1−3 孤独

幼少期の頃から、人目を避けて暮らしてきた。元来あまり積極的に人前に出るような社交的な性格ではなかったが、人間の社会性が作り出す透明の蜘蛛の糸のような薄っぺらい関係が大嫌いだった。そこに関与させられること自体好きではなかった。母と父もそうだったのかもしれない。

 

 晃が5歳の時、両親は離婚した。当時、幼い心でありながら晃もどのようにしてこの2人が結婚することができたのであろうかと考えていた。それぐらい彼らは性格も価値観も真反対であった。ある朝、父から「お母さんはもう家に帰ってこないからね」と言われた時は、突然の出来事に驚き悲しんだが、そうなることも納得ではあった。

 母の祐子は所謂毒親であった。学生の頃に夜職を経験していたためか酒癖が悪く、晃を出産してからは家事をせず、朝から一日中飲み歩いて、日が暮れ始める頃に帰宅することが殆どであった。父は某有名ウェブサイトのライターをしていたため、金銭面や子育て面で困ることはなく、むしろ生活は充実していた。しかし、帰宅した母が父に対して無差別に怒号をぶつけている様子を見るのは心が痛かった。その怒号に全く動じない父親を見て、結婚前もこのような生活をしていたのだろうと想像できたからだ。そんな様子から、父がますますこの女と結婚した理由がわからなくなっていたが、母が出て行った日に父が言った「一目惚れだったんだよ。最初は」という言葉を聞いて、一気に疑問が晴れた。


 両親が離婚してからは、父はウェブライターから中小出版社の社長に昇進し、生活は安定した。翌年から晃は小学校に通い始め、ようやく〈普通〉の日常が始まった、と思っていた。


 違和感を覚えたのは、その頃であった。

 晃が小学3年生の年の夏、正司は授業参観のために諏訪市立藤森小学校に訪れた。晃は、父親に授業姿を見られることが恥ずかしいらしく「来なくていいからね」と念を押して言われていたが、ちょうど仕事が休みであったため、散歩がてら息子の姿を見に行くことにした。

 何度も入る教室を間違えたが、ようやく3年2組の教室に到着した。しかし、息子の姿はすぐには見つからなかった。やっと見つけたと思ったら、晃は本棚の前で1人、読書をしていた。どうりで見当たらないものだ。晃はヘミングウェイの『老人と海』を読んでいたことを近くに行ってから気づいた。

「ねえ、あの子、大丈夫かしら」又隣の人妻の大きい声が聞こえてきた。どうやら〈あの子〉とは、晃のことらしかった。

「あの子、今井晃くんよね。いつもああやって1人で読書してるんですって」先程の人妻のママ友が、冷やかすような口調で言った。陰口を叩くならしっかりと陰で言ってほしいとつくづく思った。

「息子も同じようなこと言ってた気がする。『話しかけたいけど、話しかけづらい』みたいな」

「あの子、確かシングルファザーよね」昭はそれを聞いて体全体が熱くなった。

「噂によるとね」人妻が声を小さくして続けた。正司は聞耳を立てた。「妻が急に逃げたらしいよ」耳が痛くなった。どこからそんなタチの悪い噂が回ってくるのだろうかと、正司は疑問に思った。

「え…」ママ友は心底気不味い表情で、こちらの方を向いた。又隣の男が晃の父であると気づいた時、より表情に気不味さが増した。その後の45分間の授業は徒に過ぎていった。国語の授業であった。

 生まれた時から、内省的な性格であったのは確かだった。息子は小さな頃から鬼ごっこよりも読書を選ぶような少年であった。そのせいか、集中力に関しては彼の右に出るものはいなかった。1

日中小説を読み漁っていた時だってあった。きっと自分の好きなことに関してはとことん頑張り続けられる性格なのだろうと正司は息子を誇りに思っていたし、むしろ尊敬していた。きっと将来なにか大きな発明やら何やらをしてくれるに違いない、父はそう確信していた。

 晃が帰宅した。晃は父が授業参観に来ていたことに全く気づいていない。その方が正司にとっては好都合だと思い、そのまま来なかったことにした。息子に隠し事をしたのは、これで2回目であった。———1回目は妻が出ていったあの日だったであろうが、今ではあまり覚えていない。

 「晃」父はタマネギを切りながら、息子を呼んだ。今夜はシチューらしい。

「なに」晃は『老人と海』の続きを読んでいる。

「学校、楽しいか」晃の視線が昭の方に向いているのを感じた。

「うん 楽しいけど」怪訝な顔で父を見た。

「そうか、ならよかった」1度目を擦ってから、続けた。「———何かあったら、お父さんに相談するんだぞ」目線をタマネギから息子に向けた。

「何もないから、大丈夫」晃の目線は、すでに本に向けられていた。


 その日の夜、正司は久しぶりに1人で自宅周辺を散歩した。この辺は地方政府の整備が追いついていないらしく、街灯が一つもない。暗闇の中、誰もいない畦道をゆっくりと進んだ。風が強かった。夏の匂いが生ぬるい風と共に彼の鼻の中を通り抜けた。「暑いな」彼はそう言って踵を返した。田舎の畦道には名も知らない虫たちが力一杯鳴いていた。

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