幅は広く、緩やかに流れる川。

時々、川の水で洗濯している地元のおばちゃんがいる。両岸の遊歩道は絶好の散歩コースだ。


しばらく二人でのんびりとした観光地でもない中国の田舎町を流れる川沿いを歩いていると、車が二車線で往来できる立派な橋が川にかかっていた。その橋の上を通っている街道沿いには建物が集積している。

街道沿いに建つ建物は4,5階建てでレストランやお土産物屋などのテナントが入居している。


そして、その建物群は、川と直角に交わる街道沿いだけではなく、川沿いに左右にも広がっているのだが、その一角の建物群が何かおかしい。具体的には人気が全くなく、遠目からも看板が剥げ落ちいていたりして廃墟のように見える。

近づいてみると廃墟店舗100戸以上で構成された幅数百m四方の巨大商店街だった。全体的に中国の伝統的な家屋群を模したような作りで趣があるが、すべての店舗が完全に営業停止している。

ある店舗は大きな南京錠で入口のガラス扉が閉ざされている。中を覗いて見ると、売り場からは価値のあるものはあらかた持ち運び出された後で、残された販売用什器には埃が厚く積もっていた。違う店舗は元BARだったのだろうか、道沿いのガラスが割られて、カウンター周辺に割れた酒瓶が散乱していた。


この川沿いの廃墟商店街には車道はなく、歩行者専用の幅5mほどの歩道が広場から延びていてその両脇に、観光客の目を惹くために装飾的な店舗群が廃墟となって軒を連ねている。かなり大きな商店街で、歩道は縦横に碁盤の目のように張り巡らされていて、活況を呈していた往時は多くの観光客でにぎわっていたのだろうと思う。そうでなければ成立しないほど大規模なのだ。歩道には緑地や花壇、情緒溢れる小川などが整備され、店舗デザインは、古い中国寺院を模したものや張家界エリアを代表するトゥチャ族やミャオ族流の建物など、遊園地内の街並みを作るとくらいの気合レベルで作り込まれている。

ただし現在は長年メンテナンスされていないと思われ、店舗群は荒廃が進んでいる。また、歩道の中央部分は埋没していた水道かガスかなにかの菅を掘り出した後、土が掘り返されたままの状態で放置されている。歩道の敷石もその影響で歪んでいる。

ある交差点に立って周囲を眺める。縦に走る通り沿いの両側数十軒、横に走る通り沿いの両側数十軒が一様に廃墟である。

鍋料理屋も、四川料理屋も、アイスクリームショップも、土産物屋も、宝石屋も、貸衣装屋も、全ての店が全て管理を放棄されて完全に廃墟と化している。


この雰囲気はかなり独特で面白い。

人通りは、ほとんどなし。時々、廃墟の写真を撮影したりする人や、廃墟をセットに見立てて写真を撮りに来たコスプレイヤー、散歩をする近所の人を見かけるが、基本的に無人である。


メイリンと二人で廃墟商店街を探検する。僕は過去に少なからずの女性と付き合ってきたが、喜んで廃墟探検に付き合ってくれる女性はいなかった。やっぱりメイリンは唯一無二の女性だ。

僕ら二人は、商店街の中でも一際目立つ大きな店舗を見つけた。かなり大型のこの店舗は中国の古い屋敷を模しているのだろうか。玄関正面には、高さ3m横幅5mほどの大型の木製の立派な門があり、その前にはメイリンの背丈ほどもありそうな、立派な狛犬2体が鎮座している。門には陰陽マークを山椒魚が抱いている金属製の大きな飾りが掲げてある。大きく分厚いいかにも頑丈で重そうな門は固く閉ざされているが、木の門の隙間から覗き込むと敷地はかなり奥行がある。玄関門からは石畳が奥へと延び、その先に歴史を感じる3階建ての回廊付きの木造の立派なお屋敷がコの字型に中庭を囲むようにして構えている。屋敷の一階、ニ階、三階それぞれの座敷や回廊から中庭を見渡せるようになっていた。中庭や屋敷の軒などにはそれぞれやはり山椒魚と陰陽マークをモチーフにした銀細工が施されていたり、要所には見事な彫刻の立体石像なども配置されていて雰囲気が抜群に良い。営業していたらかなり高級な山椒魚料理が売りの料亭だったのではないか。


