第九話 「ボールを蹴る感覚を欲しがってるよ…!」

 四月三日。



 「右脚の状態はどうだ?」



 台府スタジアムの監督室で隆義が一人の選手に問う。



 「痛みは引きました。プレーにはそれほど影響はないかと」


 「そうか。まあ、怪我を悪化させては意味がない。状況に応じて起用する。そこだけは理解してくれ」


 「はい」



 隆義の目の前に立つ孝弘は頷く。


 

 天井の照明を見つめ、隆義は腕を組む。それからすぐ、視線を孝弘へ。



 「明日もベンチ。渡も。若手の奮起のためにも」



 隆義がこう続けると、孝弘は重みのある声で「はい」と応えた。


 隆義に挨拶をし、監督室を出る孝弘。ドアを閉めると同時に、自身の右脚へ視線を向ける。





 三月七日、後半二十三分から出場した孝弘はサイドから攻撃を仕掛け、オフサイドトラップで相手の攻撃の芽を摘む。



 迎えた後半三十七分。


 ボールを持った孝弘は左サイドからドリブルを仕掛けた。すると、相手クラブの選手がボールを奪いに走り、スライディングを仕掛けた。


 次の瞬間、孝弘は苦しい表情を浮かべ、倒れこんだ。同時にホイッスルが鳴り、試合が中断。


 相手選手のスパイクの底が孝弘の右脹脛ふくらはぐに直撃。主審は相手選手にイエローカードを提示し、孝弘の元へ。


 孝弘は立ち上がることができなかった。


 なんとかして立ち上がろうとするが、右脹脛の痛みがその動きを妨げる。


 主審は担架を要求。スタジアム係員が担架を持ち、孝弘の元へ。


 すると。



 「だ、大丈夫です…。大丈夫ですから…」



 孝弘が苦しそうな声を上げる。



 「いや、でも…」



 佳史の言葉に孝弘は。



 「大丈夫だ…」



 そう応え、ピッチに右膝をつく。そして、ゆっくりと立ち上がる。強烈な痛みが走らないように慎重に。


 完全に立ち上がると、関東のスタジアムを訪れた台府SCサポーターから拍手が起こる。


 そして、相手クラブのサポーターからも。



 スライディングをした相手クラブの選手は孝弘に謝罪の言葉を述べる。孝弘は彼の言葉に笑顔で応え、ゆっくりとポジションへ戻る。


 

 試合再開後、孝弘はアクシデントがあったことを思わせないほど軽快な動きを見せた。


 試合は前半の失点が響き、二対三で敗れた。



 試合終了後、ベンチへ腰掛けた孝弘の右脹脛に微かな痛みが走った。


 右脹脛を右手で抑えていると、隆義が彼の元へ。



 「大事を取って、しばらく休んでもらう」



 監督の言葉にベテラン選手は小さく頷いた。



 「分かりました…」



 

 孝弘は立ち上がると、医務室へ。診察を受け、マッチドクターから「軽傷」と告げられた。





 三月七日の試合のことを思い出していると、孝弘はいつの間にか駐車場にいた。「はっ」としたように薄暗い駐車場の天井を見つめる。


 

