異物
琥臥
1−1 イデアル
———人と同じであることは嫌だった。
今井晃は『イデアル』の続きを描きはじめた。『イデアル』とは英語で『ideal』と書き、『理想』といった意味がある。『鴉』や『眷恋の庭』のように、晃の作る作品の題名は漢字やひらがなを使ったものが大半であった ———これも一種の「反抗」だったのかもしれない。——— ので、今回の作品はまだ制作途中ではあったが何か特別なものを感じた。
「いつも、帰ってきたらこうやって部屋に閉じこもってこんなの描いてるの」木村紗江は目の前のキャンバスに向かってそう言い放った。「こんなのって、何だよ」得体の知れない何か———動物にも見えるが昆虫のようにも見える。———の輪郭を描き終えてから、晃は言った。
「だって、こんなの描いて何になるの。金にもならないし、部屋に置いておいても邪魔なだけじゃん」
「そんなこと俺だってわからない。けど、描いてるときだけは現実を忘れられる。そういうとこに惹かれてんのかもね」晃は畳よりも大きい薄汚れたキャンバスを見つめながら言った。時刻は21時を過ぎた。
大学に行きたいとは考えていた。ただ、大学に行ってしてみたいことなど一切なく、父の正司には「とりあえず医者か弁護士になっておきなさい」などと言われていたが、医者や弁護士はもちろんのこと、公務員やプログラマーにだってなりたくはなかった。かといって画家になれるほどの画力と根性は持ち合わせていなかった。じゃあいったいどうすればいいっていうのか。
「ねえ、なんで『イデアル』っていう題名なの。『イデアル』要素なんて一切感じないんだけど」
「質問に質問で返す。紗江にとっての『イデアル』ってなんだ」
「んんと、——— 頭が良くて、背が高くて、お金をたくさん持ってて、優しい人とか?」
「質問が悪かった。紗江にとっての『イデアル』な世界ってなんだ」
「————世界中のすべての人々が平和で、仲良く、幸せに生きることができる世界、とかかな」
「その『イデアル』って実現するのか」
「すると思いたい。けど、実際難しいと思う」
「少なくとも紗江は、実現しないと思っていることはわかった」
「実現しないなんて言ってない」
「じゃあどうしてその世界を理想だと思っているんだ?————理想は人々が独りよがりに考える、叶うことのない空想の世界であるっていうのに」晃は声を荒げていった。彼がここまで大きな声を出すことができるなんて知らなかった。
「———————」紗江は言い返す言葉が見当たらず、黙り込んだ。
「もう一度言う。この現実に『イデアル』なんてものはやって来ない。もしやってきたとしても、もうそれは『イデアル』ではない。じゃあどこに『イデアル』が存在するのか。それは自分で存在させるしかないのだ。このキャンバスの中に。」今度は至って冷静に、淡々と語った。22時だった。
私はこの男に何を質問したのか、全部忘れた。
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