メイリンと交互にこの高級料亭の佇まいを玄関門の隙間から覗き込む。

「この建物は豪華絢爛だね。この玄関門の陰陽を抱いた山椒魚の装飾だけでもお土産に持って帰れないかな?」

実際には大きすぎてとても日本まで持ち帰るのは困難だけれど、僕がおどけて言う。

「無理でしょ。でも古いものにはエネルギーがあってね、安易に持ち帰ったりするのはよくないよ」

「へー、そうなの」

「うん、私のお姉さんが昔西安を旅行した時に、古物商で古い花瓶を買ったの。それを家に持ち帰ってきてから体調を崩してね。風水の先生に見てもらったらその花瓶が原因だろうということで、花瓶をお祓いして処分したの。そしたらお姉さんの体調も元に戻ったの」

「なるほどね、そういうこともあるかもね」


そんな話をしていたら、僕らがいる高級料亭の玄関門の前をゆっくり横切る男がいる。その男は我々がいる門の前から3mほど離れた緑地帯の木の下で立ち止まった。メイリンは僕に話しながら目で彼の動きを追っていた。

男は僕らに背を向ける形で、木のそばに仁王立ちしている。

メイリンは「ソウタ、何?あの人。何してる?」と僕に耳打ちする。

「さあね、でも動いていないよ。ただ立っているだけ」。

男は、両足を開き中腰になり、両手をゆっくりと前方にあげる動きをした。

メイリンはその男の動きを見て「太極だ」と分かり、緊張をほどいた。

僕も、もしかしたら不審者や変質者かもと警戒していたので安心した。


場所を商店街の広場に移し、商店街内をサラサラと流れる小川を眺めながら東屋で休憩した。

僕はライチを食べながら、メイリンはチョコパイを食べながら話す。

聞けばメイリンも以前、太極(日本では太極拳)を習っていたんだそうだ。

我々日本人のイメージだと、太極拳は老人がやっていそうなイメージがあるが、事実そうらしい。

メイリンが習った時もメイリン以外は全員老人だったそうだ。

僕は、やっぱりこの女の子は変わっているなぁと思った。


「あの男の人がやっていた腰を落として、両手を肩の高さまでゆっくりと持ち上げて腰の位置まで下ろす動作は起勢(チーシー)というの」

「やってみせてよ」

「ココで?うん、まあいいけど、でもあまり私はうまくないよ」

「いいから、いいから」

という流れで商店街の広場の東屋にてメイリンが太極拳を実演してくれることになった。

メイリンは自分のスマホで太極拳用の曲を流す。

いつも微笑みを絶やさないメイリンの顔がキリっと集中した顔になる。

僕はこれはチャンスとばかりにスマートフォンでメイリンの太極拳を撮影する。


そのメイリンは直立姿勢から、ゆっくりと片足をあげて肩幅程度に開き、少し腰を落とす。両手を肩の高さまでゆっくりと持ち上げ腰の位置まで下ろす。横から風が吹いてきたようなイメージで両手を右から左へと流して上半身を左に捩じる、ゆっくりと流れるような動作だ。僕は撮影しながら太極拳をするメイリンに見入っていた。

埃にまみれたくすんだ色合いの廃墟商店街の中で、まっさら真っ白のワンピースに白いスニーカーのメイリンが太極拳をすると、とても映える。それまで話をしていた柔和な印象のメイリンではなく、太極拳の達人少女の演舞を見ている、そんな気になってきて、自分がどこで何をやっているのか完全に忘れてしまった。


「あ、ここから先の内容忘れちゃってる」

急にメイリンが躍るのを止めた。どうやらうまく踊れるのは冒頭1,2分程度らしい(笑)

それでもとっても素敵だった。「凄い良かったよ、メイリン!」と絶賛したらはにかんだような照れ笑いをしていた。


「いやー良いものが見られた」と満足して、また東屋でしばらく談笑していると、廃墟となっている店舗に入っては何やらゴソゴソと残置品を移動したり、また別の店舗に入っていってはゴソゴソと廃材の欠片をまとめたりしている男が目に入った。

中年のでっぷりと太った容貌の男だった。今までこの廃墟内で出会った人々は太極拳を始めた男以外は、この廃墟に来るのが初めてであろう人ばかりだったので、この男の行動は異質だ。廃墟となっている店舗に積極的に関与する人など1人もいなかった。

