第八話 「何かあった時のベテラン」
三月一日、朝五時二十七分。目を開けた孝弘の視線の先に真っ白な天井か映る。
「朝か……」
その言葉からすぐ、孝弘は上体を起こし、室内を見渡す。
孝弘は遠征先である関西のホテルの一室にいた。窓、テレビ、テーブル、椅子。視線を下へ向けるとベッドの真っ白のシーツが孝弘の目に映りこむ。
一通り室内を見渡した後、孝弘はベッドから下り、ジャージに着替える。そして、部屋のルームキーを携え、外に出た。
「この時期はまだ肌寒いな……」
ジョギングをしながらそう言葉を漏らす孝弘の口からは真っ白な息が漏れる。暦の上では春だが、まだまだ肌寒い時期だ。
しばらく進むと、公園が孝弘の目に映る。
「一休みするか」
孝弘はスピードを保ったまま、公園内に足を踏み入れ、ベンチに腰掛ける。
この日は十四時キックオフ。孝弘は開幕戦と同じくベンチスタートだ。
孝弘は一つ息をつき、言葉を発する。
「チームのためにできることを……!」
そして右手で握り拳を作ると、視線を上空に移す。すると、複数の人物の姿が孝弘の頭の中に浮かぶ。
すると、孝弘の口元が徐々に緩む。
「頑張るからな……!」
そして、頭の中に浮かんできた複数の人物にそう言葉を掛けると孝弘は立ち上がり、ジョギングを再開した。
六時二十七分にホテルの部屋に戻った孝弘は、シャワーで汗を洗い落とす。
「今日のコンディションはまあまあかな」
その言葉と同時に、水の流れを止め、バスタオルで体を拭き、着替える。
そして浴室を出ると一つ息をつき、朝食会場に赴いた。
「おはようございます!」
孝弘が朝食会場へ入ると、佳史が歩み寄る。
「おお、おはよう。今日のコンディションはどうだ?」
「まあまあですかね」
「俺と同じだな」
笑い合う
孝弘と佳史は笑い合う。
バイキング形式の朝食。孝弘と佳史はご飯を茶碗へ、味噌汁をお椀へよそう。そして、皿にサラダやハムエッグなどを盛る。
「よし、と……」
孝弘はトングを置く。同時に、隣に立つ佳史もトングを置く。そして、二人は同じテーブルに着き、向かい合う。
「いただきます」
孝弘と佳史は声を揃え、手を合わせる。
それからすぐ、孝弘は箸を持つ。それと同時に、孝弘が佳史に尋ねる。
「そういえば、今日ってこのチームが苦手としてる相手なんだろ?」
孝弘の問いに箸を持とうとした佳史の手の動きが止まる。
「はい。ここ数年、一度も勝てていないそうです」
「そうか……」
孝弘は佳史の言葉で一度、箸を置く。そして、腕を組みながら会場の照明を見つめる。
台府SCの対戦相手、セリージェ
台府SCにとって、一番の難敵と言ってもいいクラブだ。
「攻撃的なサッカーというイメージはあるけど……」
「そうですね。それがディフェンスにもなるというか」
「攻撃こそ最大の防御」
「そんな感じです」
孝弘は唸るように息をつくと、グラスの牛乳を一口含む。冷たい感覚が喉を通ると、グラスをテーブルにゆっくりと置くと、この試合での戦い方を考える
「攻撃のようなディフェンス。それはそれで厄介。カウンターから失点を重ねてしまう可能性もある。まずは、カウンター対策か」
すると、孝弘の言葉を聞いていたかのように隆義が歩み寄る。
「それは、俺も考えていたんだ。それが相手の一番の武器だと思っているからな」
孝弘と佳史は孝義の声が聞こえたと同時に立ち上がる。
二人の姿を見て、隆義は「座ったままでいい」と言うようにやさしい表情でジェスチャーを示す。
孝弘と佳史断りを入れるように頭を下げると、再び席に着く。
「今日は渡もベンチスタート。少々賭けかもしれないが、前半は若さで勝負。そして後半は状況次第にはなるが、二人の経験を。そんな感じに考えている。いつでも行ける準備はしておいてほしい」
孝弘と佳史が「はい」とこたえると、隆義は「頼むぞ」と言葉を掛けるように小さく頷き、自身のテーブルに着く。
彼が席に着いたことを確認し、孝弘と佳史は互いの視線を合わせる。
「確かに、それが正攻法かもしれないな。体力的な面も考えると」
「ええ。最初は若さで向かっていったほうがいいでしょうね」
二人は会場内にいる若手選手を見つめる。
「良い選手が揃っている。経験という面では乏しいかもしれないが、だからこそ見えてくるものもあるだろう」
「それに期待しましょう」
小さく頷いた二人は視線をテーブルへ移し、箸を持った。
十時三十分、孝弘達は試合会場のロッカームームに入り、練習着に着替える。
孝弘はシューズの紐を結び、天井を見つめると一つ息をつく。
すると――。
「一ノ瀬さん、渡さん」
雄太が孝弘と佳史の背後から恐る恐る声を掛ける。孝弘と佳史は彼の声を聞き、振り向く。
そこには、弱気な気持ちが窺える表情を浮かべる雄太の姿があった。
「大丈夫でしょうか……前半、お二人がピッチにいないので不安で……」
開幕戦のインタビューの時とは全く違う彼の姿を見て、孝弘が雄太に言う。
「開幕戦のインタビューで、鹿取君は何と話した?」
孝弘はやさしい口調で尋ねる。
雄太はその言葉で「はっ」としたように僅かに俯けた顔を上げる。
「『絶対優勝します』」
雄太がこたえると、孝弘は頷く。
「その気持をなくしちゃダメだ。なくしたらネガティブな気持ちが味方に広がり、大敗を招いてしまうかもしれない。その気持ちを持ち続けろ。シーズンが、いや、選手生活が終わりを迎えるまで」
孝弘の言葉に、雄太の背筋が伸びる。
「何かあった時のベテランだ。思い切りボールを追ってこい」
続く孝弘の言葉が雄太に勇気を与える。
「はい!」
この試合、台府SCは後半途中まで二点ビハインドの状況だったが、三十四分と終了間際に大地がゴールを決め、引き分け。勝ち点一を得た。
「右足に吸い寄せられそうなパスでしたよ」
「狙ってたよ、ちゃんと」
佳史、雄太と繋ぎ、ゴール前に送った孝弘のボールに大地が右足で合わせて。
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