第19話
マントの端をひらひらさせた従僕が廊下へと消えていくのを、ジェラルドは心底羨ましい思いで見送った。
振り上げて、そのまま下ろすだけで、殴るという行為にたどり着く距離にあるクリストファーの腕が、じわりじわりと恐ろしい。
やはり怒りの表情を? と見ようとすれば、視線が届く前に手袋に目を塞がれる。掌で額を叩かれた、と言った方が近いかもしれないが。
「いつまでそうしているつもりだ。早く離せ。そんな場所は夢見が悪いに決まっている」
「わかりましたよ。申し訳ございません、お兄様」
軽い調子に救われた。もしやそれほど怒らせてはいないということもあるのかも? しかし振り仰ぐに勇気は足りず、ジェラルドはそうはできぬまま、姫をソファに抱え上げた。
柔らかく触れる髪に、離しかけて、手は躊躇う。
惜しい……。
だが。
――これきりということもあるまい。
「誰が兄だ。気持ちの悪い呼び方は止せ」
考えが透けたはずもあるまいが、未練も可能性も断固として叩き割るような声が、冷たさを伴い背中に刺さった。
「ワタクシがそうお慕いしているのだという話ですよ」
言いながら(勇気を出して)振り返れば、指が真っ直ぐに狙っていた。その指で誘導されるは、姫から最も離れた椅子だ。
眉間に皺は寄ってはいるが、さほど怒りを燃やしている様子でもない(ように見える)。
そこまでの距離を取らずとも良いのでは。念の入ったことで。と笑う余裕を取り戻し、ジェラルドは選ばれたそれに収まった。
知らず安堵の息がもれる。椅子に座れたのは何時間ぶりだ? そんなことを思い、自分の発想を鼻で笑った。
時間ならどれほども過ぎていないことなら、マントルピースの大仰な時計が教えてくれているではないか。
そう。どれほども過ぎていない。
時間を思えば疑問が生まれた。展開がうまく行き過ぎている。物事の運びがスムース過ぎる。
「……クリス様」
クリストファーは、面倒臭そうに眉を上げたが、遮りはしない。質問は許されているようだ。
「あなた、どちらからお運びになりました?」
早すぎる。どこからにしろ早すぎるのだ。ローダーディルの屋敷はもちろん、今夜開かれている夜会の館、数々の浮名の相手の家からでも、これほどの短時間で駆けつけられようはずがない。
とすれば、と思い当ったことがある。こんな特殊な大騒ぎの後であろうと、そんな辺りの回転は鈍らないのが、ジェラルドだ。
もしやクリストファーは今夜、かねがね噂にのぼりつつも、まさかと打ち消されていたとある高貴な女性との関係を、今こそ掴んだのではなかろうか?
クリストファーは視線を逸らさず、押しつけがましい息をついた。低く言う。
「大変な迷惑だ。今度こそこれまでということになりそうだな」
投げ出すような口振りが少々、冗談でもないように聞こえるのだが、それは彼の芝居か否や。
「それはクリス様、困った事態ではありませんか。この際、お嬢様のお世話はワタクシに任せて、すぐにお戻りになってはいかがです? 素早く事情を説明、いや、自分よりも優先する女性はいないに越したことはない。事情をでっちあげて修復に努めるべき場面ですよ」
「君をそこまで信じることができるなら、随分と幸せだよ。この状況を作った身でよくもそんな発言ができるものだ」
えぇ、それは全くその通り。一言もございませんと両手を挙げて降参を示すジェラルドを、クリストファーは鼻で笑う。そして、
「これは交渉決裂の結果か?」
転がったグラスを足先で弾き。
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