 「あの試合から負けが続いた。悪い流れが続いている。それを断ち切らないと…」



 そう呟き、バッグらから車の鍵を取り出す孝弘。ボタンを押し、ロックを解除。運転席のドアをゆっくりと開け、シートへ腰掛ける。



 「そのためにはどうすればいいか…。それは…」



 その言葉と同時に、鍵を差し込み、回す。エンジンがかかるとシートベルトを締め、ルームミラーを調節し、ハンドルを握る。



 「ただ一つ…!」



 左右を確認し、アクセルを踏む。そして、自宅のマンションへ続く道路を進んだ。




 「ただいま」



 午後四時五十一分に孝弘は帰宅。ドアを閉めると、丁度この日に引っ越してきた朋子と凛が出迎える。


 この月から新しい環境で勉学に勤しむ凛。しかし、凛は寂しさを見せることはなかった。



 「大家さんの所に挨拶に行ったら、私と同い年の子もこのマンションにいるって話してたの。そしたら丁度、その子がね…!」



 笑顔の凛。


 孝弘は凛の話に耳を傾ける。



 「その子のお父さんとお母さんが台府SCを応援してるんだって。でも、負けが続いて、元気ないみたいなの」



 暗い表情を浮かべ、僅かに俯く凛。


 この時、ある言葉が孝弘の喉元までこみ上げる。


 そして、口を開こうとした瞬間、凛は笑顔で孝弘を見つめる。



 「やっぱり、お父さんの力が必要だよ。だって、凄いんだもん」



 抽象的な理由。しかし、朋子にはその言葉の本質が分かっていた。



 「あれだけチームメイトの良さを引き出せるんだもんね。サッカー部だったからこそ、それがはっきりと分かった。それに、皆自信を持ってプレーしているように見える。お父さんがいない試合、テレビで観ていたけど、そういった姿が見られなかったもの」



 朋子をじっと見つめる孝弘。



 「明日、勝ってね。右脚、うずいてるでしょ?」



 微笑み、そう言葉を掛け、キッチンへ入る朋子。


 彼女の背中を見つめ、小さく頷いた孝弘は自身の右脹脛へ視線を向ける。



 「ボールを蹴る感覚を欲しがってるよ…!」



 


 そして、翌日。



 「二十番、一ノ瀬孝弘選手が入ります」



 〇対二の後半二十四分に孝弘がピッチへ入ると、台府スタジアムに彼への声援がこだまする。


 左サイドのポジションに立ち、電光掲示板を見つめる。



 「まだ逆転できる点差だ…」



 そう言葉を発すると、視線を最終ラインの佳史へ。


 佳史は孝弘からの無言のメッセージを受け取り、小さく頷く。


 そして、相手クラブがスローインのボールを入れると、孝弘は駆け出した。




 「一ノ瀬が来てるぞ!」



 後半二十七分、ボールを受けた孝弘はボールを奪いに走ってきた選手とマッチアップ。細かくボールを動かし、揺さぶる。しばらくし、雄太がサポートへ。しかし、彼に選手がついてしまう。


 すると、孝弘はドリブルを仕掛ける。マッチアップする選手は食らいつく。


 孝弘は相手選手を引き付けるようにペナルティーエリア内へ。そして、右足を僅かに上げる。


 相手クラブの選手がゴール前を固める。


 そこに、最終ラインから佳史が。その瞬間、孝弘は口元を緩める。


 佳史にマークが。同時に、ゴール前のラインが僅かに崩れた。それを見て、孝弘はノールックでヒールパスを出す。それから間もなくして、ボールを蹴る音が。


 そして、台府SCの応援スタンドから歓声が沸き起こる。


 ボールはゴールネットを叩く。


 孝弘達はゴールを決めた選手の元へ赴き、ハイタッチを交わす。



 「あの角度、得意なんです!」


 「あの角度だね。よし、頭に入れておくよ」



 大地と笑顔で言葉を交わし、ポジションへ戻る孝弘。そして、ピッチに立つ台府SCの若手選手を見つめる。



 「チームメイトの良いところを見つける。それも大事なことだよ。特定の選手に頼ってばかりじゃ、個々の、チームのレベルが上がらない。見つけた良さを活かせるプレーを身に付ける。それが、勝利への第一歩だよ」



 吹き抜ける風に乗せるように言葉を発する孝弘。それから間もなくして、試合が再開。


 その数分後、再び台府SCの応援スタンドが沸く。そして、アディショナルタイム突入前にも。


 二点目と三点目は孝弘のアシストではない。



 孝弘の右脚は一点目のアシストと合わせて三得点に貢献。


 そして、勝利と若手の活躍に。



 

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