矛楯

メクラだとかツンボとか余人の言うところの差別的な言葉を使うなと息巻く人が矛楯や杞憂を使っていると笑ってしまう。矛楯は韓非子を由来とした言葉であるが、ここで太史公書の韓世家を見てみよう。「韓之先與周同姓姓姬氏、其後苗裔事晉得封於韓原曰韓武子」とのことで、韓の王族の一人である韓非は姬姓である。楚世家を見てみよう、「楚之先祖出自帝顓頊高陽」とあり、「周后稷名棄、其母有邰氏女曰姜原、姜原為帝嚳元妃、姜原出野見巨人跡心忻然說欲踐之、踐之而身動如孕者」とある姬氏とまぁ同族(?)なのである(それにしても神話らしく展開がまったくもってぶっとんでいる)。ただ羋姓熊氏がそうであったとしても一般的に中原の者からして楚は未開で野蛮な地という扱いであった、おそらく南朝が発達するまではそう扱われていただろう。説文にも「娃:圜深目皃。或曰吳楚之閒謂好曰娃」なんて字の説明があって南方の人は顔立ちの好みが違うみたいな文がある。まぁそんなわけで姬姓韓氏の韓非は楚人を無意識に蔑んでいたのだろう。まちぼうけの童謡の出典である守株も韓非子が本であるが、あそこで笑われている宋も「微子開(啓、太史公書は漢孝武の世に書かれたもので孝景皇帝の諱を避けている)者殷帝乙之首子而帝紂之庶兄也」と、まぁあまり印象が良くない国である。孟子も公孫丑上で宋をあげつらっている。杞憂は列子という作者不詳の書が出典であるが、姒氏の杞もそのように扱われているのだろう。白虎通徳論に「禹姓姒氏祖以億生、殷姓子氏祖以玄鳥子也、周姓姬氏祖以履大人跡生也」と大きく分かれるような書き方がされている。そもそも言葉狩り自体がアレで、最近は「屠殺」のことを「と殺」と書いているがあれもやめるべきだろう。周書、左傳、戦國策といった史書だけでなく(周書は史書かと言われるとそうとも言えるし、そうでもないとも言える、となる)荀子なども読めなくなってしまう。


ただ、創作において韓非子の存在しない世界を描く際に矛楯という言葉を避けたいというときがあるだろう。その際は撞着を使うといいだろう。撞は説文によると卂擣也とのこと、卂は疾飛也、擣は手推也で、まぁ鐘を突くような動作を考えればいいのだろう。つまり論理が「つっかかったじゃねぇかよ~」という状態を表している。この撞着という言葉は自然科学系の人には結構なじみ深い言葉ではないだろうか。

Schrödinger方程式は運動エネルギー演算子とポテンシャル演算子を波動関数に作用させたものが波動関数のエネルギー固有値倍になるという方程式である。運動エネルギー演算子は二階の微分なのでこの方程式は微分方程式にあたる。例えば固定された陽子が原点に存在し、電子が一つだけ存在している系では容易に解析的な方法で波動関数を求めることができることはわかるだろう。

電子の数が増えるといくつかの問題が生まれてくる。一つは、波動関数の形状、これは変数分離して一電子オービタルの積でないと扱いづらい。ただし、単純な積にするとPauliのExclusion(Pauli, 1925, Z. Phys.)を満たさず三電子以上ではエネルギー固有値が実験値を上回ってしまうのでSlater行列式の形で書かれる(Slater, 1929, Phys. Rev.)。もう一つはポテンシャル演算子である、これは電子数や原子核が系に増えるたびに複雑になり、解析的に解くことを不可能にしてくる。ここで、まず初めにそれらしい波動関数を与えて、波動関数の汎関数となっている両演算子を作用させた値を求め方程式を解く(Roothaan, 1951, Rev. Mod. Phys.)。一度では元の波動関数と方程式を解くことで得られた波動関数は異なるだろう。ただ、何度も繰り返しをすることで、元の波動関数と方程式で得られた波動関数の間で撞着がなくなる、もちろんポテンシャル演算子が密度の汎関数の形となっていてもよい(Hohenberg & Kohn, 1963,

Phys. Rev; Kohn & Sham, 1964, Phys. Rev.)。このやり方をSelf-Consistentな解法と呼ぶのだが、これの日本語訳は自己無撞着とされる(自己無矛盾を見ないわけではないのだが)。

一方杞憂は良い言い換えが思い浮かばず、これを使いたくない場合は何語かに分割するしかないだろう。ちなみに自分の作品である「宿命なきもの」はそうした独特な文化背景をもつ言葉を用いないように書いていて、他者どころか自分でも読みづらく、とても好きだ。

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