第十一話 「このクラブの名を歴史に刻むために」
四月十七日の午前中。この日は練習が休みのため、孝弘はマンションの近くにあるジムを訪れていた。そこには、佳史の姿も。
「偶然だね」
「一ノ瀬さん」
二人が訪れていたのは台府SCのスポンサーを務める会社が運営するジム。孝弘達、台府SCの選手は無料でトレーニングをすることができる。
孝弘はバーベルスクワットを開始。十キロを超えるバーベルを両手に持ち、スクワット。年齢を感じさせない動きはジムを訪れた利用客の目を引いた。
その人物が孝弘ということを知っている利用客も少なからずいる。しかし、孝弘に気を遣い、声を掛けることはなかった。
バーベルスクワットを終えた孝弘。バーベルを置き、タオルで顔の汗を拭う。そして今度は、ダンベルプレスを開始。ベンチに仰向けになり、ダンベルをまっすぐ持ち上げる。
「ふぅ…」
七回を超えたあたりで、孝弘は一つ息をつく。そして、トレーニングを続ける。
「よし…」
設定した回数を終え、ダンベルを置く孝弘。持参していたドリンクを口にし、ジム内を見渡す。
佳史をはじめ、若い男性、孝弘よりも少し年上と思われる男性。十人以上の利用客がそれそれの目的のためにトレーニングに励んでいる。
目的は違うかもしれないが、トレーニングに励む仲間。プロアスリートの肩書など関係ない。この場にいる時はトレーニングに励む一人の人間。
孝弘が小さく頷くと同時に、佳史がバーベルスクワットを終えた。孝弘は佳史の元へ。
「息、あがってないか?」
「ちょっと、負荷加え過ぎたかもしれないですね」
孝弘の問いに、息をあげながらも笑みを交えて答える佳史。彼の表情はトレーニングの過酷さを表していた。
「若手には頑張ってほしいですけど、やっぱり先発で。そして、フル出場。選手である以上」
佳史が続けると、孝弘は真剣な表情で頷く。
孝弘も佳史と同じ気持ち。選手である以上は先発で出場したい。
若手が多いチームにとって孝弘の存在はとても大きい。それは、四月十二日までの試合に大きく表れていた。
隆義には孝弘を先発で起用し、その後、若手と交代というプランがあった。
しかし、それは試合を重ねるうちになくなった。
四月十四日の練習終了後、隆義は孝弘にこう話した。
「一ノ瀬を先発で起用したいが、そうするとベンチが心細い。若手を信頼していないわけではないが、一ノ瀬がベンチに控えていると、心強い。それは俺だけじゃなく、若手全員思っている。万が一のことがあった場合を除き、一ノ瀬はベンチスタート。新島達に経験を積ませるためにも。それだけは分かってくれ」
孝弘は隆義の言葉に「はい」と応えた。
先発で出場したい気持ちは強いが、監督が言う以上はそれに従う。回ってきた出番で勝利に繋がるプレーを見せ、監督の期待とサポーターの声援に応える。
そして、クラブを押し上げる。
「一ノ瀬さんがいらしてから明らかにこのクラブは変わりました」
孝弘の頭の中で流れていた十四日の映像が終了すると同時に、佳史の声が。
佳史の目をじっと見つめる孝弘。
「嘘ではありません。一ノ瀬さんがいらしてから若手の試合観が変わったんです。以前までは自分の成績だけを考えて、クラブの勝利は後回し。それが残留争いに巻き込まれる原因の一つ。でも、一ノ瀬さんが勝利のためにという気持ちをプレーで若手に見せてから、がらっと変わりました。クラブの勝利のためにプレーできない選手に明日はないと」
お金を貰っている以上、プレーで応えなくてはならない。クラブのために、応援してくれる人のために。その気持ちがプレーに、そして、契約に繋がる。
孝弘の考えだ。
「ピッチに立ったら勝利のためにボールを追いかける。一日でも長くプロの舞台に立ちたいのなら」
佳史の言葉に続くように孝弘がそう言う。同時に、インストラクターが佳史の元へ。
「渡さん。マシンの準備ができました」
「ありがとうございます」
佳史はお礼を伝え、軽くストレッチ。シューズの紐を結び直すと、孝弘と正対。
「それじゃ、トレーニング続けますね。ありがとうございます。気遣っていただいて」
笑顔でそう伝えた佳史はランニングマシンへ。そして、走りだしてからしばらくして、孝弘は懸垂を開始した。
正午になり、二人はトレーニングを終了。
「フリーの選手が?」
更衣室で孝弘が佳史に問う。
「ええ。去年まで台湾でプレーしていた三十二歳のボランチの選手です。恐らく、雄太のお手本で、競争相手かと」
「なるほどな…」
Tシャツに袖を通した孝弘は腕を組む。
「全体的に若手が多い。お手本となり、競争相手となる同じポジションの選手は欲しいだろうな」
孝弘は小さく頷くと、心で雄太にエールを贈る。それからしばらくし、佳史が言う。
「一ノ瀬さんはベンチにいてもらわないと困ります」
腕組みを解き、視線を佳史へ移す孝弘。
「どうしたんだ、渡君」
孝弘の目に映るのは真剣な眼差しで見つめる佳史の姿。
「一ノ瀬さんにしかないものがありますから。我々が持ち合わせていないものが。それがこのクラブに必要だと思っているんです。選手の成長のために。勝利のために。優勝へ向かうために」
佳史の目をじっと見つめる孝弘。少しの間があり、佳史はこう続けた。
「このクラブの名を歴史に刻むために」
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