何をやっているんだろう?浮浪者が廃墟で少しでも金になるものを持ち出したりするのかな?程度に考えて僕は大して気にしていなかった。


ちょうど、持参したオヤツも果物も食べきったし、素敵な太極拳の演舞も見れたし、そろそろ移動しようかと二人で小川沿いにまだまだ続く廃墟商店街探索を再開することにした。

僕らが商店街の小川沿いの通りを歩いていると店舗の一つから先ほどの浮浪者風の男が出てきた。

薄汚れたポロシャツの腹部を捲り上げて太鼓腹をむき出しにしている。何か廃材などを持っていたら万が一メイリンが襲われたりしないように注意しないといけないが、幸い手には何も持っていなかった。


僕は少し急ぎ足でその男とすれ違ったが、メイリンは「ニーハオ」とその男に話しかけている。

「マジか」と僕は思った。

メイリンは警戒感がない。「こんな小汚いオヤジに声かける?」と少々呆れながら、僕はあまり関わりあいたくないし、そもそも中国語で内容は理解できないので、少し先に行って二人が会話するのを遠巻きに眺めていた。

男は僕のことは眼中にないのか一切目もくれず、メイリンと会話していた。


会話は結構長く続いていたような気がしたが、それは僕がちょっと不安を感じていたからで、実際は2,3分程度だったのかもしれない。メイリンが男との会話を終えて、僕のほうへ歩いてきた。

「何を話していたの?」

「この商店街について尋ねていたの」

「ふーん、なんて言ってた?」

「この廃墟商店街は決して放置されたわけではなくて、6カ月前まで普通に営業していて大盛況だったんだって。再開発のために全店舗営業終了して、今でも再開発は進んでいるんだって。」

「えー、そんなわけないでしょ」僕からすれば、各店舗の荒廃っぷりを見れば6カ月前まで営業していたなんて信じられない。例えば目の前にある廃墟の床には建屋の扉や窓の隙間から吹き込んだであろう土埃が1cmほど堆積してるし、風雨が吹き込んで傷んでしまったカーテンは本来濃い緑色だったはずが、もう地の灰色にまで脱色されてしまっている。また再開発中であれば、今後の開発に向けて、新しい資材が用意されていたり、囲いをして部外者立ち入り禁止にしたり、このような荒れるに任せて放置しておくなんてことはないはずだ。

「あの男の人、狂ってしまっているんじゃない?」僕はそう言った。

メイリンは「どうなのかな?」と困ったような顔をしていた。


そのメイリンの後方では話を終えた先ほどの男が、ある店舗へ入っていっては廃材を持ち出してきて、隣の店舗の前に置く。また違う店舗に入っていっては壊れた傘を持ち出して来て、違う店舗の前にその傘を立てかけるといった、全く意図の分からない、到底、再開発に役立つとは思えない作業を延々としているのが見えた。


「もう行こう、向こうのほうにも行ってみようと」とメイリンを促してその場を去った。


しばらく廃墟商店街巡りを続ける。トゥチャ族の銀細工で牡牛を表現した巨大な装飾物が店の前に掲げてある店がある。こちらは牛鍋専門店だったのだろうか。これも田舎の小学校の体育館程度の大きさがあるかなり大型の店舗だ。銀細工の装飾はメインの牡牛だけでなく店舗のいたるところに見られる。もちろん、大きさからいって本物の銀なはずはないが、少なくとも店舗装飾としては際立って豪華で迫力のある出来になっている。こんなに投資して豪華な建物を作ったのに今や廃墟。とっても勿体ない。

せめて僕らは写真に残しておこう。メイリンも僕も写真を撮るのが好きなので、思い思いに写真を撮影したりお互いの写真を撮りあったりしていた。

「メイリン、こっち向いて」

僕はメイリンとこの豪華な建物の全容を一枚の写真内に収めようとスマホを構えたまま後ろへ数歩あとずさりした。

バキっ!という大きな音が足元でしたかと思ったら、僕の身体は支えを失い後方へ傾き、足元にポッカリと開いた空間へと落下していった。メイリンの驚いた顔が目に入り、それから空、床板にできた穴の縁の木の割れた部分、暗闇の順番で視界に入ってきた。頭上で「ソウタ!」とメイリンが叫ぶ声が聴こえた気がした。

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