1−2 海

 よく晴れた空であった。それは良い花見日和であった。その日は高校1年生が終了し、2年生が始まって間もない頃の至って平凡な日になるはずだった。


 私が初めて諏訪東高等学校(訳して諏訪東)に訪れたのは、中学3年生の夏休みであった。母、父両方とも一般的には上位校、エリート校などと呼ばれるような大学に通っていたため、わざわざ高い金を払って諏訪東に入学させたのは、娘の私にも偏差値の高い高校に通い、そのまま良い大学に進学してほしいという両親共通の思いがあったからであろう。当時私はそこまでの学力がなかったため、諏訪東の説明会が終わってすぐに地元の塾に入塾させられ、勉強漬けの日々を送った。そこからは時間があっという間に過ぎていき、特に成績が伸び悩むことなく、流れるように諏訪東高等学校に合格した。周りの友達からは「すごいね」「人生勝ち組じゃん」など特に意味のない形だけの褒め言葉をもらったが、私自身、諏訪東に入学することに嬉しさも、悔しさもなかった。別にどこに入学したって良かったからだ。———そういうところはあいつに似てるのかもしれない。


 父が死んだことを知ったのは、その日の放課後であった。その日は始業式から3日後で、授業が午前までしかなかったため、親友の清水芽依とランチの約束をしてから家に帰った。

「おとうさんがしんだ」妹の藍がそう言った時、またいつもの意地の悪い冗談かと歯牙にもかけなかったが、母の里枝の顔を見て、妹が決して冗談を言っていないことに気づいた。里枝の顔は青ざめていた。

「どこで、どうして…」紗江は今まで経験したことのない感情と共に様々な言葉が喉に出かかったが、それら全てを飲み込んで言った。「岡谷で、——事故だって。バスの」里枝の代わりに藍が言う。

 父の昭は柔道整復師をしており、その影響で自宅の一階は彼の職場であった。そのため、父以外の家族は2、3階で生活していた。時々父親自身が患者の自宅に直接訪問し、マッサージなどのサービスを提供する『訪問マッサージ』というものを行っていた。今日はその『訪問マッサージ』での道中で事故に遭ったのだ。岡谷であるなら自宅からそう遠くない。きっとバスが出発してすぐ、事故にあったのだろうと、紗江は推測した。

「お父さんは今どこに…」

「岡谷の病院の安置室にいる」里枝は下を向いたまま続けた。「お父さんに会いに行くよ」

「うん」紗江は制服のまま家を出た。

 紗江は驚愕した。置かれている状況に対する自分の異常とも言える冷静さに驚愕した。涙が出なかった。一粒も。これから会いに行く父親は、私が想像するような優しくて、人よりも声の低い〈いつもの〉父親であるはずだといまだに信じていたからであろう。

 しかし、現実はそうではなかった。

 岡谷の小さな病院の安置室には私の父親とは思えないような、蒼白で気の抜けた男が死んだように寝ていた。いや、死んでいたのかもしれない。紗江は男の冷たい手を握った時、全てを理解した。

「お父さん、何してんの」紗江は声を震わせながら言った。気づけば彼女は泣いていた。喚くように泣いた。呼吸ができなくなる程、泣いた。「今年の夏、海。一緒に行こうって言ったじゃん。家族みんなで」紗江はしゃくりあげながら、そう言い放った。


 紗江はいわゆるお父さんっ子であった。決して母のことが嫌いなわけではなかったが、父が作ってくれる味の濃いご飯も、父が連れていってくれた場所も、全部好きだった。紗江が小学2年生の頃、父と二人で諏訪湖に行ったことは今でも鮮明に覚えている。


 「みて。あの水たまり、大きい」紗江は遠くに見える湖を指差して言った。

「これは、諏訪湖って言うんだ。あんなに大きな湖なのに、全然水、深くないんだよ」

「じゃあこんど、いっしょにおよぎたい。プールみたいに」紗江は握っていた手を強く握りしめた。

「昔の人はたくさん泳いでたみたいだ。だけど今は水が汚くなってしまって、泳ぐ人なんかいなくなっちゃったんだよ」

「だれが水をよごしたの」

「みんなだよ」

「みんなって、おとうさんも?」

「そうかもしれないな」昭は視線を紗江に向けて続けた。

「藍がもっと大きくなったら、家族全員で海へ旅行に行こう。きっと紗江、びっくりするぞ」

「行きたい。でも、どうしてびっくりするの」

「海は、この湖よりもはるかに大きくて、深いからね」

「ふうん」紗江はまだ見たことのない〈海〉を想像して、微笑した。


 今年の春から、舘川健太郎という若い青年が助手として父の仕事の手伝いをしてくれることとなった。その青年は大学を卒業したばかりで、弟子として修行をさせてもらいたいと父に申し出たらしい。その青年のおかげか、父が仕事で外出することが少なくなり、一日中自宅にいることも多くなった。良いタイミングだと思い、紗江が父に頼む前に、父の方から「今年の夏、家族全員で旅行なんかどうだ」と言ってきたとき、紗江はますます父のことを好きになった。そろそろ旅行の準備でもしようかと考えていた矢先、こんなことが起きた。

「紗江。家に帰るわよ」里枝は目が腫れているのを隠すため、帽子を深く被り直してそう言った。

「うん」紗江の涙はもう枯渇していた。

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