2024年8月 最初の1ヶ月
不公平が嫌い
不公平が嫌い。
好き嫌いって自分じゃどうにもできないからこそ、好き嫌いの強弱がその人を作るって思う。僕は不公平、理不尽に耐えられない。不公平感を目の当たりにしたらものすごいストレスになる。
最近だとオリンピック。4年に1度しかないからこそ、そのトップの価値は高まっているんだろうけど、ちょっと見ていて腹が立つ。いわゆる疑惑の判定問題。柔道、バスケが顕著だけどどう考えてもコメントをもらわないと納得できない。日本だからというわけではなく、涙を飲んでいる選手を見るたび、どうしようもなく義憤を感じ、ストレスがたまり、オールマイトのような圧倒的な力を持って審判、もしくは大会運営に詰め寄りたくなる衝動に襲われる。
審判って必要か。代えられるなら機械判定にすべき。球技のイン・アウト判定なんて人が見る必要ない。人がやらないといけない合理的な理由ってなんだ。正確性は人間はだいぶ前から機械に負けているのに、未だに人がやっている理由がわからない。進行上、審判が必要な場面があるのはわかるけど、オリンピックのようなスポーツの祭典ならチャレンジ権はもっと多くて良いはず。
この不公平感への苦手意識は僕は非常に強い。「どうしてあいつは良くて、俺はだめなんだ」って感じた瞬間、我慢できないくらい強い抵抗が生まれる。人にも組織にも。世の中は不公平だし、主観しかないって分かっているけれど、理念的に公平であってほしいというわがままがある。多分、この気持ちは羨望と嫉妬だ。
昔、小学生でテニススクールに通っていたとき、ひょうきんな同い年の他校の生徒がいた。ダブルスを組んでいたから一緒に練習することが多かった。彼が叫ぶ。「だめだ! 全然だめ!」彼の言う通り、夏の暑さで動かない足は制球に支障をきたす。僕も動かない足にイライラしていた。「どうして動かないんだよ」と。
コーチが言う。「全然、足動いてないぞ」。友人は「わー、言わないでください。分かってる!あかん!」って言っていた。みんな笑いながら練習を続ける。僕も同じことを言われる。そして返す。「分かってます……」。僕は悔しかった。なんで動かないんだと。自分の足なのに思い通りにいかない左足が憎かった。
そしたら、ボール出しが止まった。
「分かってるんならコーチなんていらねぇだろ」
重い空気。僕は何もいえず立ち尽くした。
消えてしまいたかった。同時に何が悪いかもわかっていて、ふてくされたような態度に拍車がかかる。頭では不満と後悔がぐるぐる渦巻く。内容は同じなのに、どうして僕だけ……。今でもあの悔しさは覚えている。
コーチが悪いわけではない。いまでも圧倒的に自分が悪いとわかっている。不公平感の裏にある不満は、不公平そのものでなく、そちらがわにいけない不器用さにある。どうして僕は彼みたいに上手く振る舞えないのか。どうして僕はあっち側に生まれてこなかったのか。そうした、自分の境遇に対する不満と相手への羨望と嫉妬が僕の嫌いの本質なのかもしれない。
強欲。
もう時間がないからここで打ち切るけど。
僕は多分、強欲なんだ。なにもかも欲しいのだ。
それが手に入らなくて、割り切れなくて。いまもピーピー泣いている。
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